20.友部清三②
役所に来てから、なぜか友部さんは落ち着きがなくなってしまい、ちょこちょこ逸れそうになった。でも、何となく友部さんがどこにいるかは分かったから、然程困ることはなかった。
いや、やっぱり困ってる。この人頻尿だし、時々無視してくる。
俺たちは今、手続きをしに来ている。
到着してすぐ千里さんはどこかに行ってしまった。こういう時だけ動きが速い。
先生はいつも通り窓と扉の使用申請に行ったが、俺はふと雪花さんに声をかけた。
「俺が友部さんといるんで、雪花さんは準備とか先生の手伝い行っちゃってください。」
「いいの?」
「はい。」
「……ありがと。」
何でかお礼を言われた。
俺は自分で申告した通り、友部さんといたわけだが、先程述べたように落ち着きなく彼が動くものだから、俺も落ち着きなく動いているわけだ。
うう、時々待合の人に嫌そうな顔をされる。
しばらく待っていると、先生と何かを持った千里さんがやってきた。
「お待たせ、日笠くん。雪花さんは先に準備行ったから僕たちも行こうか。」
「今から帰れるんか?」
「帰る前に少しだけ散歩に付き合ってもらえませんか?」
「おお、いいぞ。」
視線を合わせて先生が言うと、彼は笑顔であっさり了承してくれた。さすがだ。
「たぶん友部さん、少し難聴だから注意がそれている時は耳元で話したり、手を筒みたいにして声かけてあげると会話しやすいと思うよ。」
「ああ、耳は遠いなって思ってたっすけど。友部さーん、俺と一緒に行きましょ!」
「おお、どこにいくんだっけ。」
聞かれた内容はさておき、良かった、こうすれば伝わりやすいんだ。
1つ悩みが減ったことに安堵していると、ふと視界に申し訳なさそうな顔をしている先生が映った。
「どうしたんすか?」
「いや、後で話すよ。」
それだけを言うと、先生は友部さんを案内しながら奥の部屋に向かっていった。
「ここは?」
「友部さんの過去を見る場所です。」
ほんの僅かに友部さんが目を見張る。それに気づいてか気づかずか、東雲先生は事実を告げていく。
「帰る前にはっきりと申し上げますが、ここは天国の一歩手前のような場所です。帰る前に、一度自分のお身体がどのような状態か、家族がどのような状況かを知っていただきたく思います。」
「……そうか。」
意外にも彼の受け入れは早かった。
俺からすれば不思議だ。フィクションで見ていた認知症とのギャップ、それにこんなにしっかりした人でも認知症と言われるなら、もしかしたら身近な人にも同じような人がいたんじゃないかって感じてしまう。
東雲先生の話を静かに、冷静に聞いた彼はあっさりと過去の記憶の世界へ歩みを進めた。
先日の玲夢ちゃんの件もあって、色々と準備が整っていると安心してしまう。もちろん、気持ちの準備も。
彼の回想の始まりは定年退職のシーンから。
職場の人たちに囲まれ、皆に惜しまれながら退職する。華々しい最後だ。
彼が仕事を辞めると、今度は地域の同世代の人たちから役員会の声がかかる。時に娘や息子からも孫のことを頼まれる。そして、時間が空けば専業主婦だったらしい妻とともにデートに出かける。
彼の周りには笑顔が溢れている。とても、愛される人で、幸せだと思った。
でも、幸せはゆっくり崩れていく。
ここは自宅だろう。
カレンダーを見ると5年前。
『あなた、テレビの音大きいわよ。』
『ああ、すまんの。最近耳が遠くて。』
友部さんは居心地悪そうに笑うと、リモコンを操作して音量を下げた。それを見た奥さんが遠慮がちに提案する。
『補聴器買ったらどうかしら。近所のーーさんも聞き返しが多くなったって言ってたわよ。』
『そうだなぁ。役員がこんなんじゃ面子が立たんな。』
『そういうわけじゃあ……。』
いいんだよ、と彼は笑う。
場面が切り替わると3年前。カレンダーに書いてあった山のような予定は随分減っていた。友人と奥さんとの予定はそこそこにあるみたいだけど、5年前と比べてしまうとどうしてもそう思えた。
同じ椅子に座る背中は一回り小さくなっているように見えた。
『清三さん。ーーちゃんがね、旦那さんの転勤で県外に行くそうなの。寂しくなるわね。』
お茶を差し出す奥さんがそう伝えると、友部さんは不思議そうに目を瞬いた。
『ーーちゃん?』
『やだ、孫の名前忘れたの?』
『あ、ああ、そうだの。うっかり。』
頭を掻きながら居心地悪そうに笑った。
時が進めば進むほど予定は減り、代わりにメモや付箋が増えていく。
少しずつ思い出も記憶も失われていく。はじめはあまり会わない疎遠な人から、次第に親戚や近所の人、日課。
そして、半年前。
場所はおそらく居間。旧日本家屋といった和風な空間。どうやらこの時期から杖を使うようになったらしく、奥さんにもちょこちょこ面倒を見てもらっていたらしい。
こたつに入りながら、友部さんは茶を啜ってむせていた。
『清三さん、やだ、気をつけてくださいね。』
『うっ、るさい! 分かってる!』
今まで怒るシーンなんてなかったから、俺は驚いてしまった。先生はその光景を静かに見守るだけだ。
奥さんは辛そうに目を細めた。
ふと、友部さんの視線が泳いだ気がして、目だけそちらに向けると、認知症グループホームの文字が飛び込んできた。
先生が辛い結果になるって言ってたのは、奥さんが自分をグループホームに入れようとしていることを知ってしまうからか?
そんなことを考えていると、再び場面は変わる。
ここからは靄がかかっていた。たぶん、病院だと思ったが、確認する事は叶わず。先生はすでにリストバンドでこの世界からの脱出を申請していた。
過去の記憶の世界から脱出した友部さんは穏やかだった。
「儂は、愛すべき妻をも蔑ろにしていた。死ぬべきじゃが、死にきれんの……。」
彼は認知症を言い訳にする気はないようで、事実を事実として受け止めている。
「これじゃ、妻も愛想を尽かしているだろう。最期に顔を見ときたかったが、会わす顔もない。」
「そんなことはありませんよ。」
知っている。先生がそういう時は大概大丈夫だと。
先生は友部さんに向けて、少しだけ近づくと何かを耳打ちした。うん、俺は大人しくしとこう。
現世窓に行くと、いつのまにか先んじて向かっていた千里さんはいつもと変わらない表情で淡々と手を動かしていた。
先生は友部さんを座らせると、千里さんに何かを頼んだ。彼はあっさりと頷くと再び手を動かし始める。
俺はいつも通り、雪花さんの隣に座った。
モニターに映るのは病院にいる友部さんと、そのお見舞いに来ている奥さんだ。
「これは1ヶ月前は誤嚥性肺炎の動画です。これから2週間前には心不全増悪の時の動画、直前の動画と順々に流します。」
千里さんの言葉に俺は首を傾げる。現世窓っていわゆるリモート的な物って言ってなかったか?
雪花さんがそっと教えてくれた。
「東雲が2回目の来訪の記録見て、斑目に取っておくように言ったんだよ。」
「さすが……。」
「だよね。初回の動画探すのに苦労しているアイツは見ものだった。」
いや、そっちじゃないんだけどな。
俺は呆れながらも視線をモニターに戻した。
『……残念ですが、清三さんはこのように肺野が白くなっており炎症初見も認めます。今回助かったとしても元の廃用も相まって今後は寝たきりの生活になるかと思いますし、ベッド上の生活により認知症も進行、おそらく家族のことも分からないかと。』
医師は淡々と病状だけを伝える。
家族は険しい顔で聞いており、奥さんはずっと下を俯いている。
『私が夫の面倒をみます。』
『……生命をつなぐためには医学的処置が必要です。どうか今一度ご家族と話し合ってください。』
奥さんは悔しげに下唇を噛んだだけだ。
それから毎日毎日奥さんは来ていた。
2回目の時の動画、友部さんに繋がる点滴とかが増えている気がした。
でも、奥さんは変わらずに傍らに座って手を握っている。とてもでないが、愛想を尽かした人間とは思えないな。俺はつい口元を緩めてしまう。
『ねぇ、清三さん。私、あなたが生きている限りあなたを待つわ。』
『だから、お願い。帰ってきて。』
まるで祈りだ。彼女は毎日、毎日祈っている。
そんな様子を処置に来た看護師さんが見守る。そんな毎日を繰り返す。
『また友部さんのご家族さんいらしてるね。』
『毎日電車で来てるんだって。』
『愛ねぇ。』
看護師さん達は穏やかな目で見ている。だが、その瞳にはどこか同情も映っているような気がして。
そして、3回目。
今度の映像は個室に移る。そこには奥さんとおそらく子ども達、医師、看護師がいた。
『嫌よ!』
『母さん、いい加減にしてくれ! これ以上の延命は本人を苦しめるだけだろ! 前だってグループホームのことずっと断って、母さんの負担にもなってただろ。』
モニターを見つめる友部さんの肩が強張る。
奥さんは子どものように首を横に振りながら、枝のようになってしまった友部さんの手を握っている。
『清三さんは生きているの! 延命措置を止めるって、彼を……。』
『ねぇ、お母さん。私もお兄ちゃんの意見に賛成。お父さんには死んでほしくない。でも、苦しそうだよ。』
『……ッ、それでも、私はこの人とずっと生きていたいの。』
残された人は眠る人の甦りを待ち、生き延びることを祈る。でも、実際に眠る人はどうなんだろう。
永遠の眠りにつきたい人だっているだろうし、甦りたい人だっている。それだけは俺たちには決められない。
ただ、ーー。
「儂も、全てを忘れようとも君のことを忘れたことだけはなかったよ。」
首を振る奥さんを見つめながら、静かに涙を流していた。
あれから、友部さんは命を終えることを選んだ。
ただ、最期に奥さんにあることだけを伝えたいと願った。それを予見していたらしい先生は、千里さんに後のことをお願いしていた。
彼みたいに甦っても言葉を話せず、最後の言葉を残せない人の場合、『夢枕』という措置をとるそうだ。
直接会う事は叶わないも、奥さんの夢の中に友部さんの姿を映し出し、彼が言いたかったことを伝えることができるシステムだそうだ。
言葉だけは知っているが、『夢枕』でもらった言葉を真に受けるだろうか。俺だったら信じないかもしれないけど、あれだけ友部さんのことを愛している奥さんならきっと忘れないし信じられるだろう。
翌日、珍しく雪花さんより先に先生が出勤してきた時に教えてもらった。
「昨日はお疲れ様。」
「先生こそ相変わらずのお導きっすね! 千里さんの情報収集能力も、雪花さんが救助で控えてくれる安心感もさすがっすけど。」
「そうだね。でも、昨日のことに関しては君がいてくれたから僕たちも動きやすかったんだ。」
「あぁ……そういや、やけにお礼言われましたもんね。やれることをやる、当然のことなのに。」
テーブルを拭きながら俺がそう言うと、なぜかテンポよく返事が返ってこなかった。
何だろう、先生の方を振り向くと答えてくれた。
「友部さんがさ、開口一番に雪花さんの容姿を褒めたよね。どう思った?」
「雪花さんは嫌そうだなって思いました。」
前に自分の顔が好きでないって言ってたしな。
「それを感じ取ってくれたことに対するお礼だよ。」
俺は意味が分からず首を傾げるばかりだ。
解が見つからないことを察したらしい先生は、諭すようなあの穏やかな口調で答えを教えてくれた。
「……認知症の人は、時々性的な発言をしたり好意的態度の要求をしてくることがある。表面化しにくかったり自覚しにくかったりするけど、介護の場ではそういったセクハラが日常的に見られることがある。
認知症だから仕方ないって諦める人も少なくはない。でも、それを周りが気づけるか、気づけないかで、被害者の気持ちや働く環境はだいぶ変わるんだよ。」
「確かに、最近は上司が結婚してんの付き合ってんのって聞いたらセクハラっすもんね。」
「君の妙な知識はどこから来ているの?」
確かに、彼は別嬪さん、と言うだけでなく、そのあと雪花さんに別のことも聞いていた気がするし、近づきたがっていた気もする。
ちなみにこれはすっぽ抜けた記憶の中でも、僅かに覚えている中学の同級生が言っていたことを朧げに覚えていただけだ。
「……特に、雪花さんは無闇矢鱈に男性に近づかれるの苦手だからね。」
「そうなんすか? え、てか、俺実は近くで嫌がられてたとか?」
「それはない。多分君のことは可愛い後輩にしか思ってないから。」
「嬉しいけどちょっと複雑……!」
俺が机を叩いていると、扉が開いた。
振り向くと雪花さんが出勤してきた。
「おはよう。」
「おはようございます! 雪花さんは大切な先輩ですからね……!」
「は? 急に何なの。」
明らかに異物を見る目で見られた。
でも、もし俺の行動が彼女のちょっとした助けになっているなら嬉しい。
ただ、この時の俺はまだ雪花さんのことを知らない。
彼女がどんな過去を持って、どんな思いで日々を過ごしていたかなんて。
【ケース報告書】
対象者:友部清三(86)
65歳にて定年退職、その後地域の役員等務めつつ隠居生活を送っていたが、ここ5年で認知症が進行していた。老化に伴い、心不全増悪が出現しベッド上での生活を余儀なくされていたが、最近は嚥下機能の低下も出現しており、時に誤嚥性肺炎を発症することもあった。加齢や長期臥床により、廃用症候群の進行、るい痩も目立っていた。1ヶ月前は誤嚥性肺炎、2週間前には心不全増悪にて黄泉の国を訪れている。
本件は故人となっても疑問はない事例であるが、家族の熱心な延命治療により何度も生還していた。しかし、今回現世窓の家族の様子や経済的負担を鑑みて死を決断した。今後は軽度認知症者向けの施設がある別地区で過ごすことが予定されている。
以上、報告とする。
報告者:東雲標




