23話 「あれ以外は考えられません」
朝起きて携帯電話に通知が来ているという状況。
少し前の僕ならば妙な緊張感を抱いていただろうけれど今は違う。
ゴーストライター生活を始めてからというもの、それが日常茶飯事になっていたからだ。
しかし、今朝のメッセージは久々に僕の心を揺さぶってきた。
一通はいつも通り蒔枝さんから、もう一通は部長からのメッセージ。珍しいなと思い文芸部のグループチャットを開くと『部誌が届いたので、今日は全員集まるように』という文言が浮かんでいた。
今日を含め、学園祭まで残すところ三日という際際になって、ようやく部誌を拝めるらしい。
鼻息荒く任せておけと言っていたくせに、部長がなかなか入稿を終えなかったせいで、随分と長くお預けをくらってしまった。
心を浮つかせながら携帯電話を置き、僕は登校の準備を始めた。
「そう言えば、先輩は学園祭で何かするんですか?」
機嫌よく午前の授業を受け、昼休みがやって来る。
僕はもはや日常風景と言っても過言ではないほど部室に馴染んでいる律さんに言葉を投げた。
「何、というのは?」
「えっと、部活とか、クラスとかの出し物があるのかなと」
「もちろん両方あるよ」
律さんはほうれん草の和え物を口に運び、視線を宙に動かした。
先日の『キャッチキャッチストマック作戦』以降、彼女は弁当を持参するようになった。
どうやら自身でレシピを調べて作ってきているようで、味付けやメニューが徐々に律さんカラーになってきている。
変わらず行われているおかず交換が、最近の僕の楽しみでもある。
「部活の方は弓道体験をやることになった。おもちゃのような簡易版だけどね」
「へえ。律先輩って弓道部だったんですね」
「言っていなかったね。ふふっ。君も興味があれば来てみるといい」
「か、考えておきます」
運動能力に自信がないせいであやふやな返事を返してしまった。
律さんは弓道部だったのか。イメージ通りというかなんというか、今更知ることになるとは。
しかしまあ、律さんの弓道姿が拝めるのならば、行ってみる価値はありそうだ。
品のない妄想を打ち消す様に、僕は口を開いた。
「クラスの方は何をするんですか?」
「お化け屋敷をするらしい。とは言え、そちらはあまり関与していないけれど」
「関与していない? 部活のほうに力を入れてるからですか?」
「いいやそうじゃない。私が手伝いに行くとみんなが萎縮するからね。当日のお化け役だけ引き受けたんだよ」
「別に萎縮なんてしないんじゃ――」
そこまで言葉を並べて、僕は思わず口をつぐんだ。部長がかつて言っていた言葉が頭に浮かんでくる。
昨年の学園祭で、彼女は他の生徒と揉め、そのせいで合理ちゃんと呼ばれることになった。今の今まですっかり忘れていた。
僕の阿呆め。このトークテーマは地雷じゃないか。
急に慌て始めた僕を見て、律さんはいつもと変わらぬ様子でこちらに笑顔を向けた。
「わかりやすく慌てなくてもいい。その様子を見たところ、芳崎にでも去年のことを聞いたのかな?」
ご名答すぎる。話を変える余地もない。
「そ、その通りです。すいません。余計なことを聞いてしまって」
「気にする必要はないよ。君が想像しているほど、センシティブな話題じゃない。ただただクラスメイトと展示物に対しての意見が合わなかっただけさ」
彼女は本当に何事もなかったかのように言葉を続けた。
「完成を二の次にして過程を大切にしたい。その気持ちがわからない訳じゃない。でも私という人間はとことん人情に疎くてね。目の前に合理的な判断があったら、そちらを選ぶように出来ているんだ。未完成なまま展示するくらいなら、規模を縮小して完成品を展示すべきだと当時の私は判断した。そしてそれを意見として発した。それだけの事だよ」
「律先輩……」
「そんな顔しないでくれ。とまあそんなわけで私は厄介者なんだよ。せいぜい恐ろしい幽霊役に力を尽くすよ」
律さんは愉快そうに笑みを浮かべ、おかずを口に運んだ。
なんと返せばいいかわからなかった。部長に聞いたときは不器用な人だとしか思わなかったのに、彼女を知ったことで僕の感想も揺らいでしまっている。
どれだけ壮大な構想でも、未完成で不格好なまま出すくらいなら、縮小してでも綺麗な状態で出したほうがいい。部誌に置き換えたとしたら、きっと僕も律さんと同じ意見になっていただろう。
でも僕と彼女の大きな違いは、それを主張するかしないかにある。僕ならきっと、周りの熱い空気に飲まれて終わりだ。空気に飲まれていれば、傷つかずに済むし。
しかし彼女はなんとなくの空気に順応しない。その結果合理ちゃんと呼ばれ、クラスで悪目立ちしていたって、あっけらかんとそのことを話せる。
だからこそ彼女はかっこいい。だからこそ僕は彼女に惹かれている。
なんという手のひら返し。たかが数週間でこの変わりようとは、僕という人間は本当に芯が無くて嫌になる。でも、いつか僕にもそんな芯が出来ればいいなと今では思う。
僕は大きく息を吸って、自身の太ももをつねった。
「先輩! お化け屋敷、絶対に行くんで、全力で驚かしてください」
「ふふっ。どうしたんだい急に? 君は暗いところが苦手だろう?」
「密室じゃなければ何とかなると思います」
いくら考えてみても、何と返せば良いかわからなかったせいで、思いついた事をそのまま口にしてしまった。でも多分これで良い。
この人は慰めなんて求めていない。僕がここで上っ面の共感を吐くのは違う気がする。
しかし、律さん自身が気にしていなくても僕が納得できない。
彼女に纏わる不名誉なレッテルは全部ビリビリに破いてやりたい。
そのためにはまず、宗方先輩を惚れさせてやる。あれだけ高カーストな人間が一目を置いたとなれば、クラスの価値基準も大きく変わるだろう。
そうか、最初から僕が彼女に出来ることはこれだけだった。
「さあ先輩。学園祭の話は終わりにしましょう。次の作戦なんですが――」
「……。ああ。聞かせてもらおう」
律さんは嬉しそうに眉を上げ、空になった弁当箱を閉じた。
放課後、文芸部室には珍しく部員五人全員が顔を並べていた。
僕以外はみんな二年生ということもあってか、間違った場所に降り立ってしまったような気まずさが浮かんだ。
「今回は百部刷った。例年通り一冊二百円。バックナンバーを含めて三冊並べる。異論は?」
部長が腕を組んで言葉を吐き出す。
百冊が多いのか少ないのか、二百円が高いのか安いのか、僕にはよくわからない。
部長の言葉の後、文芸部室には宇宙空間を思わせるほどの無音が広がった。
「よしないな。じゃあ店番だけ決めておくか」
「あの、ちょっといいかな」
ここでようやく部員から低い声が上がった。すらっとして血色を感じさせない指が上がる。
二年生、星野先輩。この先輩に関してはまだ三度しか部室で遭遇したことがない。こんな声をしていたのか、ということをようやく思い出せたほどの幽霊部員っぷり。
部長に手を向けられ、彼は申し訳なさそうに言葉を続けた。
「俺さ、実行委員で二日とも余裕がないんだ。申し訳ないけど店番はパスさせてくれ」
「ああ、そうか。うーん。わかった。まあそういうことなら仕方ないな。他は? ほかに用事があるやつは?」
「わ、私も漫研の方で店番をしないといけないので、一日目は外してほしいです……。あと二日目の昼も――」
次々と部員たちの予定が上がっていく。僕と部長を除く三人は、各々何かしらの予定を吐き出した。
「よし。片桐、お前はどうだ? 空けておきたい時間はあるか?」
「えーっと」
話を振られ、茫然としていた頭を動かしてみる。
クラスの手伝いはない。兼部もしていない。あ、でも演劇は見に行きたい。あと弓道部にも行きたいし、お化け屋敷もマストだ。しかし、どれも確定的な時間があるわけじゃない。
そこまで考えたところで、絶対に確保しないといけない時間帯が無いことに気がついた。なんだ、暇なのは僕だけかよ。
「な、無いです」
「うはは。お前は本当に寂しい青春を送っているな」
部長にだけは言われたくない。
「じゃあ基本的には俺と片桐で回す。他も暇が出来たら手伝いに来てやってくれ。以上!」
部長の号令で、部員たちはそそくさと部室を去っていった。
放課後は始まったばかり、部活はこれからだというのに、なんとも寂しい光景だった。
「みなさん本当に文芸部員なんですよね?」
部室には僕と部長だけが残された。山のように積まれた部誌が、吹き込む風に揺らされる。それに合わせるように、部長は溜息を吐いた。
「昔はもっと活気のある部活だったらしいんだがなぁ。今は兼部やらなんやらで、形を維持するので精一杯だ。悲しいよな」
「エモい感じ出してますけど、部長の出席率だって大概ですよ」
僕は同じく溜息を返し、ノートパソコンを取り出した。
「お前も帰っていいんだぞ?」
「帰りませんよ。僕は文芸部なんですから。あと、部長が言うように寂しい青春を送ってますから」
「そうか。そうだよな」
部長はくつくつと笑みを浮かべた後、積まれた部誌の一部を手に取った。
「このタイミングで言うのはいささか卑怯だとは思うが、今回の小説良かったぞ」
「なんですか気持ちが悪い」
「おまっ。なんか最近口が悪くなってないか? まあいい。部長からの貴重な書評だ。心して聞けよ」
口を悪くしたつもりもなく、普段部長らしいことなんて一つもしない彼が急にまじめな話をし始めたのが純粋に気持ち悪かった。
彼はぺらぺらと部誌をめくり言葉を吐き出す。
「全編通して、選択肢に自信が持てない少年の苦悩のような物が見えて、非常に心が揺さぶられた。ただ俺としては、ラストに納得がいかないな」
「ラスト……ですか?」
「悩み苦しんだ結果、主人公は結局みんなの幸せのため自分の夢を諦めることをあっさり選んだだろう? それまで見えていた主人公のエゴが、あそこで一気に崩された。もし改稿するなら、あそこから変えたほうがいい」
「なるほど。ありがとうございます」
何を言っているかはわからなかったが、僕はとりあえず謝辞を返した。
あの作品はもう改稿する予定もないし、なにより部長が思っているような思想を織り交ぜた記憶もない。
しかしながら、何だか心中の深いところをえぐられたような気がして、僕は再びノートパソコンに視線を戻した。
今頃律さんはクラスの出し物の手伝いをしていることだろう。
おそらく学園祭前最後の作戦になるであろう『準備で仲良しハッピー作戦』のために。
肩を並べ同じ課題に立ち向かったとき、人間には自ずと仲間意識というものが生まれる。
一冊の部誌を完成させたというだけで、そそくさ帰った三人に仲間意識を抱いている僕が言うのだから間違いない。
この仲間意識というのはなかなか力が強いもので、それを持った集団に対して過度に賛同を示しやすくなるのだ。
なので律さんにはクラスの出し物を手伝ってもらい、宗方先輩との距離を縮めてもらおうと思った。彼がクラスの出し物にお熱なのはSNSを通じて知っているし、律さんが力を入れて手伝う姿を見れば自ずと仲間意識が芽生えるだろう。ついでにギャップにときめいてくれたら上々。
作戦の成功を祈りつつ、僕はノートパソコンに向かい続けた。
思いの外筆が進み、画面右隅に表示された時間が二時間分加算されているのに気が付かないほど僕は執筆に熱中した。
このペースならば、冬に寄稿しろと言われても不敵な笑みを返せる。なんなら安久利先輩にもう一本脚本の提供が出来るかもしれない。
大きく伸びをし、体中の空気を吐き出す。
「ようやく顔を上げたな」
「あ、部長まだいたんですね」
「それ地味に傷つくからやめろ。俺の心はガラスのように繊細なんだぞ」
岩のような図体と性格をしてよく言ってくれる。部長がガラスなら、僕はシャボン玉だ。
部長の背に見える外の景色は、淡い闇に覆われていた。
「さすがにもう帰るか?」
「そうですね。そろそろ帰ります」
今日の晩御飯当番は那月だから、早く帰らないと怒られるし。文章を保存しノートパソコンを閉じる。
学園祭前ということもあってか、普段のこの時間はそこまで賑やかじゃない校舎にも仄かな騒がしさが残っている。
「そう言えば、部長はクラスを手伝わなくていいんですか? お化け屋敷でしょ?」
「ん? なんで知ってるんだ?」
「ああ、いや、その、パンフレットで見ました」
「そうか」
危ない危ない。律さんに聞いたなんて部長に知られるわけにはいかない。油断して要らぬ墓穴を掘ろうとするなんて、疲れているのか僕は。
「もう手伝える分は手伝ったし、幽霊役も張り切ってる奴らが勝手にやってくれるらしいからな。お前もクラスの手伝いをしなくていいのか?」
「ええ。僕も軽くは手伝いましたし、当日も特に手伝えと言われてません」
「寂しいなぁ、お前は」
部長はこちらに憐れみの目を向け溜息を吐いた。
特大のブーメランをありがとうございます、といった気分だ。目を細めて彼を見たが、彼はそれを気にする様子もなく言葉を続けた。
「学園祭だぞ、高校生活のメインイベントだぞ。好きな子の一人や二人いないのか?」
「……部長だって似たようなもんでしょ」
「はあ、可愛げがない。安久利先輩に見せる犬っころみたいな顔を見せてくれよ」
「だったらもっと威厳のある発言をしてくださいね」
やれやれという表情を浮かべて言葉を返したが、内心は爆発しそうなほどドキドキしていた。
好きな子、という言葉で真っ先に律さんの顔が浮かんだせいで、余計な感情を思い出してしまったじゃないか。
何とか僕の心の内は部長に悟られなかったようで、彼はふんと鼻息を荒げて立ち上がった。
「どうせ当日は仲良く店番なんだ。そこで嫌というほど部長の威厳を見せてやろうじゃないか」
「はいはい。別に今も尊敬してない訳じゃないですからね」
片づけを始めた部長に合わせ、僕も荷物を鞄に放り込んでいく。
最後はちょっとお世辞が混ざってしまったな。まあ彼も満更でもない顔をしているからいいか。
荷物を纏め終わり、僕たちは部室を出た。どちらが言い出したわけでもなく、なんとなく一緒に帰る流れが出来上がる。
「ああ、一応クラスに顔だけ出したいから、ちょっと待っててくれ」
部長は昇降口を過ぎ、彼の教室のほうへと進んでいった。なぜ僕が部長の用事で帰宅時間を遅れさせなければならないんだ、と至極失礼な感想が頭に浮かんだあと、僕は教室に向かう彼を追った。
「な、なんで着いてくるんだ?」
「僕が勝手に帰らないか、部長も不安でしょう? だからご一緒しますよ」
「別にそんなこと思ってないけどな……」
ぶつくさと言葉を並べる彼の後に続く。もちろん僕の本心はそうじゃない。
ただ純粋に、律さんが上手くやっているかを見に行きたかった。
今までの作戦とは違い、僕の見えないところで事が動いている。提示した本人としては、進捗くらい把握したい。
ぼんやりと光る非常灯を抜けると、光がともっている教室が目に入る。その光に吸い込まれるように、部長は教室の中へ入っていった。
教室内は寒色のおどろおどろしい布や、段ボールで作られたであろう墓のようなオブジェクトが転々としており、十人ほどが和気藹々と作業をしていた。当日にはこれらが館の一部として並べられるのだろう。
なかなか本格的じゃないか。僕は暗くて狭い所だけじゃなくて怖いのも苦手なんだ。律さんには驚かせてくださいなんて意気込んだけれど、ここに入って無事で帰れるのだろうか。
教室全体に視線を動かす。そして僕の目は、二人の姿を捕える。
楽しそうに会話をしながら作業を進める宗方先輩と律さん。
よかった。作戦は大成功じゃないか。そんな喜びが表出する前に、がつんと強い衝撃を受けたように視界が揺れた。
視界と一緒に、心もぐらりと揺れる。
ああ。見たくなかったな。
作戦の成功よりも、その感情が勝ってしまった。
こちらに気が付いた律さんと目が合う。私にもこのくらいで出来るぞ、どうだ、と言わんばかりに眉を上げた表情がこちらに向けられる。
可愛いなあ、あの人は。合理的な一面ももちろんあるけれど、ちょっと子どもっぽいところがあって、それでいて憧れてしまう芯の強さがあって——。
やっぱり僕はまだまだあの人のことが好きだ。この気持ちは成仏していなかった。
だから今湧いてきたこの感情は、純度百パーセントで宗方先輩への嫉妬。
キューピッド失格だ。馬鹿野郎。
僕は急いで目を背け、暗い闇のほうへと足を進めた。
しばらくして部長が追いついてくる。
「おい! 結局先に帰ろうとするとか、どういう梯子の外し方なんだ!」
「すいません」
僕は構わず足を進め続ける。感情を整理するように、一歩一歩リズムよく。
「か、片桐? お前泣いてないか?」
「泣くわけ無いでしょ。泣く要素がどこにあるんですか?」
「無いから怖いんだよ……」
自分の顔なんてものはわからない。けれど、光が薄くてよかった事だけは確かだ。
この感情は間違っている。律さんは自己犠牲だと怒るかもしれないけれど、このわがままはさすがに通せない。というか通しちゃいけない。
僕と彼女との関わりは、宗方先輩を惚れさせたいという彼女の願望ありきで成り立っている。僕は律さんの恋路を応援すると決めたんだ。だからこの感情はいらない。幽霊のように、成仏して消えてしまえ。
僕は大きく息を吐いて、部長に言葉を吐いた。
「部長。僕の小説のラストに納得がいかないって言ってましたよね」
「ああ。なんだ急に。どうしたんだ本当に」
「あれ、やっぱりあのままがいいですよ。あれ以外は考えられません」
色々な感情をごちゃまぜにした僕の言葉が、非常灯のようにふわりと浮かんだ。