29話 「ムカついた?」
部室は恐ろしく静かだった。開放されていた扉は閉じられているし、中から人の声は聞こえてこない。
まだ学園祭は続いているのにどうなっているんだろう。
疑問を抱えたまま扉を開くと、中には安久利先輩がいた。
先ほどまで部長がいた席に腰掛ける彼女の他に部員の姿は見えない。というか彼女は部員ですらないけれど。積まれていた部誌の姿も見えない。
これは……。本当にどうしてしまったんだろう。
「あ、安久利先輩……」
「遅かったわね片桐少年。待ちくたびれて石像になっちゃうところだったわ」
「す、すいません」
謝った後に気がついたけれど、僕は謝るようなことをしていなかった。とぼとぼと空いた席に腰かけると、ソースの香ばしい匂いが漂ってくる。
「みんなはどこに行ったんですか?」
「部誌完売したから、各々散って行ったわよ。というか、亡者みたいな顔してどうしたの?」
「どうもしてないです。って僕そんな顔してますか?」
「そんな顔しかしてないわ。食べる?」
彼女は僕の方にたこ焼きを差し出した。匂いの正体はこれか。ゆらゆらゆれる鰹節を眺めると、さっきの気持ち悪さが戻ってきた。
「いえ、お腹がいっぱいなので」
「そう? 美味しいのに」
僕が断ると、彼女は口を大きく開け一気に二個ほどそれを放り込む。
人の部室でたこ焼きを頬張って、この人は何をしてるんだ。自由気ままさに溜息が出たが、公演以降で彼女に会うのはこれが最初になる。
彼女はたこ焼きに夢中で話を振ってくる様子もないし、気晴らしに感想の一つでも返しておこう。
「公演お疲れ様でした。ちゃんと見に行きましたよ」
「ひっへるふぁひょ」
「えっ?」
「――んぐっ。知ってるわよって言ったのよ。初日一回目の公演、前から七列目、左から六つ目の席でしょ」
自身の席を思い返してみるけれど、なんなら僕が正確に覚えていない。けれどそのくらいと言われればそんな気がする。
「わかったんですか?」
「舞台から客席って、意外とよく見えるのよ。というか、隣に幽霊連れてればすぐ分かるでしょ」
「ああ……」
そうだ。僕の横で真っ白い幽霊の姿をした律さんが視線を集めまくっていたじゃないか。
「それで? どうだった? 良かったでしょ?」
「はい。本当に良かったです。みなさんかっこよくて、僕の想像をはるかに超えてました」
「ふふっ。ありがとね。おかげさまで公演は大成功よ。客の入りも、部員の演技も、最後を飾るにふさわしい出来だったわ」
彼女は満足そうにたこ焼きを更に口に運んだ。
大成功、それは何よりだ。そんな余韻に浸りきるわけでもなく、改めてこの人はこんな人波から外れた部室で何をしているんだろう。
「そういえば、何しに来たんですか?」
「ほうほう、ほれほみへはふへ」
「何も聞き取れないんで、一旦食べるのやめてくださいよ」
彼女はたこ焼きを飲み込み、鞄の中からごそごそと紙の束を取り出した。
「演劇のアンケート。脚本について書かれてあるものをピックアップして持ってきたから、見せに来たの」
彼女は座ったまま僕のほうに束を向けた。僕は渋々立ち上がりそれを受け取り、夕日の仄かな朱色が映える文字をぼんやりと目でなぞった。
もちろん褒め言葉だけじゃない。イラっとするものもあれば、ぐさりと刺さるものもあった。なんならそっちの方が多かった。
良いところだけを抽出して持ってくることも出来ただろうに。今の僕にこれはちょっときつい。
胸やけがさらに強くなる。
僕だって作れって言われて急いで作ったんだよ。そんな言葉を吐こうと思ったけれど、それが自分の不出来さを慰めるだけの言い訳だと気が付いて、怒りはあっさりと溜息に代わった。
僕が心の内を表明する前に、安久利先輩が口を開いた。
「ムカついた?」
「えっ?」
「その感想。見て悔しいって思った?」
「……はい」
「あははっ。良かった。見せに来たかいがあったわ」
安久利先輩はたこ焼きが入った舟皿を置き、まっすぐこちらを見つめた。彼女にしては珍しく、どういう感情の顔なのかわからなかった。
僕もどういう顔を返せばいいのかわからず、アンケートに視線を戻した。『脚本から登場人物の個性が感じられなかった』という文字が、もう一度僕の心を突き刺してくる。
「最初に脚本もらった時さ、私びっくりしたの。ダイヤの原石発見しちゃったんじゃない? ってかなり浮かれたわ。それだけじゃなくて、改稿もしっかりこなしてくれたし、こっちのオーダーにも応えてくれたし、盛り上げるための仕掛けまで用意してくれた。そういう過程もあるんでしょうね、私はあの脚本のことを完璧だと思ってた。だから実は私も悔しい」
彼女は笑顔を浮かべながらも下唇を噛んだ。ただただ悪戯に僕に感想を見せに来たと思っていたけれど、どうやら様子を見たところそうじゃないみたいだ。
紙が擦れる音の後、安久利先輩の言葉は続いた。
「前に言ったでしょ? 私はこの脚本は卒業公演にふさわしい最高の作品だったと思ってる。終わった今もそうよ。それが評価されないのは正直腹が立ったわ。でも感想っていうのは大切な成長剤なの。観客はその日に至るまでの過程なんて見ない。少年の頑張りなんて、見ている人は知らない。そんな人達の意見って、無神経に見えて結構刺さっちゃうのよね」
「そう、ですね……」
追い討ちをかけられた気分だ。確かにムカついたし悔しかったけれど、その根源には痛い所を突かれたという気持ちがある。
観客は純粋に僕の脚本に評価を下している。その結果がこれだ。
落ち込みを深めようとした僕に、安久利先輩は満面の笑みを向けた。
「あんたの過程は私が存分に評価してあげる。最高だったって、何回でも言ってあげる。だから落ち込まなくていいわ。必要な意見はしっかりと吸収して次に活かしなさい。必要ない誹謗中傷は安久利ヤギが読まずに食べてあげるわ!」
彼女は息をほとんど挟まず台詞を言い切り、愉快そうにたこ焼きを頬張った。
なんだよ安久利ヤギって。でもなるほど。彼女は部員でもない僕の成長を促すために、わざわざ見たくない意見を持ってきてくれたのか。
この人は曲がりなりにも、いや失礼か、れっきとした演劇部部長だ。
僕の想像が及ばないほどのこの公演にプレッシャーを感じていただろうし、今までに様々な批判も受けてきたのだろう。それこそこんな感想よりももっと深い物を。
それなのに僕の背中を押そうとしてくれている。次に向けての糧にしろと言ってくれている。
さっきまでのイライラがすっと晴れて、じんわりと暖かいものが湧き上がってくる。
何枚にも渡るこの感想たちよりも、彼女の言葉だけで過程が報われた気がした。
「ありがとうございます。がんばります」
悲しいときに人は涙を流す。嬉しいときにも人は涙を流す。楽しくても、悔しくても、恨めしくても、憤っていても。
僕の目から涙が零れた。ここに来るまでに色々あったせいで、これがどれに該当するのか、僕には良く分からない。急いで涙を拭う。
安久利先輩はそんな僕を茶化すこともなく、今までいちばん柔らかい声を出した。
「関わったからには最後まで見届けるっていうのが私のポリシーなだけよ。あと伸びそうな芽に水を遣らないなんて考えられないわ。来年も片桐少年には書いてほしいしね」
「ふっ。結局そういうことですか」
「当然! 少年が向き合ってくれたから、私が居なくなる次も託したいって思ったのよ。来年ちゃんと見に来るから、成長を見せてよね」
彼女はブイサインをこちらに向け、ソースのついた口で笑顔を作った。
関わったからには最後まで見届ける、向き合ってくれたから、か。
思わぬ形で視界がクリアになった。というか、やるべきことで覆われていた脳が、自分のしたいことに目を向けてくれた。
脚本のことだけじゃなくて、僕にはきっとまだこの学園祭で成長する余地がある。落ち込むのは、全部終わってからでも遅くない。
「ちょっと顔色が晴れたわね。さっきはモグラみたいな顔してたもん。実物見たことないけど。何に悩んでたかは知らないけど、せっかくだから少年の悩みとかも聞いてあげられるわよ。どうする?」
「いいえ、大丈夫です」
「そ。安心したわ。よし! やる事もやったし、最後の学園祭楽しんでくるとするわ」
彼女は満足そうに舟皿を空にして立ち上がった。
「あ、アンケート――」
「全部しっかりと読んでから、感想付きで私に直接返すこと! それより、少年もしっかり学園祭を楽しみなよ。祭りはこれからだもの。よろろろーん」
最後の最後まで良く分からない言葉を吐いて、彼女は部室から去っていった。
窓の外の朱色には、まったりとした闇が近づいてきている。もうすぐ夜になる。後夜祭が始まる。
あれだけ尊敬できる先輩のポリシーであれば、見習って悪いことなんてないはずだ。
『関わったからには最後まで見届ける』。結果がどうであれ、それが今僕がしたいこと。そして、先に進むため僕がしないといけないこと。
僕は携帯電話を取り出し、もう送るはずがないと思っていたアドレスにメールを送る。
『後夜祭が始まったら、文芸部の部室に来てください。お話があります。』
ボタン一つで僕の心が電波となっていく。あまりにあっけないけれど、これで僕の逃げ場はなくなった。
あとは律さんにも後夜祭に行くようメッセージを送って、ちゃんと全部綺麗にしよう。
僕は大きく息を吸ってメッセージアプリを開き、後夜祭の始まりを待った。