7月・4
走って、走って、走って。
本音を言えば上り坂を走るなんて死んでもやりたくない。
早々に息は切れ、立ち止まったら最後、膝から崩れてしまいそうだ。
ガクガクと意味不明に震える膝のせいか、重力のせいか、進んでいる感じがしない。
普通に歩いて上ったほうが早かったかもしれないけれど、もう遅い。
ノクトのセルエタは僕の手中にある。
ヴィヴィやチャルマが彼を見つけたところで30分では本人に返すのは無理。
だが町の何処かにいるのならまだ誤魔化しようもある。
少なくとも脱走の意思はないと証明できる。
「何処で落としたのかわからなくてずっと探してましたぁ」とでも言っておけば連行されることはないだろうし、本人が連行される罰でなければ僕も”口頭での厳重注意”くらいで済むだろう。
でももしセルエタを故意に置いて行ったのだとすれば。
身につけている限り居場所はレトに筒抜けだから、脱走者は大抵セルエタを置いて行く。ノクトがそれに準じたとしたら。
せめてセルエタを持って行ってくれれば良かったのに。
そうすれば僕はノクトの失踪を知らずにいられた。
突然捜索隊がやって来て監視責任を問うまで安穏としていられた。
どうせ門限までには帰ってくるだろうと思う程度で済んだ。
好転どころか絶対に悪いほうにしか転がっていないけれど、心の平穏を思えばそちらを願ってしまいたくなる。
息を切らしてこんなに探して、それでノクトの代わりに捕らえられるなんて、いったい僕が何をしたんだ?
前世で徳を積まなかったからとでも言うのか!?
最後の曲がり角を抜けると木々の向こうに灯台が見えた。
薄暗くなってきた景色の中で、白く浮かび上がっている様はいかにもゴールと言わんばかり。
実際、到着したところで誰もいなければとんぼ返りしなければならないのだけれども、今の僕には終点にしか見えなかった。
ヴィヴィからもチャルマからも連絡はない。
きっともう時間もない。
足掻いても無駄だ。
もうお終いだ。
だったらもう此処で止まってもいいじゃないか――。
そんなやけっぱち気分で前を見ると、上り坂の終点あたりに柵に寄りかかっている人影が。
ひとり。
丸まった背中が哀愁を誘うけれども、何のことはない、ただの猫背ーー!!!!
僕は駆ける勢いのまま、その背を殴りつけた。
「おわっ!」
奇声を発し、よろけて柵を乗り越えかけたが知ったことか。
ヴィヴィが提示した3つの選択肢から当たりを引いた喜びよりも、怒りの沸点がMAXだ。
心穏やかに話しかける余裕なんてない。
へたり込んだノクトを無視し、僕は息を整えがてら、柵の向こうに目を向ける。
先ほどまでいた広場と、横に長く続く壁と、その向こうの世界を覆い隠す砂嵐。
その全てが薄闇色のヴェールに覆われている。
その中を一筋、灯台の灯りが照らす。
ノクトは此処でひとり、バスを見送っていたのだろうか。
でも黙っていなくなることはないじゃないか。
それもセルエタを置いて!
その時だった。
握り締めていた右手から甲高い警告音が鳴り始めたのは。
セルエタを見る。
表面で赤く点滅する数字は0。小数点以下が刻々と減っていく。
「まずい!」
僕はセルエタをノクトの首に掛けようとし……ストラップが切れていることを思い出した。
仕方がないので掴んだまま鳩尾のあたりに押し付ける。
「なん、」
「動くな!」
そうこうしているうちに、震え続ける振動と押さえ込まれてくぐもった警報音は、やがて、どちらも止まった。
「……間に合った」
「えっと、これは……?」
安堵の溜息を吐いた僕の耳に、ノクトの戸惑った声が聞こえた。
「これはぁ!?」
一度は鎮まりかけた怒りが再沸騰し始める。
こっちの苦労も知らないで何を寝ぼけたことを言っているんだ。
あの一蓮托生システムがなければ、町の外で干乾びようが放置できたものを!
握った拳が震える。
ノクトのせいで僕はフローロと話す時間が取れなかった。
彼のほうから見つけて呼び止めてくれなかったら、僕は彼への罪悪感を抱えたままいもしないノクトを探し続け、そして時間切れになっていただろう。
「で、お前誰?」
「はあああああああ!?」
なのに、さらに続いたノクトの台詞が怒りに塩を塗りつけてくる。
ばつが悪くて記憶喪失のふりでもしているのだろうか。
そうでなくても「探してほしいと頼んだわけじゃない」なんて普段のノクトの常套句。
”同室者脱走の恐れあり。動向に注意されたし” なんて通達がレトから来ていることも知らないで!
「それがセルエタ捨てて勝手にいなくなった奴が言う台詞なわけ!? 言っていい冗談と言ったら駄目な冗談があるってわからない?
と言うか、それ以前に冗談で誤魔化せると思ってるって最低だよね。いい加減わかってほしいんだけど、勝手なことをすると僕の責任になるんだ。迷惑なんだよ!」
フローロに最後の挨拶すらしないで。
鼻の奥がツンとなる。
そんな顔を見られたくなくて、僕はノクトから顔を背けると立ち上がった。
どれだけ目を凝らしても、もうバスは見えない。
フローロだってもう僕らのことなんか忘れて新たな町での生活へと心を躍らせているに違いない。……イグニと。
あたりは次第に暗くなっていく。
眼下に見える街に、ぽつり、ぽつりと灯りが灯る。
ひとつ大きく息を吐くと、僕は未だに座り込んだままのノクトの腕を掴んだ。
気を取り直して、と言えるほど簡単に鎮まる怒りではないけれど、鎮まるまで待っていたら明日の朝になってしまう。
そしてその間にもこの空気を読まない馬鹿は、ふらりといなくなってしまうのだ。
「……帰ろう。ヴィヴィとチャルマにもちゃんと謝ってよ? 探してくれてるんだから」
制限時間をとうに過ぎているのにヴィヴィたちから何も言って来ないのは、「連絡がないのは見つかった証拠」と思ってくれているからか。
それとも「時間切れだね残念」と思っているのか。
それはわからないけれど、とにかくこのヒネクレ者には謝らせないと。
ヴィヴィなら虫の居所しだいで土下座だって強要するからいい薬になるだろう。
腕を引っ張られ渋々といった風情で立ち上がったノクトは、だがしかし、困惑したように眉尻を下げたまま僕を見下ろした。
「で?」
「何が?」
この期に及んでまだ何か言うつもりだろうか。
睨みつけはしたものの、下から見上げたところでそれほど凄みは出ない。現にノクトはうんざりしたような顔で口を開いた。
「だからお前は? そんでもって此処は何処だよ。普通はエンカウントした時に名乗るもんだし、世界の説明とかどんな能力を持っているかとか言うだろ?」
「は?」
記憶喪失が転じて、今度は異世界から来た転生勇者にでもなったつもりか?
どうやらまだ妄想語りを続けるつもりでいるらしいが、本当にうんざりしているのはこっちのほうだと言いたい。
ノクトと同室にならなければ。
いやこの際ヴィヴィでもチャルマでもそれ以外でもいい。
中二じみた考え方をしない普通の学生が同室だったのなら、学生生活はもっと楽だったろうに!
「……いい加減にしてくれない?」
「いい加減って、俺は、まだ」
いつもは相手の反応が悪ければすぐに妄想語りをやめるのに、未だ続ける気でいるのは、よほど現実世界から逃げたいのだろうか。
そうすれば誤魔化せるとでも思っているなら教育を間違えたとしか言いようがない。
「記憶喪失ネタかと思ったら今度は転生? 言っておくけどそういうのって寒いだけだから」
夢見がちと言えば言葉がいいが、ノクトは昔から物語の中身に憧れているところがある。
本棚にもそういった類の話が並んでいて、そのどれもが”何の取柄もなかった学生の自分が、突然異世界に召喚されて勇者になった”だの”王族の生まれ変わりだった”だのと……読んで楽しむ分には口出ししないけれど、自分もそうだと思い込んだり、まして、ごっこ遊びに付き合わされるのは迷惑でしかない。
「違う。本当に、」
ノクトはわしわしと髪を掻きむしり、それから、はた、と思いついたような顔をした。
「いいかよく聞け。俺は能登大地。ノクトなんて名前じゃない」