9話 「甘い物は好きかな?」
秋が深まってきたのか、気温は随分と落ち着いている。校門前に呆然と立っていても、汗の一つも湧いてこない。下校する生徒たちの衣服も、生地の厚みを増してきている。
そろそろ衣替えをしないといけないし、脚本の改稿もしないといけないし、メールの返信もしないといけないし、なにより作戦を練らないといけない。
雪崩のように押し寄せてくる情報をぼんやりとまとめていると、背後から肩を叩かれた。
「お待たせハル君。さあ行こうか。ついておいで」
黒く長い髪を秋風に潜らせ、律さんが颯爽と姿を現した。僕は足を止める事なく進む彼女の後を追う。
「行くって、どこに行くんですか?」
「良いところさ」
「良いところ?」
「ついて来ればわかる。きっと気に入ってもらえると思うよ」
次の作戦を立てるんじゃなかったのか? 僕は首を傾げながらも、言われるがまま足を動かした。
彼女の足が止まったのは、古びた喫茶店の前だった。
人の気配がなく、見ただけでは営業しているかしていないかも定かではない。学校から五分ほどの距離にあるのに、今日に至るまで存在すら知らなかった。
律さんが扉に手をかけると、鈴の音と共に香しい珈琲の匂いが漂ってきた。
アンティーク調の雑貨が並び、初老の渋い店主がいて、ここだけ時が止まったのかと思えるほど落ち着いた空間が姿を現す。
「こんにちはマスター。いつものを二つ。片方はホットで」
店内に入るや否や、彼女は言葉を置いて奥の四人席へと向かった。軽く会釈を返す店主を横目に見ながら、僕は律さんに続き席に向かう。
店内には他客の姿は見られず、曲名もわからないジャズが流れている。一人じゃ絶対入れないだろうな。格式が高すぎて変な汗が出てきた。
慣れた様子で席に腰掛けた律さんに、僕は気持ち小声で声をかける。
「じょ、常連なんですか?」
「よく来るのか、と問いたいのならばその通りだよ。ここは人の入りが少ない割に珈琲が美味なんだ。こんな事を言うとマスターが怒るかもしれないけれどね」
律さんはボリュームを下げる事なくそう言った。怒らないとわかっていて言ってるんだろうな。僕は固まった身体を無理やり捻じ曲げてようやく席についた。
その動きの最中、財布の中身を見る。千円札が一枚、小銭が少々、なんとかなるのか? こんな上品なところの相場なんてわからない。
「私の奢りだ。安心して良いよ」
律さんは愉快そうに眉を落とし、人差し指を立てた。自然な動きだと思ったのにバレていたか。
「大丈夫ですよ。奢ってもらうわけには……」
「元よりそのつもりで連れてきたんだ。お高いハンカチのお返しだよ」
「お返しだなんて、僕が考えた作戦でしたし」
気を遣ったつもりもなく本心でそう返したが、律さんはそれを否定する様に指を振った。
「知っての通り、私は合理ちゃんだ。感情より論理を重視する傾向がある。しかし同時に、私のせいで誰かが我慢を強いられる状況が嫌いなんだ。君は私の為にわざわざレアなグッズを手に入れてくれたんだろう? そんな君に相応の報いがないと、私が納得できないんだよ」
なるほど。作戦がうまくいった事に舞い上がる事もなく、律さんは淡々とそんなところを見ていたのか。
鈍いんだか鋭いんだが、本当によくわからない。それでも自分の陰ながらの負担に気付いてもらえるのは、なんだか少しだけこそばゆい。
ただただ嬉しいという自分の感情だけがはっきりと分かった。
彼女が合理的であるように、僕は受動的なのだ。それが彼女の希望ならば、今回は厚意に甘えるとしよう。
「わかりました。ありがとうございます」
「よろしい。時にハル君、甘い物は好きかな?」
「まあ、多分人並みには」
「そうか、よかった。マスターすまない。ショートケーキを追加で一つ」
「ちょ、さすがにそこまでは」
人差し指を自身の口に当て、彼女は目を細めた。その仕草で僕の言葉は途絶える。
何も言わず恩返しを受けろと言うことか。なんて嬉しい横暴なんだ。これ以上の口出しは無粋だと思い、僕は途絶えた言葉を胸中に仕舞い込んだ。
程なくしてケーキと珈琲が運ばれてくる。格好つけて人並みには、なんて言葉を吐いたが、僕は甘い物が大好きだ。おまけで言えば、ケーキと珈琲が眼前に並ぶこの状況は非常に心が躍る。
「律先輩は食べないんですか?」
「私は甘い物が苦手でね」
彼女はカップ越しに苺を見つめながらそう言った。
「そうだったんですね。すいません、いただきます」
「どうぞ」
甘いものが苦手。なんともイメージ通りだな。一人だけ食べるなんてますます気が引けるが、出されたものを食べないわけにもいかない。
お辞儀をしてフォークを生地に通す。柔らかい感触を口に運ぶと、溶けるような甘さが一杯に広がった。なんだこれ、こんな美味しいショートケーキ食べたことないぞ。
意図せず綻んだ僕の顔を、正面に座る律さんは見逃さなかった。
「お気に召したようでなによりだ」
どきりと心臓を鳴らしながら、僕は急いで言葉を返す。
「は、はい。本当に美味しいです。こんな美味しいケーキ食べたことないです」
「ふふ。良かったよ。しかし、君は本当に美味しそうに物を食べるね」
「えっ」
律さんはそう言って僕の手元のフォークを手に取った。
端のクリームが掬い上げられ、そのまま彼女の口元に運ばれる。血色のいい唇の隙間に、クリームが消えていった。
彼女は少しの間の後、眉を下ろしてフォークを置いた。
「うーん。やはり私には少し甘過ぎるみたいだ」
「に、苦手なんですよね?」
「そうだね。しかし、美味しそうに食べる君を見ていたら、今日はいけるかもしれないと思ってしまったんだ。実に論理的じゃない判断だったね。笑ってやってくれ」
律さんはくすくすと笑ってカップを傾けた。
健全な男子高校生にはこの状況が高刺激だということを、律さんはきっとわかっていない。わかっててやっているなら、やる相手を間違っている。
ほのかに笑うこの顔も、宗方先輩と話している時にしていれば、僕の作戦なんて必要ないくらいの破壊力があったはずだ。僕の心音が保証する。
僕は手元に戻ってきたフォークを見つめ、ひんやりとした珈琲を口に運んだ。