31話 「不安なら証明してあげよう」
「律先輩、最後に一つだけ伝えさせてください」
律さんの瞳が僕の瞳を射抜いた。うるさかった音は全部聞こえなくなった。聞こえるのは自分の心音だけ。
仮にもキューピッドを引き受けていたんだ。拙い僕の経験よ、当たらないのはわかっているけれど、せめて弓を引く力を貸してくれ。
僕は大きく息を吸う。馴染み切った部室の空気が、僕の肺を満たした。
「好きです。本当は背中を押したくもないくらい、先輩のことが好きです」
「ハル君……」
ほら、予想通り困った顔をさせてしまった。でもこれで良い。ちゃんと言えた。
これまでの作戦の駄賃に、これくらいのわがままくらいは許して欲しい。
僕はもう一度息を吸って、最大限の笑顔を貼り付けた。
「……でも、応援したい気持ちも嘘じゃないんです。だから、僕は想いを伝える以上のことは望みません。これでおしまいです! はあ、やっと吐き出せてすっきりしました! こんな時にややこしいことを言ってすいませんでした。さあ後夜祭に行ってください! 想いを聞いてくれて、ありがとうございました」
早口でそう言い切って、じっと見つめていた目を逸らす。
やはり僕は人の目が得意じゃない。中身を覗かれているような気がして落ち着かなくなる。今後直すとしたら、まずこういうところからだな。
僕は振り返り窓の外を眺めた。相変わらず賑やかな遠くの光が、じんわりと滲んだ。
「すまない。君の想いには応えられない」
背中越しに言葉が返ってくる。
わかっていたから、別に返事は言ってくれなくてもよかったのに。変なところで律儀だなほんと。
布の擦れる音の後に彼女の足音が響いた。どうやら空気を読んで後夜祭に向かってくれたらしい。
これでようやく全ての幕が降りる。避けられたはずの失恋の痛みを連れて、明日からは平凡な日々が始まる。
僕にしては頑張ったほうじゃないか? 偉いぞ僕。今日はうんと美味しいものを食べよう。
「頑張ってくださいね。応援してますから」
瞳を閉じ、窓に向かって小さく声を向ける。もう届いていないかもしれないけれど、この気持ちも本心だ。
どうか彼女の恋路に幸がありますように。祈りを込める僕の手に冷たい感触が伝った。
蛍光灯の光を反射した窓ガラスが、僕の後ろに像を映す。
「応援なんて、しなくていいよ」
振り返ると律さんが僕の手を握っていた。
ひんやりしていて心地いいと感じたのは、僕の手に汗が滲んでいるからだろうか。
諸々をやってのけた安心感からか、僕は一瞬ぼんやりとそんなことを思った。でも違う。この人がここに残っている意味が分からない。
「な、何やってるんですか? 完全に後夜祭に行く流れじゃないですか!」
「私に流れを求めるなんて、君は酷なことを言うね」
「そんな難しいこと求めてません。文脈ですよ文脈!」
「君のほうこそ。私の言葉を正確に読み取って欲しいものだね。言っただろう? 君の想いには応えられないと」
ああもう。駄目押しをくらうとは思わなかった。ただでさえ余韻に浸ってた自分が急激に恥ずかしくなってきているのに。
僕のダメージ耐性の無さを甘く見ないでほしい。
「聞こえてましたって! 二回も振られたらさすがに心がズタボロになりますよ!」
「なるほど、そう取られてしまったか。それではまず誤解の訂正からしようか」
冷たい手が僕の身体をひねる。目の前に律さんの顔がやってくる。
「私は、後夜祭に行けという君の想いには応えられない」
「は? えっ?」
「そして、君の言葉への返事はまだ済んでいない」
律さんは空いた手で僕の前髪を払った。返事がまだ? じゃあ僕が文脈を読み違えていたのか?
間抜けな顔を浮かべながら、僕は律さんの言葉に耳を向ける。
「昨日、君は紗凪さんと二人で話をしていただろう?」
「はい、してましたけど……」
「その姿を見て、自分でも不思議だったけれど私は苛立った」
「苛立ち? もしかして僕、悪いこと言ってましたか?」
律さんが幽霊姿でやって来た、あの時の話だろう。
確かに苛立ちのようなものをなんとなく感じていたけれど、身に覚えがない。僕はただ安久利先輩の格好良さに感激していたくらいなのだから。
彼女は弱々しく眉を落とし、淡く微笑んだ。
「ただの嫉妬だよ。あの後紗凪さんに言われて、初めて自分の気持ちに気が付いた。つまり、仲睦まじく話す君たちを見て、私はやきもちを焼いていたんだ」
彼女はそう言ってようやく僕から身を離した。彼女の視線がゆっくりと部室を巡り、窓の外へと向かっていく。
やきもち。自分以外に愛情が向けられているときに発生するあれか。そんな感情が律さんにもあったなんて驚きだ。というか、それはつまり。
「そんなこと言われると、好意を持ってもらえていると勘違いしてしまいますよ」
「勘違いも何も、その通りだよ」
彼女の目が僕の目を捉える。艶やかな水晶から目が離せなくなった。
「最初は面倒事を引き受けて、その度頭を悩ませて、どこまでも合理的じゃない子だなという興味だった。でも時が経つにつれ、この部屋で君と話をする時間が純粋に楽しくなっていた。愛おしくて、もっと知りたくなって、些細なことに心が揺らされて、知らない感情がたくさん湧き上がってきて……。そしてとどめがそのやきもちだ。さっきのメールの話で伝わったと思っていたけれど、やはり私は想いを伝えることに長けていないようだね」
言葉なくただただ目を向ける僕に、律さんは言葉を続けた。
「私はきっと、君に恋をしている。論理的に説明なんて出来やしないし、これが合っているかもわからない。これが私らしくないのもわかっている。ただ間違いなく言えるのは、君のさっきの言葉が嬉しくてたまらない。改めて言葉を返すよ。私も君のことが好きだ。だからもう計画なんて要らない。この胸の高鳴りが、恋が素敵なものだと証明してくれているよ」
ドンドンという太鼓の音が聞こえてくる。後夜祭の方で何か始まったんだろう。いや、これは僕の心臓の音か? もうどっちかわからない。
観客は誰もいない。色気のない古ぼけた蛍光灯が光るステージ。舞台にいるのは僕たち二人だけ。
こちらに向いた彼女の顔は、先ほどとは比べ物にならないほど赤らんでいた。僕は急いで自身の頬を叩いた。
「ど、どうしたんだ急に!」
「え、いや、どこからが夢だったのかなと」
「――ふふふっ。随分と古典的な表現だね。大丈夫、ちゃんと現実だよ。君の想いは受け取った。そして好きという私の言葉も夢じゃない。不安なら証明してあげよう」
律さんのひんやりとした手が、僕の両頬に触れた。
鈍い光を背景に、瞳を閉じた彼女の顔が近づいてくる。合わせて目を閉じると、唇に柔らかい感触が伝わる。
時計の針がかちりと音を立てたタイミングで、その感触が唇から離れていく。それがどれくらいの時間だったかは全く分からないけれど、何が起こったかはわかった。
現実、本当に現実だ。手の先に律さんの顔があって、真っ赤な顔が優しく僕の方を見つめている。
星みたいにきらきらと輝いている瞳が、僕の方を見たり逸れたり、せわしなく動く。
どうにも言葉が出てこない。この感情を表す言葉を、僕は知らない。
演劇を見た時のように、すごい! というあやふやな表現しか浮かんでこなかったから、何も言えなかった。
「だ、だめだ。耐えられない。何か言ってくれ」
無言の間を先に切ったのは律さんだった。彼女は大袈裟に身を離した後、教室の真ん中で蹲った。こんな彼女の姿、見たことがない。
「だ、大丈夫ですか?」
急いで駆け寄った僕を、彼女は顔を伏せたまま手だけで制する。
「大丈夫、来なくていい。ただ顔が火照って、頭がグルグルしてきた。急に恥ずかしさが」
「律先輩こそ古典的ですよ。笑いませんから顔を上げてください」
一歩足を寄せる。律さんは器用に足を動かしてその分距離を取ろうとする。
「い、いやっ。無理っ! 無理だ。恥ずかし過ぎる。見ないで」
僕には加虐趣味は無い。それでも、ただでさえ飛び跳ねたいほど嬉しいのに、おまけでこんな姿を見せられてしまっては、悪戯心まで湧き上がってきてしまう。
普段高々と聳え立っているクールという防波堤が、羞恥心で決壊したようだ。
「こっちこそ見ないのは無理です。先輩、今までで一番かわいいですもん」
「かっかわっ!? 君は急にそんな言葉をっ! や、やめてくれ」
「りょ、両想いってことでいいんですよね? 合ってます? 間違っていたら大変なんで!」
「合ってる! 合ってるからぁ!」
じりじりと身を寄せると、ついに彼女の背が壁に到達した。
しゃがみながら身を捩らせる律さん、それを追い詰める僕。とんだ変態構図じゃないか。
さっきまであんなに落ち込んでいたのに、彼女の言葉を聞いた今ならなんだってできる気がする。
「ま、蒔枝……。助けて」
律さんが追い込まれ際に放った言葉に合わせて、部室の扉が開いた。僕は慌ててに二、三歩足を下げる。
手をひらひらと動かして部屋に入ってきたのは、間違いなく蒔枝さんだった。すごいな、正義のヒーローみたいなタイミングだ。
ヒーローはにたりと口角をあげ、空いた席に腰かける。
「やーよー。助けてあーげないっ。というか外にいたの気づいてたんだ。気づいててあんな大胆な行動をとっちゃったの?」
「……うん」
「あはっ。さすがとしか言いようがないね」
僕はさらに足を三歩引いて、蒔枝さんの方を向いた。
「えっ、外に? いつからいたんですか?」
「んー? 代打ちの話あたりから?」
「最初も最初じゃないですか……」
何ということだ。この舞台にもちゃんと観客がいたらしい。僕も急激に恥ずかしくなってきた。
結果騙していなかったとはいえ、彼女もゴーストライターについて知っていたわけだ。遅れていろんな気まずさが浮かんできた。
「全部知ってたんですよね?」
「うん。知ってたよ。なりすましも今までの諸々も」
「すいません……」
「あはは。知ってて放っておいたんだから、どちらかというと悪いのは私じゃない? ようやく見たいものが見られたから、蒔枝ちゃんは大満足です!」
「見たいもの……?」
彼女の指がゆらゆらと揺れる。
「私の大好きな女の子が、心優しい少年と結ばれるっていう物語だよ。恋をしてみろって諭した甲斐があったね。宗方圭吾みたいな軽薄で浮気な奴に、律の恋人役は任せられないからねぇ」
蒔枝さんは囁くようにそう言って、両手の指で景色を囲った。指の先には雑多に置かれた机が並んでいる。
宗方圭吾みたいな軽薄で浮気な奴という言葉、諸々を知った上で全てを容認していたいう事実。その二つに引っ掛かりを覚えた途端、椅子に座る彼女の姿が今までよりも大きく見えた気がした。
「蒔枝さんには、いつからこうなる絵が浮かんでいたんですか?」
「んー。な、い、しょ。その方がミステリアスでいいでしょ? 終わり良ければ全て良き良き!」
「そ、そうですね……」
彼女は手を下ろし、ミステリアスさのかけらも無い可愛らしい笑みをこちらに向けた。
内緒と言われた以上僕に踏み込む勇気なんてないけれど、多分僕よりもこの人の方がよっぽどキューピッドとして暗躍していたのだろう。なんとなくそれだけはわかった。
僕の視線にむふふともう一度笑みを浮かべ、彼女は未だ蹲る律さんに視線を移した。
「りーつー。いつまで隅っこで照れてるのさ」
「だ、だってぇ」
「ほっんと高低差が激しいんだから。お祝いついでに後夜祭行こうよー。ね、行こ行こ!」
蒔枝さんは立ち上がって僕の腕を掴んだ。
「早く復活しないと、さっそく晴幸君もらっちゃうよ? いいの?」
「だ、駄目だ! ハル君はもう私のものなんだから!」
「いやん」
蒔枝さんの言葉に食いついた彼女は、大急ぎで立ち上がり僕の腕を引っ張った。顔つきにはまだまだ赤さを引き連れている。
この人は気がついていないのか。今とてつもなくキュンとする台詞を吐いて、キュンとする行動をとっていることに。
僕の心を読んだかのように、少し身を離した蒔枝さんがこそりと耳打ちをしてくる。
「可愛い生き物でしょ?」
「本当にそう思います」
「あははっ。ちゃんとお世話してあげてね。よし! さあ後夜祭だぁ! 何から食べよっかー!」
蒔枝さんに引きずられながら、僕達は部室を後にした。
明かりが落ちた部室を振り返って、僕は茫然と起こった出来事を思い返す。
演劇は上手くいった。部誌も完売した。キューピッドとしての役割も終わった。想いも伝えられた。
この一ヶ月ほどでやってきたことの全部が全部、ちゃんと報われた気がする。
そこまで考えて、重要なことを思い出した。
「あ、そうだ。僕かなり宗方先輩の背中押しちゃったんですよ。こんな状況で後夜祭に行くのはものすごく気まずいんですが……」
「別に私は構わないよ」
「律先輩はそうでしょうけど……」
「宗方だって気にしはしないはずさ」
ようやく少し冷静さを取り戻したのか、律さんは落ち着いて言葉を返してくる。
それでも上がりっぱなしの口角が彼女のご機嫌さを表していた。
仮にも僕は宗方先輩と律さんをくっつけるために動いていたんだ。
そんな奴が横から美味しいところを持っていったとなれば、彼も腹を立てるに違いない。僕はヒールにはなりたくない。
そんな僕の思考を遮ったのは蒔枝さんの含み笑いだった。
「むふふふふん。大丈夫。晴幸くんが思っているようなことは絶対に起きないよ」
「えっ?」
「私の大切な二人になんか言って来ようもんなら、ただじゃ済まないぞって脅しといたから。姿すら見せないんじゃない? とにかく気にしなくていいよ。君は蒔枝お姉さんと大切な彼女を楽しませることだけ考えること! 青春を謳歌するぞー! おー!」
「お、おー……」
一番おっかないのはこの人なのかもしれない。ぼんやりとそう考えながら、僕たちは祭りの音に向かって足を進める。
彼女の言葉通り、彼の姿を見ることなく、楽しい学園祭の夜は更けていった。