21話 「今度は先輩の好物を作るんで」
「ただいまー。お腹すいたぁ! なんかいい匂いする! ……ん? えっ?」
外れるほどの勢いでリビングの扉を開けたのは那月だった。
部活が終わって帰ってくるまでまだ一時間ほどあるはずなのに、なぜ今日に限って早いんだ。
「お、お帰りなっちゃん。早かったね」
「あー。うん。文化祭の準備でグラウンド使うから、早めに帰れって言われたの」
何というタイミング。せめてあと五分遅ければ律さんの帰宅が間に合ったのに。
別にやましい事はしていないが、それでも妹にからかいの種を渡してしまったことが気まずくて仕方がない。
いや、まだ逃げ切れるかもしれない。僕はあえて落ち着いて言葉を置く。
「そっか。中学ももうすぐ文化祭なんだね」
「うん。そう、もうすぐ文化祭……」
固まったまま言葉を返していた那月は、僕と律さんを交互に眺めた後、背負ったリュックをフローリングに落とした。
彼女の足元を優雅に歩いていたモモが、濁音混じりの鳴き声を響かせて走り去っていった。
「って、いやいやいやいや。文化祭とかどうでも良くなっちゃったよ。那月、お姉ちゃんはいた記憶がないんだけど、今幻見てる?」
那月は目を擦ってもう一度僕たちを見る。そんな事で消えるわけがない。片桐家にお姉ちゃんはいないが、律さんは幻ではないからな。
いや、僕が女性を連れ込んでいるというのが幻に近いという悪態だったのかもしれない。ツッコミそびれた。
間に挟まれた律さんが、少しばかり目を輝かせて口を開く。
「彼女がハル君の言っていた妹さんかな?」
「はい。妹の那月です」
「片桐那月でぇす。なっちゃんって呼んでくださぁい」
まだ幻を見ているような虚な目でピースと自己紹介を差し出した那月は、驚くほど滑稽だった。
律さんにも同様に映ったのか、珍しく深く笑みを浮かべて那月に近づいた。
「初めまして。私は宇郷律。ハル君の先輩だ。律と呼んでくれていい。よろしく、なっちゃん」
律さんが差し出した手を握り返した那月は、ようやく現実に帰ってきたかの如く身を跳ねさせた。
「よ、よろしくです! えっ、ひゃっ。び、美人! 家に美人がいる! 手、冷たいですね。ひんやりしてて気持ちいいです。って違っ。ええっ! 何でお家に? どうしよう、ハル兄に春が! 本当に春がやってきてしまった!」
壊れたおもちゃの様に言葉を吐き出し、ぶんぶんと握った手を振り回す那月を、律さんは微笑んで制した。
「一度にたくさん言葉が飛んでくると困ってしまうね。こういうところはハル君そっくりだ」
どこが似ているんだ。僕は律さんの前でぴーちくぱーちく言った事ないだろ。――多分。
「いや、似てませんって。なっちゃん、とりあえず落ち着いて。僕に春は来てないし、先輩は今から帰るところなんだから邪魔しちゃダメだよ」
「えー!? もう帰っちゃうんですか? 那月まだ全然お話ししてないのに!」
「なっちゃんが話す必要あるの……?」
「だってぇ。ハル兄のお友達は那月のお友達なんだよ? 聞きたいこともいっぱいあるもん!」
常識を語る様に那月はそう言った。彼女は誰彼構わずこうはならないが、お気に入りセンサーが反応した人間を逃したがらない。
つまり彼女は出会って数秒で律さんにメロメロらしい。この辺りは兄妹でちょっと好みが似ていて悔しいな。
律さんは微笑みを保ったまま、幼児を諭すように言葉を並べた。
「もうすぐ夕食だろう? お腹を空かせた君を無視して居残るなんて出来ないさ。残念だけれど、大人しく帰ることにするよ」
那月は彼女の手を掴んだまま、ぱたぱたと足を動かし始めた。
「うー。じゃあ晩ご飯食べて行きませんか? いや、是非食べてってください! ハル兄のご飯は世界一なんです! これを食べないなんてもったいないですよぉ。ね? いいよねハル兄?」
「ぼ、僕は良いけど、先輩は……」
流れる様に律さんを見る。論理の欠片も無い那月の言葉を、律さんが飲むとは思えなかったからだ。
しかし、予想に反して律さんは諦めた様に眉を落とした。
「そこまで言われたら興味が湧いてしまうね。ありがたく御相伴に与ることにしようかな」
「ご、ごしょ?」
「御相伴に与る、良いよってことだよ」
冷静に翻訳したが、僕の心臓は那月の身体同様飛び跳ねていた。
律さんに帰らない理由が出来た。那月の甘え力のおかげで、驚くほど簡単に僕の願いが叶ってしまった。
「え、ほんと? やったー! ありがと律さん! ささっ、こちらに。ハル兄、とびきりのを頼むぜ!」
「はいはい」
那月は律さんをテーブルの方へと誘った。
「お飲み物はお珈琲さんとお紅茶さんがありますけど、どっちが良いですかー? 那月のおすすめはオレンジジュースです!」
「ふふっ。じゃあお珈琲さんをお願いできるかな?」
「あいあいさー! ハル兄、珈琲追加でーす! あと那月のオレンジジュースも取ってー」
「結局僕がやるのかよ!」
ポンコツウエイトレスに溜息を返しながらも、僕の顔は綻んでいた。
妹ながら、那月はすごい。あの律さんを一ターンで留まらせたのだから。僕が出来なかったことをいとも簡単に成し遂げている。
律さんが受け入れたことも意外だったが、おそらくなんの先輩かも分かっていない那月が彼女を引き留めたことも驚きだ。
他人と話しているところなんてあまり見たことがなかったが、余計な事を一切考えない那月のコミュニケーション方法は、僕にとって眩しくて羨ましい。
夕食の調理を始めると、二人の細かな会話の内容は聞こえなくなったが、律さんも那月も、楽しそうに話を続けていた。
二人とも相手の顔色を気にせず振る舞える人達だから、楽しそうなあの様子にきっと裏はないんだろう。案外相性は良いらしい。
嬉々として話をする那月と、穏やかな表情で言葉を返す律さんを見ていると、こういうのもいいな、なんて事を思ってしまった。
「お待たせしました」
出来上がったカルボナーラとサラダを食卓に並べる。小洒落た皿がないかとか色々考えたけれど、この家はもてなす事に特化していないからなす術がなかった。
身の丈に合わない気負いは無駄だ。
「おー! カルボナーラだぁ。りっちゃん、ハル兄の作るカルボナーラ、美味しいんだよ」
那月は並んだ料理を見て、パタパタと足を動かした。僕の背中に思わず汗が浮かんだ。
「い、今りっちゃんって言った? 流石に失礼でしょ」
「いいって言われたもん。ねー、りっちゃん」
「ああ、問題ないよ」
「随分と懐いてるんだね……」
那月だけに、と言いそうになって僕は急いで口を噤んだ。
三十分くらいしか経ってないのに、数週間かけて築いた距離感はあっという間に追い越されてしまったらしい。
僕は苦笑いを浮かべて律さんに目を向けた。
「那月の相手をしてくれてありがとうございます」
「いいや。私が相手をしてもらっていたくらいだよ」
「そういえば、苦手なものとか聞かずに作ってしまいました。すいません、大丈夫ですか?」
「無論。とても美味しそうだ」
「良かったです」
「冷めちゃうよー。食べよ食べよー」
那月の号令で僕は席についた。
普段父親は夜遅くまで帰ってこないし、那月以外が食卓にいる光景は、僕にとって非常に珍しいものだった。
ひょっとすると、那月もこの事を考えて律さんを引き止めたのかもしれない。なんにせよファインプレーである事には変わりない。
律さんはどうやらご機嫌だし、那月も言わずもがなだし、食卓には居心地の良い空気が流れ続けた。
口に運ばれたカルボナーラは、我ながらいつもより美味しく仕上がっている気がした。
「すまなかったね。料理を教わっただけではなく夕飯までご馳走になってしまって」
夕食を食べ終わり、少し談笑したあと、僕は近くのバス停まで律さんを見送る事になった。
那月が最後まで別れを惜しんだせいで、外の景色はしっかりと日を落としており、少し肌寒いくらいだった。
帰宅途中のサラリーマンがたまに通り過ぎるくらいで、道のりは人気が少ない。わずか十分ほどのバス停までの距離が、とても貴重なものに思える。
「いえいえ。こちらこそ、妹のわがままに付き合わせることになってしまってすいません」
「楽しかったよ。明るくて優しい素敵な妹さんじゃないか」
彼女はお世辞とかそういう事を気安く吐く人じゃないから、きっと本当に楽しんでくれたのだろう。
思わず心が浮き上がってしまう。
「なっちゃんはものすごく距離を詰めるのが早いので、失礼がないかひやひやしましたけどね」
「ふふっ。そんな事はない。私は昔からこの様子だから、りっちゃんなんて呼ばれ方をしたのも実は初めてなんだよ。貴重な経験ができて嬉しい。君の話もたくさん聞かせてもらったしね」
そう言って律さんは悪戯っぽく笑った。一貫して上機嫌な律さんを見ていると、こちらまで嬉しくなってくる。
薄い灯りだけがぼんやりと浮かぶ住宅街が、祭りの様に色めき立って見えた。
しかし那月め。僕が調理に勤しんでいる間に何を喋ったんだ。
「な、何を言ってたんですか?」
「あはは。気になるかい? そうだね、じゃあ一つだけ」
律さんはゆっくりと足を進めながら言葉を続ける。
「君の母親のことを聞いたよ」
「ああ、そういえば言ってませんでしたね」
僕は無意識に平坦な声を返していた。
今の片桐家には母親がいない。僕らがまだ小さかった頃に、男を作って出て行った、というだけのとてもシンプルな話。
本来触られて困る様なトークテーマだとは思うが、僕の場合今更感情が揺れることもない。強がりでもなんでもなく、話題にあげるほどの事でもないので彼女には言っていなかっただけだ。
ただ、那月はどうなんだろう。なぜ初対面の律さんにそんな話をしたんだろうか?
「那月がわざわざその事を話したんですね」
僕がそう言うと、少し前を歩いていた律さんは足を止めてこちらを向いた。
街灯の淡い光が彼女を照らしている。柔らかくて角がなくて、穏やかな表情が僕の視線を吸い込んだ。
「母親がいない分、ハル兄が家の事を背負ってくれた。ハル兄だって子どもなのに、色んな事を我慢して那月を助けてくれてる。だからハル兄が幸せだと私も幸せ。ハル兄をよろしく。そうなっちゃんに言われたよ」
彼女は僕の頭に手を置いた。白い光がぐらりと揺れそうになる。
「最初に君を見た時から、なぜ無理難題を引き受けてしまうんだろうと不思議に思っていたんだ。でも、君が頑張り屋さんな理由を、少し知る事ができた気がする。細かな機微を読み取れるほど繊細ではないが、それでも私は君よりもお姉さんだ。私の前くらい、わがままに振舞えばいい」
「先輩……」
「もちろん依頼を取り下げるつもりはないけれど、これからの私は今まで以上に君の自己犠牲に五月蠅くなるよ。気を付けるように」
くすくすと笑いながら、彼女は頭に置いた手で軽く僕の頭を弾いた。再び足が動き始める。
深く追及することもなく、大きな反応をとるわけでもない。思った事を言っただけなのだろうけど、彼女の距離感はとても居心地の良いものだった。
ささやかな優しさと那月の普段僕には見せない一面のせいで、涙が出そうになった。
僕は小さく頷きだけを返し、彼女の後を追った。
その後、どちらも口を開くことなく、バス停へと到着する。空気を読まず、早々にバスがやって来る。
もうちょっと居心地の良さに浸っていたかったけれど、流石に今日はもう終わりだな。これ以上はバチが当たる。だから最後に一言だけ言ってお別れにしよう。
「律先輩」
「なんだい?」
「また、家に来てください。今度は先輩の好物を作るんで」
僕のちっぽけなわがまま。今の僕にはこれが限界だ。顔を見られない様に下げていたせいで、律さんの表情はわからない。
けれど、返ってきた声はとても暖かい色をしていた。
「もちろんだよ。なっちゃんにもまたお邪魔すると伝えておいてくれ。それじゃあまた明日」
「はい、また明日」
律さんは愉快そうに息を漏らし、バスへと乗り込んでいった。
走り去っていくバスをぼうっと見送ると、途端に夢が覚めた様な心地になる。
宗方先輩と律さんがくっつく事になったら、僕はお役御免になる。その後も、律さんは僕の相手をしてくれるんだろうか。
少し前までは静かに関わりを断つつもりだったのに、今の僕はこんな事を考えてしまう様になってしまった。
弟の様な後輩として、気持ちを隠してまま彼女と関わる事なんてできる気がしない。それでも計画が上手くいかなくて落ち込む彼女は見たくない。
彼女といる時間はとても甘くて、噛めば噛むほど苦みが出てきて、飲み込むたび胸が苦しくなる。
どれもこれも、スタートを間違ったせいで行き止まりばかり。胃袋でも掴まれているかの様な気持ち悪さだ。まだもらった弁当も食べてないのに。
薄明かりに気味の悪い笑みを浮かべ、僕は来た道を戻り始めた。