16話 「私は憤っているよ」
「ああそうだ、最初に聞いておくべきでしたね。律先輩は暗くて狭いところとか苦手じゃないですか?」
体育倉庫の扉に手をかけたところで、僕は重要な事を思いついてしまう。宗方先輩はおろか、律さんが暗いところが苦手ならばこの作戦は破綻するじゃないか。
「苦手ではないよ。むしろ好きなくらいだ」
「よかったです」
ほっと胸を撫でおろし、体育倉庫を開く。汗と土が混ざった歪な匂いと共に、ひんやりとした空気が抜けていった。
慎重に足を進め、全容を掴もうと軽く手を伸ばす。スポーツ用品で埋め尽くされたここは、五人ほどが入れば満員になってしまうほど窮屈だ。校舎の改装があれば真っ先に手を付けられそうな環境だな。
奥のほうにはもう何があるかわからないし、扉以外には小窓一つしか風の通り道がない。その窓すら何かに覆われているようで、かすかに光が差す程度だった。
「先輩、扉を閉めてもらっていいですか?」
「ああ」
がらがらと鈍い音と共に、光が失われていく。
遠くなる音、閉じていく世界。ものの数秒で律さんの顔も見えなくなってしまった。冷や汗が一つ落ちた。
「想像以上に暗いですね……」
「そうだね。だが目に前にハル君がいるのはわかるよ」
彼女の顔は見えない。ただ空気が揺れている。姿が見えない分、いつもとは違う感覚が尖っている気がした。鈍い匂いは、いつの間にか爽やかな甘い香りに変わっていた。
まずい。これはまずい。ドキドキやらなんやらで、手に汗が滲んでくる。僕がこの状況に入るべきじゃなかった。
「と、とりあえずこんな感じになると思います。イメージは出来ましたか?」
「ああ出来たとも」
「バッチリですね。確認も出来たので、出ましょうか」
「そうだね──」
律さんの声を遮るように、かしゃんという音が響いた。まるで金属がぶつかる様な、鍵が閉まる様な音。その音に少し遅れて、遠くでチャイムが鳴る音が聞こえた。
「おや? 今……」
「り、律先輩! 扉を!」
彼女が振り向いた気配の後に、金属が引っ掛かるような鋭い音が鳴った。よく見えないが雰囲気だけでわかる。僕たちに気付かず誰かが外から鍵を閉めてしまったのだろう。
今日は午後どの学年でも体育はない。この状況を作り出すために調べつくしたからもちろん知っている。
ただ違うぞ。僕の間抜けめ。一緒にいるのが僕でどうするんだ。
「と、閉じ込められた……」
「みたいだね。いやぁ、驚いた。これは内側から開けられそうにない。体育まで待つしかないね」
「今日は午後からどの学年も体育がないんです。このままだと三時間はここに閉じ込められたままです」
改めて言葉にして、自身の過失の大きさが降りかかってきた。
色々なことが上手く回り始めていて、僕は油断していたんだろう。完全に調子に乗ってしまっていた。額から汗が噴き出してくる。
「す、すいません! 僕のせいでこんなことになってしまって! なんと詫びればいいか……」
「あはは。詫びる必要なんてないよ。作戦を依頼したのは私だ。怒る道理がない。むしろ作戦が上手く行くと分かったし、良い経験だよ。涼しくて気持ちいいしね。三時間のんびりしていればいい」
顔はいまだに見えないが、律さんは案外あっけらかんとしていた。
三時間のんびり、確かに普段であれば魅力的な提案なのだが、そうもいかない状況だ。
「でも、こんなことで授業をサボらせることになってしまいました。本当にすいません」
「それは君も同じだろう? 私は気にしていないよ」
「いや、そんな……。そうだ、携帯だ! 電話もってませんか? 人を呼びましょう!」
「あいにく教室に置いたままだ」
「そ、そうですか……」
僕のポケットにも携帯電話は入っていない。弁当と一緒に部室に置いてきてしまった。というか閉じ込めたところで、携帯電話があれば簡単に脱出されていたのか。こんなところで作戦の粗まで見つかるとは思わなかった。最悪だ。
もちろんこんなところに律さんと二人っきりというだけで、僕には刺激が強すぎる。
よくよく考えれば、誰かを呼びつけたとて、二人で出ていけば良からぬ噂が立ってしまうかもしれない。そんなことになれば計画自体が破綻してしまう。
暑くもないのにじわじわと汗が湧き上がり、心臓が煩く鳴り続け、呼吸が深くなる。
大丈夫、焦るな、出られなくなったわけじゃないんだから。
「ハル君? どうかしたかい?」
「えっ?」
「いや、様子がおかしいと思ってね」
律さんの声で僕は我に返った。沈黙のままどこまで深く思考に潜っていたのだろうか。音も光もほとんどないせいで、時間感覚が麻痺してしまう。
僕は見えもしないのに笑顔を浮かべた。光がないのはある意味良かった。こんな虚勢しかない顔、彼女に見せられるわけがない。
「ど、どうもしてませんよ。これからどうしましょうか? 何か出られる手段があればいいんですが、二人で出ていくのもまずいでしょうし……。どうやってやり過ごしましょう?」
訳も分からず口が回り続ける。凛とした彼女の声が、僕の言葉を止めた。
「手を前に出してごらん」
「な、なんですか?」
「手を出してごらんと言ったんだよ。ゆっくり前に」
「はい……」
訳も分からず、ゆっくりと腕を上げる。ひんやりとしたものが手に触れる。これは、律さんの手だろうか? 冷たくて心地よい感触に手首を掴まれる。
「あ、あの、律先輩?」
「静かに」
彼女に制され、僕は口を噤んだ。多分手首を握られている。なぜかもわからないし、喋ることも禁じられてしまった。
しばらくそのままの時間が続き、ようやく僕の手は解放される。
「ハル君。もしかして君は暗いところが苦手なのかい?」
「──っ!」
意表を突かれて口から空気だけが漏れた。取り繕うように喉に力を入れる。
「そ、そんなことありませんよ」
「じゃあ体調不良かな? 発汗量が不自然だ。体温も脈も。どちらにせよ、早く出たほうがいいね」
嘘発見器かよ。さっきのは触診だったのか。顔さえ見られなければ大丈夫だと思っていたのに。
律さんの指摘通り、僕は暗い場所が得意じゃない。正確にいうと、暗くて狭いところが苦手だ。閉じ込められたという状況が発生したせいで、さっきから変な汗と震えが止まらない。
「すいません。強がりました。苦手です、暗くて狭い場所が」
「やはりそうか」
小さく息が漏れた音が聞こえた。それが呆れのようにも取れて、僕は急いで言葉を加えた。
「昔、遊びで掃除用具箱に入ったことがあって。入った時に扉の建付けが悪くなったみたいで、半日くらいそこから出られなかったんです。そこから暗くて狭い場所が苦手で……」
「そうか。なぜそれを早く言わない?」
律さんの手が再び僕の手を握る。安心させようとしてくれているのだろうか。はたまた憤りなのだろうか。彼女の手は、さっきよりも熱を帯びている気がした。
「元はといえば僕が考えた作戦ですし」
「すぐに大声を出すことだって出来たはずだ。というより、知っていたら私がそうしていた。三時間のんびりすればいいなんて事も言わなかっただろうね」
ぐうの音も出ない。弱点をばらしたくなかったというのも一理だし、人目につきたくなかったというのもある。
焦って携帯電話の有無を確認はしたが、すぐに人に来られたら困るんだ。なぜ二人でいたかという事に対する言い訳が準備できる前に、この状況を見られるわけにはいかない。
「僕と一緒にいるところを見られたら、先輩が勘違いされてしまいます。そうなると作戦に支障が出ますし。それをどうにかクリアしてからじゃないと人の手は借りられないなと思って」
僕はふり絞るように声を出した。どういう気持ちでこれを言っているのか、僕自身にもよくわからなかった。
「君は……本当に……」
律さんの手に力が入る。短い言葉のはずなのに、今まで聞いた声の中で、一番感情がこもっている気がした。
しばらくして倉庫の外から声が聞こえた。
「宇郷ー!」
声ですぐにわかった。外にいるのは宗方先輩だ。授業が始まってから数分経っているし、異変に気が付いて律さんを探しに来たのだろうか? これはなかなか脈ありな展開じゃないか。
しかし、なんて間の悪いタイミングで、間の悪いキャスティングなんだ。恐怖と焦りのせいで、僕の頭にはまだこの状況を打開する策が浮かんでいない。
「先輩、ここは静かにやり過ごしましょう。見つかるとまずいです」
僕は音を絞って律さんに言葉を投げた。律さんから言葉は返ってこない。代わりに握る手の力がより強くなった。
「宗方! ここだ! 体育倉庫に閉じ込められている!」
狭い空間に律さんの声が反響する。やり過ごそうと言ったじゃないか。これじゃ気づかれてしまう。何をやっているんだ。
「体育倉庫? なるほど! 鍵借りてくるわ!」
「すまない! 頼む!」
駆け寄ってきた足音が、遠くへと離れていった。あと数分すれば鍵を持った宗方先輩が扉を開けてくれるだろう。
「先輩! ばれちゃったじゃないですか! よりによって宗方先輩に……。どうするつもりですか?」
律さんからやはり言葉が返ってこない。まさか怒っているのか? いや、呆れているんだろうな。暗くて狭いところが苦手だなんて、我ながら格好悪いし。
しかし僕がいくら動こうと、彼女の手はしっかりと僕の手を掴み続けていた。
結局隠れる間も打開策も無く、数分で倉庫の扉が開かれた。
徐々に差し込む鋭い光を背景に、宗方先輩が姿を現す。
「大丈夫か?」
「助かったよ。よく異変に気が付いたね」
「昼休み終了間際にここら辺を彷徨いてるのを見たんだけど、授業に出てこないからおかしいなと思ったんだよ」
「素晴らしい洞察力だ。ありがとう」
律さんの足が光へと向かう。彼女に引っ張られる形で、僕はようやく体育倉庫から抜け出すことができた。
細められた宗方先輩の瞳がこちらを向いたことで、きゅっと心臓が引き締まる。
「まさか片桐も一緒だと思わなかったよ」
「す、すいません。ありがとうございます」
体育倉庫で密会していたとでも思われているのだろうか。こんなことで計画が倒れたとなれば、律さんに申し訳が立たない。
「あ、あのですね!」
言い訳をしようと口を開いたが、すぐに律さんの声がそれを遮った。
「宗方、助けてもらったついでで悪いんだが、このまま少し授業を抜ける、と先生に言伝を頼みたい。実は彼が体調を崩してしまってね。日陰に移動したところ鍵を閉められてしまったんだよ。保健室に連れて行きたい」
「そりゃ大変だ。分かった、先生にはそう伝えておくよ。片桐、大丈夫か?」
「は、はい、なんとか」
「重ね重ねすまないね。ではよろしく頼むよ」
彼女は力強く僕の手を引いて歩き出した。
僕の顔の蒼白さも功を奏したのか、宗方先輩は状況をあっさりと飲み込み、疑問のなさそうな顔で僕たちを見送った。
光を浴びたことで、体調は随分戻っている。今更保健室に行ったところでどうするんだと思わされたが、どうやら目的地はそこでは無さそうだ。
校舎の影、目立たない場所に足を踏み入れたところで、ようやく律さんは足を止めた。引いていた僕の血の気も、徐々に全身を巡り始める。
彼女は僕の手を離しこちらを向いた。彼女の顔を見て、戻ってきた血の気が再び引いていく。
「ハル君。私は憤っているよ」
顔つきだけで言えば普段とそこまで変わらなが、醸し出される威圧感は普段の比じゃない。言葉が無かったとしても、怒っているのがすぐにわかるほどだった。
「すいません。僕のせいで授業に──」
「さっきも言ったよ。その程度では私は何も思わない。私が憤りを感じているのは、君の振る舞いだ」
「振る舞い……ですか?」
僕は今、何を怒られているんだろうか。探るように視線を向けてみるが、やはり彼女の考えが読めるわけもない。
「分かっていないようだね。じゃあもう一度問おうか。なぜすぐに暗闇が苦手だと伝えなかった?」
「だからそれは、二人で出る所を見つかるとまずいと思ったので」
「なにがまずいんだい?」
「今後の計画に支障が出ちゃうじゃないですか。実際、宗方先輩に見られたし……」
気にした結果このザマというのは本当に申し訳ないが、僕は僕なりに力を尽くしたのだ。
二人でいる場面を目撃されないよう注意もしたし、それを無視したのは律さんの方じゃないか。呆れられるならまだしも、怒られる謂れまではない。
僕の言葉に対し、彼女はわかりやすく大きく息を吐いた。
「それが私の為を思っての行動なのであれば、大きな間違いだよハル君。以前にも言っただろう。私は君が自己を犠牲にしてまで計画を成就させることを望んでいない。現にそれをした君に、私は珍しく憤りを感じている」
なるほど。彼女は僕が僕自身を優先しなかったことに腹を立てているのか。
でも仕方ないじゃないか。計画の邪魔にならないように、あれは必要な行動だったんだ。僕が黙っているだけで危険を回避できるなら、絶対にそうするべきなんだ。
僕は一つ息を返して、まっすぐ彼女を見つめる。
「頼まれたからには誠意を持って、我が身を気にせずやり切ろうというこの気持ちは、そんなに悪いことですか?」
意を決して言葉を返したが、彼女の顔色は変わらない。それなのに、彼女の怒りの火がさらに激しく燃えていることだけは分かった。
「もちろん悪くない。そもそも頼んだのは私だからね。それが君の美学だと理解もしているつもりだ。しかし、計画よりも自身を優先するということは、君にとって難しいことなのか? 私が心配だから無理はしないでくれと言っても、構わず美学に則ることが君の言う誠意なのか?」
「それは……」
「計画を進めることが君に無理をさせることと同義ならば、協力を仰がないよ。計画を完遂させるよりも、君が無理なく幸せに過ごす方が私にとっては喜ばしいことだからね。私の無茶な気まぐれに付き合わせて悪かった。それじゃ」
律さんはそう言って来た道を戻って行った。呆気にとられた僕は、その場にゆっくりと沈み込む。
えっと。何から考えれば良いんだっけ。
誤解がある部分は説明して、間違っていた部分は素直に謝って、それから、今後の計画を進める。
彼女の忌諱に触れたとて、僕は僕なりに律さんを思って行動していたし、そこは分かってもらわないといけない。
言われた言葉の全てを理解できたわけじゃない。しかし、協力は仰がないと言われた。解雇勧告とも取れるその言葉だけがすんなりと理解できた。
とりあえず、状況を整理しないといけない。じゃないと僕は立ち直れない。
呆然と立ち上がった僕は、そのまま部室と教室に寄り荷物を回収し、体調不良を理由に学校を後にした。