17話 「面白いものを見せてあげる」
公園に吹き込む風は、驚くほど爽やかだった。なのに気分は全く上がらない。
初めて授業を仮病でサボったという事実もそうだし、律さんに手伝わなくていいと言われたこともそうだし、もやもやが心に重くのしかかり、身体がベンチに沈んでいく。
落ち込み先に学校から少し離れた公園を選んでしまったのも、クラスメイトにバレないようにサボろうという思考からくる行動だろう。
そんな自身の小心者さも哀れな感情を際立たせていた。
秋風が乾いた空気を運び、部誌の名前に似た雲が僕を見下ろしている。空気に乗せて、僕は大きく溜息を吐いた。
あの場面、僕は間違った行動を取ったのだろうか?
僕が我慢をするだけで場が収まったのだから、それこそ論理に則っていると思う。
耐えろと怒られるならまだしも、合理的な彼女に我慢した事を怒られるなんて思いもしなかった。
落ちた肩に合わせて、自然と視線が地面に落ちる。何かを一生懸命運ぶ蟻の姿が目に入った。
「お隣、いいですか?」
呆然と黒い姿にエールを送っていると、突如声をかけられてしまった。
「は、はい大丈夫です……」
驚いて少し視線を上げると、数センチほどの距離で揺れるスカートが目に入った。蟻に夢中で人影にも気がつかないなんて、とんでもない落ち込み方だ。
席を譲るためベンチの端に身を寄せると、再び声が飛んできた。
「おーい。そろそろ気付いて貰わないと、ちょっと恥ずかしいんだけどもー」
「えっ」
「やっほー。蒔枝ちゃんだよ」
隣に腰掛けたのは、満面の笑みを携えた蒔枝さんだった。
こんな人気のない公園でわざわざ隣に座ろうとするなんて、知り合いに決まっているじゃないか。本当に頭が回っていないみたいだ。
頭は回っていなくても、しっかりと驚きが身体を巡ってくる。顔を痙攣らせ、僕はようやく言葉を返した。
「こ、こんにちは」
「はいこんにちは」
「何してるんですかこんなところで?」
「ふふっ。台詞、取られちゃった」
にこにこと笑みを深めながら、蒔枝さんは肩に掛けたカバンを下ろした。
「ここ、私の学校の近くなんだよ。下校中に暗い顔した友達見つけちゃったら、そりゃ声かけちゃうよねぇ」
「ああ、そうだったんですね」
まさか適当に選んだ公園の近くに知り合いがいるとは。ありがたいことに、彼女はたった一回のティーブレイクだけで、僕のことを友達認定してくれたらしい。
こんな状況、知り合いには見られたくなかったな。僕は脳を整理する時間が欲しいだけなんだ。
彼女はのほほんとした様子で首を傾げた。
「晴幸くんこそ、こんなところでどす黒いオーラを放ってどうしたの? なんかあった?」
「いえ、別に……」
「ほんとかなぁ?」
彼女はそう言って僕の目をじっと見つめる。期待を孕んだ瞳が、麻酔のように体の自由を奪ってくる。
普段であれば人の目をじっと見ていられないはずなのに、不思議と全く目を離せなかった。
蛇に睨まれた蛙って、こういう気持ちなんだろうか?
少しの間膠着が続き、彼女は吹き出すように笑った。
「あははっ。『目は口ほどに物を言う』ってよく言うけど、やっぱり目から言いたいことを読み取ることなんて私には出来ないや」
なんの時間なんだと思っていたが、思考をジャックしようとしていたのか。恐ろしい。この人ならそんな事も出来そうだな、と思わされたのがなお恐ろしい。
「思考を読もうとしてたんですか?」
「うん。もちろん!」
「本気で?」
「だって晴幸君は口が堅そうだから、こうでもしないと読み取れないかと思って」
「な、なるほど」
穏やかに微笑む彼女は、どこまで真剣なのか全くわからなかったが、僕が落ち込んでいる理由を知ろうとしてくれている事だけは確かだった。
普段の僕なら構うなと思ってしまいそうなのに、この人にはそんな事すら思えない。それ程までに彼女を取り巻く空気は柔らかい。天然なのか技術なのかはわからないけれど。
「落ち込んでる理由、言いたくなったらでいいよ。それまでテレパシーにチャレンジしておくから」
そう言って彼女は指をゆらゆらと揺らして、もう一度僕の奥深くを覗き始めた。
脳内が読まれることはなくても、こんな時間が続けば僕はどうにかなってしまいそうだ。
星でも散りばめられているのかと錯覚させられる瞳が、僕を諦めへと導いていく。
「しゃ、喋ります。喋りますから。僕、あんまり人の目が得意じゃないんです。勘弁してください」
観念して視線を逸らした僕に、彼女は唇を尖らせて返した。
「えっ、そうなの? なんだぁ、マインドコントロールが成功したと思ったのに」
「恐ろしいことを試さないでくださいよ」
「ふふっ。これはちゃんと冗談だよ。それで? 何で落ち込んでたの?」
「実は――」
穏やかな笑みを浮かべ話を促した彼女に向け、僕は事の顛末を話し始めた。
「ふむふむ。確かに律はそういうの嫌がるからねー」
僕の話終わりと同時に、彼女はそう言ってベンチに深く身を預けた。少し癖のある彼女の淡い色の髪が、温い風にゆらゆらと揺らされている。
「自分の行動が合っていたかどうか、間違っていたとしたらどうすれば良かったのか、訳が分からなくなってしまって……」
「なるほど。晴幸君は自己優先が苦手なタイプか」
蒔枝さんはぽんと手を叩いて頷いた。
「合ってるとか間違ってるとか、そこを基準に考えると難しい問題だよねー。君が正解だと思って動いたなら、合っていた行動、ってことでいいんじゃないかな?」
「なんか適当ですね」
大きく溜息を返すと、彼女は背筋を伸ばして笑顔を消した。
「そうかな? だって律と晴幸君の正しいと思う行動は違うでしょ? 君としては譲れない行動だったわけで、その差がたまたま今回はこういう結果を招いただけ。そこを悩むより、今後どうするかを考えるほうが合理的だよ」
彼女は真面目な顔でそう言ったあと、ふわりと緊張を解いた。
「って説教くさくなっちゃった。どう? 律っぽく出来てた? ふふっ」
茶化されていたのだろうか。真面目に相談したんだけどな。言われた事は納得できたけれど、なんだか有耶無耶に流された気がする。
「もしかして、からかってます?」
「からかって適当な事を言ったわけじゃないよ。君の主訴がそこじゃない気がしたから、もうちょっと話を聞きたいなと思って」
「えっ?」
「正解とか、そんなことはおまけでしょ? 君が本当に悩んでいる事を教えてほしいな」
再びじっと目を見つめられる。その目は、僕自身が気付いていない深い所まで内側を覗いている気がした。
きっとこの人の前で隠し事は出来ないんだろうな。心を読むなんて非現実的な力がなくても、自白させてしまう目の強さを持っている。
いや、目だけじゃなくてメールでもそうだった。気さくでわかってくれそうで、思わず心情を吐いてしまうのだ。
落ちてきた陽が緩やかに公園に差し込んだ。導かれるように、僕は口を開く。
「……ショックだったんです」
「うんうん」
「もちろんさっき言ったことも悩みの一つではあるんですけど……。でも、それよりなにより、律さんに手伝いをしなくて良いと言われて、どうしていいかわからなくて――」
僕はほぼ意識せず心の内を吐露していた。
自分で言って驚いたけれど、協力を仰がないという律さんの言葉に僕はショックを受けている。
手伝わなくて良いということは、僕の負担が減る喜ばしい出来事のはずなのに、少しも喜びが沸かなかった時点で気付くべきだった。
蒔枝さんの言う通り、自分の行動の成否よりも、彼女に会う口実が無くなってしまった事へのダメージの方が大きかったらしい。
僕の言葉に、蒔枝さんは満足そうに頷いて返した。
「ふむふむふむ。教えてくれてありがとう。その言葉にショックを受けたって事は、律と一緒に過ごす時間に楽しみを感じてるってことでいいのかな?」
「そう……ですね」
「素直でよろしい」
細められた目がからかう様にこちらに向けられる。うっかりととんでもない事を吐露してしまった。
律さんに一番近しいと思われる人にうっかり心情を漏らすなんて、なんて恥ずかしい事をしているんだ僕は。これじゃ遠回しの告白みたいなものじゃないか。
顔が熱い。浮かぶ茜雲にも負けないほど、僕の顔には朱がさしているに違いない。
「あはは。顔赤っ! 照れちゃった? かわいいなぁもう! 大丈夫だよ、律には言わないって約束するから」
未だ悪戯っぽい顔で、彼女は僕の頬を突いた。
「今の話を聞いて、蒔枝お姉さんが一番最初に思った事を発表します!」
「は、はい。どうぞ」
「律にそんな事を思ってくれる後輩が出来たことが、素直に嬉しい! 晴幸君への好感度がぐぐぐんと上がりました!」
「なんで僕の好感度が……」
「だって、私の大切な友達の事を、同じ様に大切に思ってくれている人が現れたんだよ? これには思わず蒔枝ちゃんもにっこり」
言葉通り、彼女は満面の笑みを浮かべた。くすぐったい笑い声の後、彼女の人差し指が上がる。
「律ってさ、昔からほんと物事に無頓着で、怒ることなんてほとんどないの。でも君の自己犠牲には怒ったんでしょ? それだけ君の事を重要視しているって事だよ」
「いや、でもそれは多分、僕の行動に腹が立っただけで……」
「あはっ。律は怒っただけで行動を曲げられるほど器用じゃないよ。今後の計画に支障が出るかもしれない事を理解した上で、君を優先したんだよ。つまり律にとって、晴幸君はもうただの恋愛参謀じゃないってこと。自信を持っていいよ」
蒔枝さんの言葉が心地よいトーンで耳に届いた。
確かにその通りかもしれない。律さんはとことん合理的で、その場の感情だけで物事を判断したりしない。彼女なりの理を持ってあの行動をとったわけだ。
計画に囚われて彼女と向き合っていなかったというのが、僕の失敗だろう。
だからこそ論理に則していない彼女の動きに疑問を感じたわけだし、僕の恐怖心を最優先でケアしてくれる意味がわからなかった。
どうやら僕は、律さんの計画が上手くいくよう願うあまり、心配してくれていた彼女の気持ちを無下にしていたらしい。
「少し色々、難しく考えすぎていたかもしれません」
回顧を終え、僕はゆっくりと言葉を吐いた。夕飯前のちょうど良い時間帯なのに、公園にはやっぱり人影が見えなかった。
風に煽られるブランコが寂しく身を揺らしている。
彼女は最初から全てが分かっていたかのように、大きく首を縦に振った。
「そうかもね。晴幸君が律の気まぐれな計画に支配される必要なんてないよ。お願いを叶える為だけにあの子と一緒にいるなんて、なんだかちょっと寂しいとは思わないかね? ふふっ」
彼女は静かに微笑んで、携帯電話を取り出した。ベンチから投げ出された足が、右往左往している蟻たちを躱しながら地面を鳴らしている。
なんだかしっかりとお悩み相談をしてしまった。自分自身で認知していなかった感情を彼女がうまく聞き出してくれたおかげで、脳内が随分とクリアになってきた。
僕は律さんとの糸が切れる事を嫌がっている。それにいろんな理由をつけて悩んでいる。それだけだった。じゃあ悩みを解消する為にやるべき事は一つじゃないか。
「ありがとうございます。楽になりました」
「もう大丈夫そう?」
「はい」
「あはっ。そっか。お役に立てたようでなによりだよー」
「もう一度律さんと話をしてみようと思います。……機会をもらえるかはわかりませんが」
彼女にまっすぐ視線を返す。幾分か晴れやかになったであろう僕を見て、彼女はにっこりと親指を立てた。
「グッド! そうだね。それがいいよ」
彼女は嬉しそうに立ち上がり、両手を広げてこちらに向けた。夕日が後光のように差し込んでいて、とてつもなく神々しい。
「不安が解消されてから言うのはずるいかもしれないけれど、今回は律の言い方が悪かったと思うよ。悩まされて可哀想な晴幸君を、蒔枝お姉さんが抱きしめて癒してあげよう!」
「えっ」
「さあ、ほら!」
彼女は急かすように両手を動かした。うっかり立ち上がって抱きつきそうになったが、こんな事が許されるわけがない。
絶対柔らかいに決まっているし、絶対に良い匂いに違いない。芯までしっかり思春期の僕に、こんな誘惑をしないでほしい。
「いや、だ、大丈夫です。遠慮しておきます」
「なーんだ。シャイボーイだなぁ。乗ってきたらデコピンしてやろうと思ったのに」
「か、からかい方がひどすぎですよ」
「むふふふ」
やっぱり罠じゃないか。危なかった。目を細め笑いながら、彼女はもう一度ベンチに腰掛けた。
「でも癒してあげたい気持ちは本心だからね。今から晴幸君に面白いものを見せてあげる」
「面白いもの?」
「そ。あっちの木陰に五分くらい隠れててくれないかな? あ、荷物も持ってね」
彼女はそう言って日陰の方を指差した。
意図は全く理解できなかったが、僕は首を傾げながらも木陰に身を移した。