13話 「やはり味気ないね」
翌日の朝は、鬱屈とした天気に反して最高の目覚めだった。
気怠さも眠気もなく、よくわからない無敵感だけが僕を取り巻いている。
昨晩で脚本の修正も終わったし、メールのやり取りも驚くほど順調だし、違うことに没頭出来たおかげで思考はクリアだ。
律さんのサポートが長引けば長引くほど、蒔枝さんとのメールが楽しければ楽しいほど、最後に僕に返ってくるダメージは大きい。だから早くみんなをくっつけて、僕は元の世界に戻ろう。
一晩寝かせた結果、それが自身の感情に対する僕の結論になった。
そうして、いつも通りの昼休みを迎える。
「おや、今日は昼食を摂っているね。私の期待に応えてくれているのかな?」
部室の扉が開くと同時に、律さんは顔を緩めてそう言った。きちんと着丈に合った淡い色味のカーディガンを羽織り、彼女は穏やかに僕の隣に腰掛ける。
僕は大きな深呼吸を挟んだあと言葉を返した。
「今日は食べる時間がなくて。律先輩は今日も食べ終わってるんですか?」
「いいやまだだよ。たまにはご一緒しようと思ってね」
彼女はポケットから包装されたブロック型の栄養食品を取り出し、素早く封を切った。おやつにも見えるそれを、彼女は何食わぬ顔でかじり始める。
最低限の食事しか必要としない、近未来を描いたSF小説がなんとなく頭に浮かんだ。
「えっ? それお昼ご飯ですか?」
「そうだよ」
「足りるんですか?」
「ああ。今のところ身体に不調は出ていないね」
なんて味気ない昼食なんだ。移動中に食べていると毎回言っていたから察してはいたが、目の当たりにすると単純に心配になってしまった。
僕は彼女の方に弁当箱を傾けた。
「良ければ何か食べますか?」
「ふふっ。気を使わなくてもいいよ。私はこういう奴なんだ。最低限胃が満たされれば問題ない」
「そうですか……」
なるほど。食事というものに対する定義のようなものが、彼女と僕とでは違うのだろう。
僕は食べることが比較的好きな部類に入る。栄養補給はもちろんのことだが、見た目や味も伴って食事の満足度を判断している。でも多分彼女はそうじゃない。
諦めて弁当箱を戻したところで、律さんは手に持った固形栄養食品を揺らしながら、期待するような目で僕の目を見た。
「しかし、君が食べている物には興味があるね。私のと少し交換しよう。一口いただいてもいいかな?」
「えっ、た、食べるんですか?」
「君が勧めてくれたんじゃないか」
律さんはうっすらと眉を落とし、弁当を指差した。
「お母さんが作ってくれているのかい?」
「あ、いえ。自分で作ってます」
「自分で? すごいね、驚いた。君は料理が出来るんだね」
「家事全般多少は」
「そうかそうか」
律さんは驚いた顔を浮かべたあと、嬉しそうに微笑んだ。
「うーん。なおさら君の食事に興味が湧いてしまったよ。一番自信のある物をよろしく」
彼女は目を閉じて小さく口を開いた。ついさっきまで物を食べていたとは思えないほど綺麗な口内が、じっとりとこちらを見つめる。
綺麗な歯並びだな、なんて呑気な感想の後に、爆発したのかと思えるほどの心音が響き始めた。
これは、口の中におかずを放り込めという動きで合っているのか? 間違いないよな。というか良いのか? 僕の憧れシチュエーションの上位に入るぞ。……まあ攻守は逆だけど。
諸々考えながらも、僕は導かれるように鶏の唐揚げを箸で持ち上げ、それを律さんの口に運んでいた。
小さな口に吸い込まれていった唐揚げが、ゆっくりと咀嚼されていく。
「うん。美味しい。確かに笑顔になるのも頷けるね」
「あ、ありがとうございます」
「感謝はこっちの台詞だよ。ありがとう」
律さんは珍しく口角を上げ、手に持ったビスケットのような昼食を僕に向けた。
「ほら、交換だ。口を開けて」
「は、はぐ」
口を開けた瞬間にそれを押し込まれる。口中の水分が全て取られるようなパサパサ感と、ほのかなチョコレートの風味が僕の口を支配した。
急いで水筒をひねりお茶を流し込む。その姿を愉快そうに眺めていた彼女は、静かに微笑んで手に残った欠片を自身の口に放り込んだ。
「君のと比べると、やはり味気ないね」
「い、いえ、美味しかったですよ」
「ははっ。私が作ったんじゃないんだ。無理に褒めなくても良いよ」
「はい、いや、えっと……」
僕は急いで目を伏せた。栄養食品の味なんてものはもうどうでもよかった。
僕が齧った残りを彼女が食べたという映像の衝撃が、僕の味覚を停止させてしまった。
この人は本当にずるい。僕が割り切ってこの時間を迎えたのに、いとも簡単に心を揺さぶってくるのだから。
逃げるように唐揚げを口に放り込んだが、よくよく考えればこの箸も彼女の口に入り込んだ物じゃないか。ああもう、がんじがらめだ。
僕は思考を更に遠ざける為に、勢いよく新たな話題を放ることにした。
「そ、そういえば、『外堀埋め埋め作戦』は上手くいきましたよ!」
「おお。凄いじゃないか」
僕の勢いに一瞬身を揺らした彼女は、言葉を理解して大きく目を見開いた。
「宗方先輩の情報もちゃんとゲットしてきました!」
「そうか。ありがとう」
「それだけじゃなくて、律先輩を意識させることにも成功したと思います。自分でも最高のパフォーマンスを発揮できたかなと。まあ僕の手応えだけなので事実はわかりませんが——」
「ハル君」
言葉を遮るように名前を呼ばれ、僕は律さんの方を見る。彼女の顔を見て、思わず言葉が続かなくなるほどギョッとしてしまった。
眉の端がわずかに上がっている。でも普段の愉快な時のそれじゃないとすぐに分かった。
「何か無理をしていないかい? 随分と焦っているようだけれど」
「いえ、そんなことは……」
「そうか、ならいいが」
そこまで言って、律さんは眉を下げた。僕の良からぬ勢いを感じ取られてしまったようだ。
ふっと力が抜けたように微笑んだ彼女は、流れるように言葉を続けた。
「以前も言ったけれど、私は私のせいで誰かが見えずに不利益を被るのが好きじゃないんだ。特に君は自身を蔑ろにするきらいがある。時折心配になる、私の為に無理まではしなくていい、ということだけ伝えておくよ。遮ってしまってすまないね」
「はい。……ありがとうございます」
厳密に言うと、作戦自体では無理をしていない。事実宗方先輩への取材はそれなりに楽しかったし、作戦が上手く行った事は本当に嬉しい。それを一緒に喜びたい気持ちにも偽りはない。
でも、そこからが駄目なんだ。
一日経って落ち着いたと確信していたが、自身の失恋の為に動いているという事実から、どうやら僕は目を背けきれていない。
僕の事を慮って言葉をかけてくれる彼女を嫌いになる事も、多分出来ない。だから焦ってしまった。そして異変を察された。
朝の無敵感は、やっぱり気のせいだったようだ。僕は諸々をすんなり割り切れるほどさっぱりした奴じゃなかった。
それでも彼女の恋路の成功を願う気持ちにやはり嘘はない。
だからこの気持ちから逃げるんじゃなくて、上手く付き合っていかないといけない。
今後は今以上に気を引き締めようと深く心に刻み込み、僕はゆっくりと作戦結果を彼女に伝え直した。