2話 「嫌なことでもあったのかい?」
自己嫌悪。自分自身が嫌になるという瞬間が、僕には割と多いと思う。
なんだかんだ言いながら楽しくメールのやりとりをこなし、一日普通に授業を受け終わった後、爆発的な嫌悪感が降りかかってきた。
羽束さんとのやり取りは純粋に楽しかった。何というか知的で愛嬌があって、一夜の文章のやり取りだけでも良い人なんだろうなという印象を受けた。
時間をかければきっと、僕も彼女に対して好意を抱いてしまうだろう。僕という人間はそのくらい単純なのだ。だからこそ、なおさらこの依頼に対しての意欲が下がってしまった。
いくら好感度を上げたとて、僕には一つも利がないわけで、なんならメールでの仲が深まれば深まるほど僕と彼女との距離は離れていく。智哉に最高のパスを出したとしても、その事実を一生胸に抱えたまま生きていかなければならない。
周囲にばれてしまえば大悪党扱いは間違いないし、ましてやこんな事を誰かに相談するわけにもいかない。つまり全てを僕自身の中で処理し切るしかない。行き止まりすぎる。憂鬱だ。
明るい未来が見えないこんな頼み事は、やっぱり引き受けるべきじゃなかった。
断って悶々としていたほうが幾分マシだっただろう。一日たってその事実に行きつくなんて、本当に自分自身の弱さが嫌になる。
部室の扉に手をかけるという僅かな動作の中に、溜息を織り込む。せめて深くは考えないようにしよう。遠く遠くに逃げてしまおう。
古びた扉ががらりと音を立てる。幸い部室には部員の姿は見られなかった。
僕が所属する文芸部は、部員総数五人という校内でも有数の弱小部活動だ。部長を含むほぼ全員が幽霊に近いほど出席せず、五人全員が揃う日の方が珍しい。
かく言う僕も週二回顔を出せば良い方なくらいなのだが、今日はなんとなくまっすぐ家に帰る気になれなかった。
もう一度大きく溜息を吐き出して、指定席に腰を落とす。鞄から携帯を取り出したところで、強烈な違和感がまとわりついてきた。
扉の方を見る。僕はもちろんあそこから入ってきた。施錠はされていなかった。しかし室内には誰もいない。本来であれば一番乗りの僕が鍵を開けるはずなのに。
大きく首を傾げたところで背後に人の気配を感じた。
「大きな溜息だね。嫌な事でもあったのかい?」
僕は急いで振り返った。
背後にいたのは、黒くて長い髪を携えた鋭い目の女性だった。体格はどちらかというと細めで、ハッキリとした顔立ちだとは思うが、彼女に見覚えはない。
冷静にそこまで考えて、ようやく驚きが追いついてきた。
「うわぁ!」
時間差で立ち上がる僕に対して、彼女は冷静に一歩身を引いた。
考え事をしていて人がいる事にすら気が付かないなんて、今の僕はよっぽど心を痛めているらしい。いやそれどころじゃない。誰だこの人は。何故ここにいるんだ。
「驚かせてしまったようだね。とりあえず座ると良い。話をしようじゃないか」
慌てふためく僕をもう一度座らせ、彼女は隣の椅子に腰掛けた。
「だ、誰ですか? 入部希望ですか? というか鍵はどうしたんですか?」
「一気に質問を並べられると困ってしまうね」
「す、すいません」
さほど困った顔もせず、彼女は肩にかかる髪を払った。
「謝ることはないよ。疑問が多く出てくるというのはむしろ良いことだ。私は二年五組の宇郷律。君より一つ先輩だ。鍵は芳崎に借りた。もちろん入部希望じゃない。これで質問の答えになっているかな?」
彼女は朗読のように淡々と言葉を吐いた。僕は並べられた言葉を一つ一つ飲み込んでいく。
芳崎。うちの部長の名前だ。宇郷律と名乗った彼女は、どうやら部長の同級生で、入部希望でも無いのにこの部室にいるらしい。わざわざ鍵を借りて。
「えっと。はい。なんとか」
ギリギリで言葉を返したが、新たに疑問が出来てしまった。
この部屋に来るのは文芸部員か、脚本を求めてやってくる演劇部員くらいだ。脚本なら直接部長に打診すればいい。ならこの人は本当に何なんだ。
「その、こんなところで何をしているんですか?」
「わざわざ腰を据えて話そうと提案したんだ。察してほしいものだけれどね」
ぽかりと口を開ける僕に、宇郷さんは言葉を続ける。
「もちろん君と話をするためだよ。片桐晴幸君」
細く鋭い目を向けられドキリとしてしまう。名前を急に呼ばれたことももちろんそうだが、そもそも僕は人と目を合わせることが得意じゃない。というか人の目が怖い。なんだか中身を覗かれていそうで、落ち着かなくなる。
あと何より肩が触れるか触れないかくらいの距離感は、思春期の僕には刺激が強すぎる。甘い匂いだとか、クラスの女子より少しだけ大人っぽく見える顔立ちだとか、諸々が心臓を揺らしてくる。
僕は少し椅子を引いて視線をずらした。
「僕とですか? あと、なんで名前を……」
「昨日一日、君をつけていたからね。知っていて当然だろう」
「えっ」
さらりと恐ろしいことを告げられた。こんな面識のない先輩に目をつけられるようなことを、おそらく僕はしていない。
「それはそうと、話を本題に戻そう。今日は君に頼みがあってここに来た」
「頼み……ですか?」
頼みという言葉を聞いて、僕の頭にはうっすらと智哉の小麦色の肌が思い出されていた。
少し視線を戻してみたが、彼女の凛とした目は依然として僕の眉間を見つめている。無意識のうちに眉間に力が入る。
「そう頼みだ。取引といっても過言ではない。なに、そんな嫌そうな顔をしなくてもいい。なんとも乙女的で可愛い頼みさ。惚れさせたい男がいる。力を貸してほしいんだ」
「はあ?」
さらに困惑を誘う言葉が流れていくと共に、嫌な予感がぞわりと背中を伝った。二日連続で恋路に協力しろという依頼を受けるなんて、どういう因果なんだこれは。
というか、名前も知らなかった先輩から依頼されるほど、僕は恋愛上級者として名を馳せてはいない。
「なんで僕なんですか?」
「羽束蒔枝のことを知っているだろう? 私と蒔枝とは幼い頃からの知り合いでね」
再び心臓が鳴る。しかしこれは思わず目が合ってしまったからではない。何故ここで羽束さんの名前が出てくるんだ。理由がわからず、僕は白を切った。
「し、知りませんけど」
「おや? それでは昨日食堂で耳に入った会話は、私の聞き間違いだったのかな?」
「昨日の食堂……」
淡々と向けられる言葉で全てを察してしまった。あんな人が多いところで話していたのだから、こういう事も予想しておくべきだったか。これに関しては完全に智哉に非がある。
この人は昨日の話を全て聞いていたうえで僕の身辺を調べ、結果として今この状況が作られているのだろう。なるほど。それで取引というわけか。黙っていてやるから手伝えと。どいつもこいつも人の弱いところをずけずけと踏み荒らしやがって。
「脅しに来たってわけですね」
僕の言葉を聞いた宇郷さんは、立ち上がり窓の方へと足を進めた。チェック柄のスカートが動きに合わせてふわりと揺れる。
「ああ。そう取られてしまうのか。すまない、そんなつもりはなかったんだ。もし君が私の依頼を断ったとて、聞いたことを蒔枝に口外する気はないよ」
「け、警告をしに来たんじゃないんですか?」
「違う違う。私が彼女の周辺環境に口を挟む理由がないだろう? 騙されていようが何だろうが、それが彼女の道なら私には関係ない」
「ドライなんですね」
てっきり友達を騙しやがってと脅されるのかと思ったが、どうやらそんな様子でもなさそうだ。予想外すぎてすっかり牙を抜かれてしまう。
窓に身体を預ける宇郷さんの背後には落ちかけている日が差していて、とても同じ世界の住人とは思えなかった。
制服から白くすらりと伸びる手足は、まだ熱が残る季節に反して湿気の欠片も感じられず、触れると冷たいに違いないと思えるほど透き通っている。氷の彫刻みたいだ。
ぼうっとその姿に見惚れていると、彼女は指をはじいて言葉を放った。
「だから単純な取引をしに来たんだ。私はなりすましが上手くいくように蒔枝の情報を君に渡す。そのかわり、君は私の恋路のサポートをする。どうだい? 協力する気力は湧いてきたかい?」
冷静に言葉を聞いて、なにやら提案が魅力的に感じてきた。何を思ってか彼女は情報をくれるようだし、僕自身もこの窮屈な脳内を吐き出す隙が出来て非常に助かる。
しかし、この提案は彼女側に利があるのだろうか? 彼女と羽束さんとの仲に亀裂が出来そうな提案だが。疑いの目を向け僕は口を開く。
「いいんですか? そもそも勘違いしているようですけど、僕は恋愛上級者じゃありませんよ。むしろ弱者側です。女性と付き合ったことはおろか、女友達さえいません。正直僕がサポートしたところで上手くいくとは到底思えません。それでも良ければ手伝いますが……」
そこまで言って僕は下を向いた。数分前に知り合ったばかりの女性に、何を赤裸々に語っているんだ僕は。そして流れるように承諾しようとしているし。
引き受けたことを後悔していたばかりなのに、また引き受けるつもりなのか。
「勘違いも何も、君を色恋沙汰に達者な子だとは思っていないよ。しかし、たまには情とやらに絆されるのも悪くないかなと思ったわけさ」
「情……?」
少し視線を泳がせた宇郷さんは、息を吐いて自身の言葉を打ち消した。
「いや、忘れてくれ。ともかく協力してくれるということでいいね?」
「えっ。あ、はい」
「感謝する。私はこれから部活動に励まなければならない。詳しい話は明日の昼休みにでもしようじゃないか」
彼女はそう言って窓際から出口に向かい、座ったままの僕に鍵を投げた。
「芳崎に返しておいてくれ。それじゃあ」
「えっ。宇郷先輩が返せばいいじゃないですか」
「律で良い。宇郷よりもスムーズだろう? よろしく」
彼女は足を止めることなく部室から姿を消した。たった一人部室に取り残された僕は、ひんやりとした鍵を見つめた。
まさに白昼夢。僕は今幽霊とでも話をしていたんじゃないだろうか。馬鹿なことを考えている場合ではない、厄介ごとがもう一つ追加されてしまった。
まさか智哉に加え、見知ったばかりの先輩の恋路をサポートすることになるとは。いつから僕は恋のキューピッドになってしまったんだ。承認癖はどうやら治る気配を見せない。
それに、出会ってすぐ下の名前呼びはものすごくハードルが高い。僕が不慣れなだけで、これが普通なのか? 考えるべきことが山盛りだ。
出掛かった溜息を止め、僕は椅子に体重を預けた。せっかく珍しく部室に来たのに、今はもう一文字も紡げる気がしない。少し無音を味わった後、気が付くと僕は家路についていた。