6月・3(☆)
卒業式の今日でさえ、ノクトは帰って来なかった。
僕は上着のポケットに手を突っ込み、忍ばせておいたセルエタを取り出す。塗りの甘い、黒いセルエタはノクトのもの。水族館で渡されたものだ。
自己満足に過ぎないけれど、今日はこれを持って式に出た。一緒に卒業したつもりで。
本当はヴィヴィやチャルマのセルエタも持って来たかったけれど、どちらも行方不明。永遠に続くと思っていた日々は、こうもあっさりと失われてしまう。
数日前から降ったりやんだりと雲行きが怪しかった空からは、とうとう雨粒が落ち始めていた。
教室棟の壁が、まだらに色を変えていく。
3日も降った後なのに、レトはまだ降らせるつもりらしい。
前文明の今頃はよく雨が降っていたそうだからそれを模しているのだろうが、何処も彼処も舗装して雨水を吸い込む地面が少ないこの町で、そこまで真似る必要性を感じない。
この雨で別れの涙を表している、と情緒的に思いたくとも、昨年は降っていなかった。イベント日は大抵晴れるのに、今年から方針を変えたのだろうか。
出席していた他の皆も、今日雨が降るとは思っていなかったのだろう。
式が終了してしばらくは小降りのうちに、と走っていく影があった。雨足が強くなってきた今、同じことは出来そうにない。
しばらく待つか。
それとも傘立てに残されたまま忘れ去られている傘を1本拝借して帰るか。
どちらとも決めかねて、僕はただ空を見上げる。
せめて旅立ちの日は晴れるといいのだけれ……いや、ヴィヴィもチャルマもノクトも、そして後輩の多くもいない今、過去を振り返る時間なんてないほうがいい。
どうせならこの雨も外の世界で降ればいいのに。そうすれば海も復活するだろうに。
無理と知りながらそんなことを思う。
このの雨は町を覆うドームに仕込んだ散水弁から放出される偽物。屋根のない外の世界では降りようがない。
あたりは人の気配を感じないほど閑散としている。
昨年は校庭で歓談する学生の姿が何時までもあったが、今日は何処にもいない。それが除け者にされた時のような寂しさを連れて来る。
僕は証書筒を手に昇降口へ足を向ける。
その時だった。
「卒業おめでとう。少しお話していかない?」
クレアがいた。
「荒野の中に降る雨、と考えればこの雨も慈雨と呼べるのかもしれないわね」
誰もいない図書館で、クレアは窓際に立ち、中庭を見ている。
狭い空間の中で我先にと枝葉を伸ばす様は、植物界の生存競争を見せつけられているようだ。
が、彼女の目はこんな小さな中庭など通り越し、砂嵐が吹きすさぶ町の外が映っているのかもしれない。
乾燥した砂地の中でただ一点、雨が降りしきる町。大昔ならオアシスだと歓迎したかもしれないけれど、想像してみると案外にシュールな光景だ。
「町の外で降らなきゃ慈雨とは呼べないよ」
僕は鞄と証書筒を机の上に置き、クレアに倣って外に目を向ける。
暴力的な雨音は、先ほどよりもさらに強まっている。
フローロが卒業した後で再び”フローロの卒業”を認識できるのか疑問だったが、意外なことにクレアはすんなりと理解していた。
ここで『1年前に卒業してるよね、僕』と意地悪く聞いてみたらどんな反応が返って来るか気になったけれど、彼女は顔認識以外にもいろいろ故障を疑いたいところが多々ある。
もし矛盾が処理できなくなって司書の業務に支障が出ることになったら、それで処分されることにでもなったら完全に僕のせいだ。怖いことはできない。
「そうかしら。まずは植物の生える環境を整え、そこである程度の群生になるまで育て、それから劣悪な環境下に放つ。1本では折れてしまう草木も群生でなら生き延びることができるでしょう?」
確かにこの中庭は”ある程度の群生”だけれども。
しかし此処の木々は外に移植する予定で育てているわけではないだろう。ここまで大きく育ってしまったら運び出すのも難しい。
でも、この生命力なら。
僕は成長した木々が窓硝子を突き破って図書館内に侵入する様を思い浮かべる。
図書館を占拠した後は廊下を伝って教室棟や研究棟へ広がり、学園を越えて商店街に魔手を伸ばし……最後にはこの町全体を飲み込み、塀を突き破って外に出て行く様を。
そんな荒野を浸食していく緑のヴィジョンにヴィヴィの木が重なった。
逃げ惑う周囲の学生が枝に絡めとられ、同じように木に姿を変えていく。助けを求めて伸ばされた学生の手の先からも芽が吹き、葉を広げる――。
想像しておいて何だが、背筋が寒くなる。
「――それならこの雨も慈雨と呼べるのではなくて? 万物を潤し、育てる雨、と」
身震いをひとつする僕に気付く様子もなく、クレアは笑みを浮かべたまま指をさす。
「見てごらんなさい。環境が整ってさえいれば荒れ果てた世界でもこれだけ育つことができる」
「……それより。どうして彼処に?」
僕は話題を遮って彼女に問う。
まさか一緒に中庭の木を眺めるために、図書館司書の彼女がわざわざ教室棟の昇降口まで迎えに来たわけではないだろう。
僕と彼女は雑談に花を咲かせるほど親しい間柄ではない。
今年に入ってからは何度か言葉を交わしたこともあるけれど、あくまでそれはフローロと間違われていたからで、昨年までは口をきいたこともない。
「待っていたのよ、あなたを。だってあなたのことだから私のことなんてすっかり忘れて帰ってしまうでしょう?」
クレアの台詞に僕は沈黙で返す。会う約束などした覚えもない。
1年前に”フローロと”約束をしていたのだろうか。
1年前の今日……多分こうして会うのは最後であろうその日に、フローロはクレアとどんな話をしたのだろう。
……もし僕がフローロになりきって話を進めれば、彼がクレアに何を託したのかがわかるのではないか?
僕はポケットを上から撫でる。
やってきた後輩にフローロの貸し出しコードを教える意味も。
フローロの手紙も。
イグニがチャルマに伝えた戯言の真意だってわかるかもしれない。
「……クレア。今になって言うのは狡いと思うんだけど、僕はフローロじゃない」
でも結局、なりきるのはやめた。
これら一連のことはフローロが主軸だ。話の主導権もフローロが持っていただろう。僕では会話が成立しない可能性のほうが高い。
それに最後までクレアを騙していくのも気が引けた。
だが。
「知ってるわ」
返ってきたのは意外な返答だった。
以前、フランの『僕が図書館で勉強しているとクレアから聞いた』という言葉に違和感を覚えたことを思い出した。
アンドロイドとレトの間でなら、認識したことがそのままデータとしてレトに送られる。
どれだけ僕のことを「フローロ」と呼ぼうとも、彼女が僕をマーレとして認識していたのだとすれば、レトには『マーレが図書館で勉強していた』としか伝わらない。
つまり。
クレアは最初から僕を僕だと認識していた。
では何故彼女は僕をフローロと呼んだのか。
僕をフローロとして扱うことで彼女に何の利益があるのか。
「クレアは、何を知ってるの?」
「全てを」
「全て?」
「そう。フローロがあなたに伝えたかったことも、あなたが此処で知り得たことも」
「貸し出しコードを誤って渡す演技までして?」
そうだろうか。
クレアが、僕にフローロの後を僕に辿らせたかったのか?
フローロ自身に、僕が追って来るように仕向けてくれと頼まれたのか?
何にせよ、彼自身が僕に結論を話す、という手段が取れなかったからこんな回りくどい方法――クレアが僕をフローロと間違えていると錯覚させ、フローロの貸し出しコードを渡し、フローロが置いて行った本を読ませ、手紙を渡すこと――がなされたのだと言うことだけはわかる。
フローロはそれだけ監視されていた。
誰に?
それができるのは、レトだけだ。
しかし疑問も残る。アンドロイドであるクレアが、いくら人間からの頼みだとは言え、レトを介さない行動に加担するだろうか。
初期型ならレトへの服従よりも感情を優先させるかもしれないが、クレアもそうなのだろうか。顔認識を始めとする故障を疑いたくなる言動は、初期型故だろうか。
それともこれも演技なのか?
自分はレトに反する者だと……レトよりフローロの味方だと僕に思わせるための。
そもそもこのクレアは本当にクレアなのか? レトが入り込んではいないか?
フローロがあれだけ回りくどい方法で伝えようとしたのは、クレアにも知らせないため。クレアを通じてレトに伝わることを恐れたからだ。
今彼女は全てを知っていると言ったけれど、探りを入れているだけかもしれない。
フローロの……あの手紙の存在だけはきっと知らない。
僕は周囲を見回す。
監視カメラは部屋の四方と出入口に2ヶ所、書架コーナーに4ヶ所、中庭に面する硝子扉の上に3ヶ所。緑のランプが灯っている。
こうしている今も、レトは僕を見張っている。




