6話 「僕がときめいてどうするんだ」
「随分と大人しい猫さんだね」
律さんは机の上に鎮座する猫を優しく撫でながらそう言った。
『にゃんこ愛で愛で作戦』のため、僕は人生で初めて飼い猫と一緒に登校することになった。
自分でやったことなのに、部室の机の上に猫という状況はかなり歪に見える。
昼休みまで部室で大人しくしてくれていたこの子にも感謝しないといけないな。我ながら大胆な策を講じたものだ。
「うちの猫です。見ての通り大人しいので逃げたりもしませんし、バッチリの配役だと思います」
「たしかエキゾチックショートヘアだったかな?」
「よくわかりましたね。詳しいんですか?」
「猫好きの知り合いがいてね。お名前は?」
「モモです」
「モモ君か。よろしく頼むよ」
律さんが喉元に指を添わせると、モモは心地よさそうな顔つきでころころと鈴のような音を立てた。
この光景だけでも既に僕はやられてしまいそうだが、今回の対戦相手は僕のような雑兵ではなく猛者だ。
それでも元のイメージが悪ければ悪いほどこの作戦は刺さるはず。僕は人差し指を立てて息を吸った。
「では作戦のおさらいです。宗方先輩は食事終わりに必ず、歯を磨くために中庭横の渡り廊下を通ります。僕が合図を出したら、律先輩は見せつけるように全力でモモを愛でてください。おそらく声も届くと思うので、良き台詞があればなおよしです」
「わかった。力を尽くしてみるよ」
「じゃあさっそく中庭に向かいましょうか」
人目につかないように部室から中庭に移動し、宗方先輩の登場を待つ。
放課後になれば吹奏楽部が練習をしにちらほらと現れるが、元よりここは人通りが少ない。それももちろんリサーチ済みだ。今回は宗方先輩だけに見せつければいいのだから。
色の落ちた葉がゆらゆら揺れる中庭に、律さんとモモを配置し、僕は少し離れた場所でその様子を見守る。
緊張感と僅かばかりのわくわく感を胸に秘めしばらく待っていると、渡り廊下に出てきた宗方先輩の姿が見えた。
僕は彼女に向けサインを送った。彼女は静かにうなずき、目線を下げる。
彼女が手を伸ばしても、モモは嫌がることなくその場に留まっている。
クールな女性が猫を愛でる風景。天候もアシストして、やはりなかなか絵になる素晴らしいシーンだ。
廊下を通る宗方先輩が、中庭の人影に気が付いたように視線を向けた。よし。いける。僕は祈りを込めて律さんの決め台詞に耳を澄ませた。
「やあ猫さん。君は本当に美しい目をしているね。お髭もとってもチャーミングだ。撫でてもいいかな?」
熱を含んだ風と共に流れてきたのは、演劇のように大げさな言葉だった。
おや、何かがおかしい。唖然とする僕の耳に、更に言葉が運ばれてくる。
「なんて気品溢れる姿なのだろうか。このまま愛でてしまおうか。なにせ私は猫さんが大好きだからね」
淡々と台詞を言い終わった彼女は、部室同様モモの顎を撫で始めた。
なんと優雅な姿なんだろうか。昼下がりの日差しも相まって、絵画のような美しさだ。
しかしそうじゃない。そうじゃないんだよ律さん。
僕の懸念通り、宗方先輩はその絵を少し見たあと、そそくさと通り過ぎて行った。
そりゃそうだ。クールでおっかないクラスメイトが、なぜか中庭で猫を口説いているのだから。
僕が欲していたのは猫とじゃれ合う可愛らしい姿で、猫を口説く奇妙な少女の姿ではない。
僕は急いで彼女の元へと向かった。
「り、律先輩! なんですか今のは!」
慌てた声を向ける僕に対し、彼女はなぜかやり切った顔をして小さく首を傾けた。
「君が言っていた通り愛でていたのだが。どうだい? 宗方に反応はあったかい?」
「なしのつぶてです。確かに愛でてはいましたが、もっと、きゃーかわいいぃー! みたいな感じだけで良かったんです。可愛さの欠片もありませんでしたよ」
「普段の私からすれば無理をした方だとは思うけれど」
「意外性はあったと思います……」
今回の流れだと、ただただ奇妙な女だと思われたに違いない。まさか演技指導まで必要だったなんて思わなかった。
「どうやら私の振る舞いにミスがあったようだね。すまない」
少し頭を下げた彼女を見て、それ以上の不満は湧き上がって来なくなってしまった。
律さんが凹む必要なんてない。彼女は僕を信じて作戦を遂行してくれたに過ぎない。僕の作戦が浅はかだっただけだ。
恋は焦るべからず! という羽束さんのアドバイスが頭をよぎった。ここはおとなしく、次の作戦への情報が増えたと喜んでおこう。
「いえいえ、僕の配慮が足りませんでした。すいません。まあ、まだ一つ目ですし、最初はこんなもんですよ。のんびりいきましょうか」
「ありがとう。根気よく付き合ってくれるとありがたいよ。そうだ。協力のお礼に、蒔枝の情報を一つプレゼントしようじゃないか」
「ああ、そういえばそんな約束でしたね。とりあえず一旦部室に戻りましょうか」
出来る限り朗らかな顔を浮かべた後、僕はモモを抱えて部室の方に足を進める。
「きゃあ!」
そんな僕の足を止めたのは、背後から聞こえた激しい嬌声だった。
おかしいな。中庭には僕と律さんしかいないはずなのに。
慌てて振り返ると、何かから逃げるように頭を抱えて身を揺らす律さんが映った。
なんだ、律さんはこんな声も出せるのか。一瞬呑気にそんなことを思ったが、焦った彼女の様子でその考えも吹き飛んだ。
「ど、どうしたんですか?」
「は、蜂! 蜂がいる!」
蜂? 今までにない彼女の様子は心底意外だが、刺されたら大変だ。目を凝らすと、身をよじる彼女の近くを、可愛らしい蜜蜂がふわふわと浮かんでいた。
なんだ、思っていたより危険度は低そうじゃないか。
僕が軽く手を払っただけで、蜂はそのままゆっくりと校舎の方へと羽ばたいて行った。
「どこかに行きましたよ。もう大丈夫です」
「ほ、本当だね? 本当にいなくなったんだね?」
「はい。ちゃんと追い払いましたから」
「た、助かったよ。ありがとう……」
恐る恐る上がった彼女の顔には淡く涙が浮かんでおり、いつもの冷淡な表情は全く見られなかった。
へにゃりと曲がる瞳が、じっとりとこちらを見上げる。僕は思わずどきりと身を跳ねさせた。
いついかなる時でも冷静な人だと思っていたけれど、彼女には彼女なりの苦手なものがあるのか。
というか、こんな顔ができるのか。今やってどうするんだ。
煩いくらいに鳴る心臓を抑え、僕は言葉をかける。
「蜂、苦手なんですか?」
「蜂だけじゃなくて虫全般が昔から苦手なんだ。すまないね、恥ずかしい所を見せてしまった」
「いえ、そんな」
言葉を吐き出し、僕は静かに息を吸った。
部長の嘘つきめ。この人のどこがおっかないんだ。
小虫に怯え弱々しく身を震わせる彼女は、とてつもなくか弱くて可愛らしいじゃないか。
百聞は一見に如かず。他聞で人を評するなんてことはしない方がいいな。おっかないと遠ざけて、こんな一面を見逃すことになるだなんてもったいない。
クールで美人な姉ちゃんは、苦手部分で発揮される可愛らしさを持ち合わせているらしい。ギャップによるときめきを身近に感じてしまった。
おい、僕がときめいてどうするんだ。
自身に呆れて息を吐くと、合わせるようにモモがニャアと鳴いた。