32話 「合理ちゃんとキューピッド」
部室に吹き込む風は、少しだけ冬の匂いを運んでいる。学園祭で部誌が完売したというのに、この部屋は相変わらず人の気配が無い。
風に揺れた前髪を払う。僕はキーボードを打つ手を止め、ふうと一つ息を吐いた。
学園祭後、蒔枝さんに聞いた話によると、宗方先輩は校内外問わず女生徒に手を出し、様々な女性と関係を持っている超絶プレイボーイだったらしい。
律さんの計画に勝手に巻き込まれた挙句、蒔枝さんに脅されるなんて可哀そうな人だなという同情もあったが、それすらも数日のうちに消えていった。
要は僕は最初から、彼の『素直なイケメン』という芝居に騙されていたんだろう。
宗方先輩は思ったよりもろくでもないやつで、律さんはクールなフリをして可愛いところが盛りだくさんで、蒔枝さんは温和で包容力があるのにおっかないところもあって、安久利先輩は裏表両面から僕の背中を押してくれていた。
みんなが色んな役を演じてくれていたおかげで、ゴーストライターにも恋のキューピッドにもなれなかった僕が、学園祭後も幸せな日々を送れている。
真面目だと笑われるかもしれないけれど、こういう恩も返していきたいと純粋に思った。
しみじみと物思いに耽っていると、部室の扉が開いた。部員でもないのに馴染みの顔が、何食わぬ顔で部室へと入ってくる。
「やあハル君。今日も一人なんだね」
「相変わらずで驚きますよね」
「ふふっ。見慣れすぎて驚きもないよ」
道着姿の律さんが、甘い香りを連れて僕の隣に腰かけた。部活の休憩中に足を運んでくれたんだろう。
弓道場とこの部室はそれほど近くない。それが分かったのもつい最近だけれど、そんな中わざわざ足を運んでくれる彼女は相変わらず愛らしい。
彼女はしばらく僕の顔を凝視した後、ゆらりと首を傾げた。
「浮かない顔をしているね。考え事かい?」
「いえ、大したことじゃないんですけど。結局僕は恋のキューピッドにはなれなかったなって、思い返していたんです。これも今後の小説に活かせそうだったので」
「芳崎にも見習ってほしい勤勉さだ」
律さんはくすくすと笑みを浮かべる。なぜだか「春だなぁ」なんて言葉が頭に浮かんだ。
季節外れの感想をもたらした彼女の微笑が、僕の体温を上げた。
「だがそこは解釈の違いだね。私はそうは思わないよ」
「えっ?」
「意外と甘え下手だという君のギャップに私はときめいた。計画に向かって一緒に脳を動かすのは楽しかったし、弁当で胃袋も掴まれた。なっちゃんと紗凪さんと蒔枝の三人には外堀を埋められていたし、体育倉庫に閉じ込められた時は柄にもなくドキドキしていた。今思えば、私は随分と早い段階で恋に落ちていたのかもしれないね」
彼女は細くて長い指を一本一本上げながら言葉を紡いでいく。
「つまり、君が放った恋の矢は、しっかりと私に刺さっていたよ。おかげで私は恋を知ることが出来た。そして――」
運動部の声が遠くから漏れ聞こえてくる。見慣れた微かな笑みが、期待をはらんだ瞳に変わった。
「もちろんこれからも私に恋を教えてくれるよね? キューピッド君」
そこまで言い切って、彼女はへにゃりと口元を歪めた。
格好つけて照れたんだろう。本当に、なんて可愛らしい生き物なんだ。
僕の矢はしっかりと刺さっていた。刺す相手も、好意を向けるべき先もとんちんかんだったけれど。
僕は如何ともし難いこの高揚を、全て頷きに込めた。
「そ、そろそろ休憩が終わるから戻るとするよ。じゃあまた、部活終わりに」
慌てて立ち上がる律さんに、僕は言葉を向ける。
「はい、また部活終わりに。律さん、大好きです」
「ばっ。き、君は! もう、本当に意地悪だな……」
最大限に顔を赤らめ、彼女は部室から去っていった。
意地悪で言ったつもりなんてないし、僕の顔も彼女同様真っ赤に染まっているに違いない。けれど彼女のあの顔が見られたなら、本当なんてどうでもいい。
窓から吹き込む秋風は、さっきより多く冬の空気を運んでいる。ノートパソコンを見つめると、なんだか今まで以上に筆が乗る気がしてきた。
次書く話は、お砂糖がたっぷり入った甘い甘い物語にしよう。
合理的に見えて照れ屋さんな可愛い女の子と、頼りないキューピッドの話なんてどうだろうか。
僕は幸福を噛みしめながら、ゆっくりとキーボードを叩いた。
これは、翼も弓矢も持っていない恋愛初心者の僕が『恋のキューピッド』になるまでのお話。