8月・2(☆)
「と、難題が片付いたところで」
ドリンクのカップを音高く置いて、ヴィヴィは身を乗り出した。
「明日は”海”に行こう!」
「……………………そんな気分じゃない」
何を言い出すのかと思ったら。自分が遊びに行きたいだけじゃないか。
「ノクトも”海”に行こうって誘えば出て来るって」
「来ないよ」
「来る。秘策がある」
あからさまな失望を顔に出した僕に、ヴィヴィは不敵な笑みを浮かべた。
”海”とは水族館の敷地内にある巨大な水場のことだ。
今は使われていない古びた建物ごと水に沈めて作られているそれは”海”と言うよりも古代遺跡にしか見えない代物で、通常は水生生物の繁殖と飼育に使われている。
壁や床の凹凸具合が住み着くのに適しているらしい。
学生たちに開放されるのはその”海”のごく一部。
一般開放エリアだとは言うけれど、飼育に使われている場所と繋がっているのにバシャバシャ入り込んで水質が変わったりしないのだろうか。
妙な菌を伝染されたりはしないのだろうか。
とは毎年思う。
何百年か昔には、この”海”と同名ながら似ても似つかぬ存在が世界の7割を占めていたらしい。
地表が3割しかないなんて不便だとかそういう意見は置いておくとして、見渡す限り青い水しかない世界というのは圧巻だろう。想像もできない。
けれど。
いや、だから。
”海”を知らない僕らは、想像すらできないそれに憧憬を抱くことなどできない。
むしろ砂嵐が吹き荒れる荒野のほうが思い入れがあるかもしれない。
なのにレトはこの時期になると”海”を提供してくる。
意図はともかく、この暑い最中に水遊びができることだけは素直に賛成するし、大半の学生も同じ意見だろう。
そして昨年までのノクトも。
「月の後半になるとクラゲが出てくるから嫌なんだよね。
ほら、ノクト去年クラゲに刺されたじゃない。誘うなら絶対に今のうちだよ。後になったらクラゲが出るから行かない、って言うよ」
「そう簡単にいくかなぁ」
外に引っ張り出す、という点からすれば良案ではある。
少なくとも昨年まで(クラゲに刺されるまで)のノクトは”海”を楽しんでいた。
ファータ・モンドにも”海”はあるかもしれないけれど、ラ・エリツィーノでの”海”は今年が最後。僕たちが共にいられるのも最後。
そう考えればベッドに根を張ってしまった重い腰を上げるかもしれない。
しかし今のノクトは昨年までの彼とは違う。
いつもならホラ話が受けなかったと知るや、その時点で止めるのに、今回は何をこだわっているのか何時までも”自分は能登大地だ”という主張を曲げない。
僕らが”前世は能登大地説”に乗ればいいだけの話なんだろうけれど、何故毎回、毎回、こちらが折れなければならないのだ。
個人的に言えば、ノクトの機嫌をとるために”海”に誘うことすらしたくない。
勝手に引き籠ってろ馬鹿! と言いたい。
「いくさ! 僕らの水着姿が拝めるんだよ? 絶対に来る!」
「その自信は何処から来るんだよ」
売り言葉に買い言葉的にツッコんではみたものの、そんなこと聞くまでもない。
ヴィヴィは外見だけなら女の子にしか見えない。
本人もそれを理解していて、髪型や服装も女性を意識している。
チャルマはヴィヴィほど気をつかっているようには見えないけれど、おとなしい性格のせいで女の子であることを暗に期待されている。
そして 此 処 では女性的な見た目の学生のほうが尊重される。
前述したけれども、性徴が来て僕らは初めて男性、女性に分かれる。
けれども噂ではその比率にかなりの差があるらしく……どうも男性のほうが多くなるらしい。
何が言いたいかと言うと、ファータ・モンドでレトによって伴侶の割り振りがされる際、男性に変化した者は相手が見つからない事態に陥る可能性がある、ということだ。
レトは当然、優秀な学生の遺伝子を先んじて残そうとするだろう。
噂だから真偽のほどは確かではない。
けれど、火のないところに煙が立つことはない。
だからこそ卒業が近付くにつれ、女性になる可能性がありそうな学生に粉をかけてくる学生が増える。
イグニがフローロに近付いたのもきっとそれが理由だ。
でも。
「あのノクトだよ? こう言っちゃあ悪いけど、今までだってヴィヴィに全然興味持ってる感じしなかったじゃない」
「ふふふ、人間は成長するんだよ」
「それでもし本当に興味持っちゃったらどうすんのさ」
「もちろん盛大にフッてやるとも! 苦い経験はさらなる成長の糧となるであろう!」
「それじゃあまた引き籠っちゃうよ!」
けれども全員が目の色を変えて”女の子っぽい学生”を奪い合うわけではない。
性徴後に姿が変わることは周知の事実。
今此処で相手を選んだところでその相手が女性になるのも、自分が男性になるのも確定事項ではない。
さらには狭い社会でのこと。
口説いて玉砕すれば瞬く間に広がり、陰で笑われることも知っている。
「却下、却下。無理」
「行動を起こす前に諦めるのは負け犬だよマーレ」
「どうせ行動するなら成功率の高いものにしよう、って言ってるの」
僕は頭を抱える。
ヴィヴィは同室じゃないから、ことの深刻さがわかっていないに違いない。
話しかけても返事も返さず、それでいて陰鬱な空気を撒き散らす。
気が滅入るどころの話じゃないのだこっちは。
「あ、あのね、ノクトがこの間から使ってる”俺”って、”僕”と同じで昔は男の人が使ってたんだって。きっと前世は男の人だったんだと思うんだ」
「…………はい?」
だが。
唐突に追加されたチャルマの一言に、僕はヴィヴィへのツッコミも忘れて思わず彼を凝視してしまった。
「男?」
「だ、だからね? もともと自分が男だって認識でいるんだったら、同性愛主義者でもなければ女の子に目が行くものでしょ? ヴィヴィは女の子っぽいし、水着も効果あるかなぁって」
「そう! どうよ、この完璧な作戦!」
ふたりはふたりでノクトのことを考えていたのだろうか。
確かに旅立ちの日以降のノクトはやけに口調も荒かった。
けれどそれは彼が”能登大地という男”を演じているからだと思っていた。
でももし本当に転生していたとしたら。
”能登大地”になら女の子(っぽいもの)の水着姿は効果があるかもしれない。
「念には念を入れてチャルマも水着を新調してるから」
「ヴィヴィ! それは言わなくていいよぅ」
「だって能登大地の好みのタイプって知らないし。もしかしたらおっとりおとなしめ系が好きかもしれないじゃない?」
得意げに暴露するヴィヴィの声に、僕はまたしてもチャルマを凝視してしまう。
……その紙袋は水着か。
能登大地を誘惑するためにというのは建前で、ただ単に水着を新調したかっただけだとは思うけれど、この分から行くと今年はチャルマもヒラヒラした水着を着せられるらしい。
彼なら似合わなくはないとは思うけれども、気の毒に、という感想しか出て来ない。
「何その顔は」
「いえ何でも」
「言っておくけどね。せっかくかわいく生まれたんだからかわいい服を着なくてどうするの! イグニみたいにやたらとゴツくなっちゃって、着たくても着れない奴も大勢いるんだよ?」
「やめて想像させないで」
ヒラヒラした水着に身を包むイグニを想像してしまって胃が痛い。
と同時に同情する。
そうだ、彼は好きであんな顔と体形になってしまったわけではない。
できることならフローロになりたかったに違いない。
ああ、願わくば彼はファータ・モンドで女性になれますように。
そして今まで着れなかった分、水着でも何でもかわいい服が着られますように。
ついでに言えばフローロも女の子になって、それで関係も破綻してしまえ!
ヴィヴィは値踏みするような目で僕を見る。
「僕としてはマーレも似合うと思うんだよねぇ。買いに行く? 選んだげるよ」
「なんの拷問だよ」
だがしかし。僕には振るな。
冗談ではない。
その結果、ノクトに意識されるようになったらどうしてくれる。
男のつもりでいる同室の相方に異性として見られるなんて、おちおち寝てもいられない。
思わず身震いした僕とは逆に、ヴィヴィは頬杖をついたまま、楽しげに人差し指で僕の鼻を突いた。
小悪魔的な視線に「ああ、こうやって幼気な青少年を手玉に取って来たのか」なんてしみじみと実感してしまう。
「と言うことで明日は10時に玄関に集合! わかった?」
「はいはい」
”遊びに行こう”なんて空気を読まない提案に、ましてヴィヴィの水着が拝めるなんて理由で籠城を解くとは思えないけれど、”人間は成長するもの”だし、もしかしてもしかするとな一発逆転イベントが起きないとは限らない。
僕はカップを握り潰すと席を立った。