11話 「春が来ちゃったの?」
ふわふわとした感覚のまま帰宅した僕は、椅子に深く身を預け携帯電話と睨めっこを始める。
珈琲数杯とケーキをご馳走してもらっただけではなく、純粋に会話を楽しんでしまったな。
しかしあれだけ濃い時間を過ごしたのに、僕に課せられた演目は一つも進んでいない。なんなら本人と喋ってしまったせいで、余計にメールに対して思うことが増えてしまった。
どれから手をつけよう。机に頭を落とすと、大きな溜息が漏れる。それを遮るように自室の扉が開いた。
振り返ると、堂々と部屋に侵入してくる妹と目が合った。
「ハル兄ー? 漫画返してほしいんだけど。……って顔暗っ!」
「なっちゃん。ノックくらいしてね」
項垂れている姿を妹に見られてしまった。
二歳下の那月は、こうやってノックも無く、よく僕の部屋に踏み入ってくる。
母親が男を作って家を出て行ってから、家事の大半を担うことが多かった僕に、彼女はわりと懐いている。
彼女は宙に浮きそうなほど軽快な足取りで僕の部屋を闊歩した。
「なーにー? 見られてまずい物でもあるのー?」
「ないよ」
「ねー! ゲームしようよゲーム!」
「せめて訴えをまとめてから来てくれる? えっと、漫画だっけ?」
「そうそう! 明日友達に貸すのー」
本棚から借りていた漫画を取り出す。
少女漫画だと侮っていたが、結局この漫画を参考にしたハンカチ作戦が上手くいってしまった。
「ありがとね。参考になったよ」
本を手渡すと、那月は不思議そうな顔を浮かべた。
「ほいさ。ん? 参考? なになに、まさか春が来ちゃったの? ハル兄に春が来ちゃったの? ぷぷっ」
「小説の参考ね。僕が友達が少ない陰キャなのは、なっちゃんもよく知ってるでしょ」
「なるほどたしかに! 理解した!」
恥ずかしいからあっさりと納得しないでほしい。
僕と違って那月は人の懐に入るのが上手い。僕の断れない性格が育ててしまったと言っても過言ではないが、彼女は手を貸してもらうという能力に長けている。
ここまで考えてひらめきが湧いてきた。漫画より先に直接那月に話を聞けばよかったんだ。僕はベッドに腰掛けて彼女に視線を向けた。
「なっちゃんちょっと質問していい?」
「なーにー?」
那月は漫画をその場に置き、僕の隣に腰掛けた。
「自分のことを好きになって欲しかったら、まずなにをするべきだと思う?」
「うむむ。その好きっていうのはどういう好き?」
「恋愛にしようか」
「ハル兄……。熱でもあるの? 今日は私がご飯作ろうか?」
彼女は目を丸くして僕を見る。本当に失礼だなこの妹は。僕が恋愛話をするのがそんなにおかしいか。いや、おかしいな。那月のリアクションが正解だった。
「さっきの話の続きだよ。小説でそういうシーンが必要だから、参考にしたいんだ」
「なーんだ。びっくりしちゃったよぉ。そういうことね」
彼女はふむふむうなずいた後、堂々と腕を組んだ。
「ではでは、那月様が教えてしんぜよう」
「お願いします」
「絶対に必要なのは、相手に自分を意識をさせる時間を増やすことだね」
「時間を……増やす?」
「自ずと意識が向いちゃう空気を作って、こっちの事を考えさせる時間を増やしちゃえばいいの。めちゃくちゃ話しかけたり、しょっちゅう遭遇したり、やたらと好意をアピールしたり。そしたら気づかないうちに意識が向いちゃうもんなんだよ」
自発的な行動がてんこ盛りだな。僕はぼんやりと時計を眺めて言葉を返す。
「要はアプローチをかけてなんぼってこと?」
「そゆこと! まあ偶然そういう空気になることもあるだろうけどねぇ。漫画にもあったじゃん、あの子お前のことが好きらしいぜ、みたいな遠回しなやつ。そこから恋が始まる、なんてこともあるかも!」
彼女はぱたぱたと足を動かして漫画を指差した。確かにそんなシーンがあった気がする。
ぽやんとしていると思っていたけれど、意外と考えてるんだな。思いの外参考になってしまった。
「なるほど。ありがと」
「報酬はおかず一品追加でよろしく!」
「はいはい。ご飯まで大人しく漫画でも読んどいてね」
「あいあいさー!」
那月は漫画を拾い上げ、とことこと自室へと戻っていった。
あの子、お前のことが好きらしいぜ、か。一つ作戦を思いついてしまったが、これをすると本格的に僕が矢面に立たないといけなくなる。
これ以上負担が増えて大丈夫なのだろうか。とにかく一つずつこなしていこう。それしかない。
僕はキッチンに向かいながら、ぼんやりと蒔枝さんの手の感触を思い返していた。