7話 「案外単純なんですね」
「このシーンなんだけどさ。もうちょっと厚みが欲しいのよね」
演劇部長である安久利紗凪さんは、そう言って髪の毛を払った。
低い位置にある頭から長く伸びたツインテールが、生き物のようにゆらゆらと揺れる。
ぼんやりとした放課後の微睡が、彼女の登場とともに終わりを告げた。
僕はパソコン画面に並んだ文字を目で追いつつ言葉を返す。
「毎回言ってますけど、勝手に足してくれればいいですよ」
「脚本にもちゃんと敬意を払うっていうのが私のポリシーなの。作り手の意図に反するような手の加え方はしたくないのよね」
「面倒なだけじゃないんですか?」
「なにおう。生意気な一年坊主め!」
彼女の小さな手が僕の頭を掴む。大して整えてもいない髪が、ぐわりと形を変えた。弟を揶揄うように満面の笑みを浮かべた彼女の手を払い、僕は大きく息を吐いた。
「痛いですって。わかってますよ。ちゃんと改稿しますから」
「うむうむよろしい」
今から遡ること三ヶ月前。高校に入学して最初の夏の始まり。僕はこの安久利先輩から脚本作りを依頼された。
依頼と言うと聞こえはいいが、「学園祭用の脚本をちょうだい。なるはやで」という横暴を受け入れたのが、文芸部で僕だけだったというのが実際のところだ。
部誌用に作っていた小説を無理矢理切り崩し安久利先輩に献上したところ、彼女はこうやってちょこちょこ僕の前に現れて改稿を要求してくるようになった。
最初の方はいちいちうるさい先輩だな、としか思っていなかったが、脚本への敬意という彼女の言葉が本心だとわかってからは、礼を尽くし僕も毎度毎度しっかりと脚本に訂正をかけている。今回も例外ではない予定だ。
ただ一点。先週までと違って目の前に片付けるべきタスクが積み重なっているというのが辛いところではあるが。
僕は髪を解して彼女の方に視線を向けた。
「というか、学園祭まで一ヶ月もないのにまだ変えるんですか?」
「わかってないなぁ片桐少年。あと一ヶ月もあるから変えるのよ」
「そういうもんなんですかね」
「そういうもんよ。三年間の集大成、高校最後の舞台なんだもん。妥協はしたくないじゃない? 演劇部員全員の許可はもらってるから、気にせず書き換えて良いわよ」
三年生がおらず、ましてや部長にさえやる気が見られない文芸部とは大違いだ。
ひょっとすると部長もあと一年経てばこれほどの熱意を見せてくれるのかもしれない。いや、ないか。
ふんすと鼻息荒く胸を張る彼女を見て、純粋に尊敬の念が湧いてくる。
実際に彼女の演技を見たことがあるわけじゃないし、見たところで僕にその良し悪しなどはわからないだろう。
それでも、目標に向かって力を尽くそうとする姿は純粋に格好良かった。その一端を任されていると言うのは正直なところ誇らしい。
「安久利先輩は今年で卒業なんですね」
「んー? なになにー? 寂しくなっちゃった?」
「いえ、全く」
「っておーい。なれよ。なりなさいよ。ちょっとくらいはお世辞を吐きなさいよ」
寂しいなんて感情は心底湧いていないが、今の僕の現状から考えて、年上の女性からヒントをもらうという貴重な機会を逃す手はない。
せっかくだからこの人からも感性をいただいておこう。
「小説作りの参考に一つ質問してもいいですか?」
「ほほう。どれどれ、言うてみ言うてみ」
「安久利先輩が恋に落ちる瞬間ってどんなときですか?」
僕の言葉で安久利先輩の動きが止まった。
さすが演劇部。見ただけで驚いているということがわかる。この天真爛漫さを律さんにも分けてあげたい。
「まさか片桐少年が恋バナをしてくると思わなかったわ。驚愕、安久利驚愕よ」
「嫌ならいいですけど」
「ちょ。嫌だなんて言ってないでしょ! 答えてあげるってば」
彼女は驚いた顔を一頻りやり終えた後、何かを思いついたようにハッと手を叩いた。
「ん? このタイミングで恋バナは、もしかしてそういうこと? 私へのアプローチ? 少年、気持ちは嬉しいけど、私はみんなの安久利紗凪ちゃんなの。残念だけど……」
哀れみのような目を向けられ、僕は何を察されたかを理解した。なにやら良からぬ誤解が生まれているようだ。
「違いますよ。勘違いして振ろうとしないでください。ただでさえ無残な僕の戦績に傷がつきます」
「あはは。冗談よ冗談」
ころころと表情を変える彼女は、愉快そうに片肘を机に置いた。
「恋に落ちる瞬間ねぇ……。うーん。なんだろ、ちょっとした仕草が気になり始めたり、共通の趣味の話とかで盛り上がったりしてる時とか? あ、こいつのこと好きかも、って思うことはあるかもしれないわね」
「共通の趣味……」
「あとはやっぱり迷信とか定番とかに弱いわ。桜の木の下で告白とかされたら、多分一発ノックアウトよ私。ロマンティックKOね」
「案外単純なんですね」
「聞いておいて単純とは何事⁉︎」
「でも参考になりました。ありがとうございます」
所狭しと動く安久利先輩の眉を眺めながら、僕は感謝の言葉を返した。
単純だの何だの言ってしまったけれど、改稿を文句も言わずに飲んでいる僕にこそこの言葉は相応しい気もする。
とはいえ、今後の作戦に取り入れられそうな感覚を聞くことができた。僕の頷きを見て、彼女は満足そうに立ち上がった。
「参考になったならいいんだけど。多少恩返しにはなった? なったわよね? うんうん。それじゃ適度に改稿よろしく!」
「あ、わかりました。出来上がったらデータ送ります」
「頼りにしてるぜー。よろろろーん」
彼女は不思議な言葉を奏でながら、大股で部室から去っていった。相変わらず揺れる髪が彼女の威厳を奪っているが、いい話の礼に改稿にも力を入れないといけないな。
ノートパソコンに映し出される脚本に目を通しながら、僕は次の作戦に想いを馳せた。