1話 「迂闊に受け入れないほうがいい」
『キューピッド』
ローマ神話に登場する、翼と弓矢を携えた愛の神様。
その矢に撃ち抜かれた者は、時に恋心を引き起こし、時に恋心を失う。
そのため、恋愛において仲人のような役割を果たす人のことを、『恋のキューピッド』なんて呼ぶこともある。
これは、翼も弓矢も持っていない恋愛初心者の僕が『恋のキューピッド』になるまでのお話。
頼み事なんてものは、迂闊に受け入れないほうがいい。相手の事を慮って手を差し伸べても、それがその人のためになるとは限らないから。
同情は渇きを潤す水にもなるし、喉元を切り裂く氷塊にもなり得る。だから気安く情に絆されるなんてことは、なるべくしないほうがいい。
そんな人生で何度目かもわからない後悔を浮かべながら、僕は薄く光る携帯電話を見つめた。
映し出されているのは角のない可愛らしい一通のメール。しかし、この差出人のことを僕は良く知らない。なぜこんなことになってしまったんだろう。
ベッドに身を預け、顔を左手で覆うと、ぷかりと昼間の光景が思い返された。
「代筆?」
雑踏に紛れる友人の声に、僕は驚きながら言葉を返した。いつも通り騒がしい昼休みの食堂には、学年問わず多くの生徒が集まっている。
「そう。ゴーストライターってやつ。頼むよ。俺の代わりに好感度上げてくれよ」
「無茶言うなよ」
「頼む! 一生のお願いだ!」
「はあ……」
目の前で頭を下げる彼を見て、僕は深く溜息をついた。もはや何から突っ込めばいいかわからず、逃げるように弁当箱に箸を伸ばす。
幼少期からの友人、和田口智哉。彼の主訴を纏めるとこうだ。
『ものすごくタイプの子に連絡先を聞くことが出来たが、肝心のやり取り内容が全く思い浮かばない。直に会って話すことは得意だけれど、向こうは文章で仲を深めたいと言ってきている。だから仲が良くなるまで、文章構成が苦手な俺の代わりにメールを返してくれ。俺の代わりに好感度を上げてくれ』
要はゴールまでのアシストしろということらしい。その方法が代筆とは呆れてしまう。こいつは倫理観をどこかに忘れてきたのか。ただただ駆け引きが面倒なだけだろう。
「そこまでして仲良くなりたいならまずは自分で頑張れって」
呆れたまま言葉を吐き出したが、彼は食い下がり諦める様子を見せない。
「いや知ってるだろ? 俺、文章はほんと駄目なんだよ。お前文芸部だし、得意そうじゃん?」
「文芸部をなんだと思ってるんだ。もちろん却下だよ」
やれやれと首を振る僕に、彼はより深く頭を下げる。祈るように向けられる菓子パンが、甘い匂いを運んだ。
「この通り! お前が中学の時にクラスで回していた恋愛小説。ありゃ良かった。あの文章力を見込んでの依頼だ。頼むよハル様」
このやろう。人の黒歴史を引き合いに出しやがって。あの小説のせいで、僕の卒業アルバムは告白シーンの寒いセリフで埋め尽くされてしまったんだぞ。
あとこんな賑やかなところで目立つ動きをするな。視線が気になって仕方がない。キョロキョロと目を泳がせながら、僕は言葉を返す。
「おい。頭上げろって。すごい見られてるから」
その言葉に対しても彼の頭は上がらない。直接的に声をかけてくることはないが、周囲からこちらにひっそりと視線が向く気配を感じる。
幼少期からの付き合いである彼には、僕のこういう場面での弱さが筒抜けなのだ。
僕は物事を深く頼まれると断ることができない。これは優しさから来るものなんかじゃなくて、本当に断ってよかったのかという後悔が長く尾を引く性格に起因している。
自分のこういうジメジメとした性格をよく知っているから、後悔したくないという保身の為に結局頼まれ事を飲んでしまうのだ。
今回で言えば、後々思い返されるのはおそらくこの大衆の視線。『ここまで人目を気にせず頼み込んでいるのに、それを断るだなんて可哀そうなことをした』という事実だけで、十分夜通しもやもや出来るだろう。
もう一度目の前の彼に視線を戻す。半袖から伸びる健康的な小麦色の肌は、はんぺんのように白い僕の肌とは大違いだ。しばらく無言で目を向けていたが、やはり頭は上がらない。
僕は諦めを込めてもう一度溜息を吐き出した。
「わかった。わかったから。やる。やればいいんだろ。だから頭を上げてく――」
僕が言葉を言い終わる前に、彼は頭を上げ笑顔を向けてきた。
「さすがハル。サンキュー! じゃ携帯貸して。『和田口智哉です、アドレス変更しました』って、ハルの携帯から送るから」
最初からここまでの流れを用意していたかのように、彼は流暢に言葉を並べた。
どうやら彼は、僕のメールアドレスを自身の新たなアドレスと偽装して送り付けるつもりらしい。
何ともチープなトリックだ。僕が依頼を飲む事まで計算の内か。侮られすぎだろ。というか、そもそものやり取りすら僕がするのか。それはもうなりすましじゃないか。
「はあ? 代筆ってそこまでやらせるつもりなのか?」
「あったりまえじゃん。俺が間に挟まっても面倒なだけだろ。報酬は何がいい? 飯か? 金か? 上手くいったら追加報酬も検討しようじゃないか」
テンポよく流れる言葉に、深く考える気力が削ぎ落される。
「もうなんでもいいよ……。好きにしてくれ」
僕はあっさりと携帯電話を手渡し、残りの弁当をかきこんだ。
こうして為されるがままゴーストライターに仕立て上げられた僕は、『和田口智哉』としての最初の夜を迎えることになった。
浮かんだ回想に大きく溜息をかける。時間の経過とともに、自分の行為が愚かだったという実感がじわじわと身に染みてくる。
メール相手は羽束蒔枝さん。智哉曰く、近くの女子校に通う一学年上の女の子らしい。
彼女は僕が代打ちしているとも知らず、『アドレス登録し直しました。たくさんお話しできると嬉しいです』と律儀に返事をくれた。
せめて電話番号に紐づけされているメッセージアプリを使ってくれていれば、こんななりすましのようなマネをせずに済んだのに。純粋無垢な少女を騙しているような気がして心が痛い。いや事実か。
もうこれだけで申し訳なさでお腹いっぱいなわけだが、ここまできて後戻りはできない。半端な仲介は全てを傷つける。ならば最後まで役割を全うしてやろうではないか。
携帯電話に土下座を向けた後、僕は脳をフル回転させて言葉を紡いだ。