5月・4
案の定、無料に釣られる学生など僕たち以外にはいなかったようで、水族館に僕たち以外の人影はまるで見当たらない。出入口近くに設けられているお土産売り場にすら誰もいないところから察するに、もう夕刻だから、という言い訳は通用しなさそうだ。
入場ゲートを彩る魚の寒々しい笑顔に、この先待ち受ける閑散とした光景を想像しつつ、僕はノクトに続いてゲートをくぐる。
”淡水に生息する虫と魚”と書かれた展示パネルの下、数百年前には生きていたであろうそれらの”絵”が延々と続き、やがて順路は闇に呑み込まれた。
通路の両側に沿って、両腕で抱えられそうな――ノクトなら『これが水族館の水槽かよ』と鼻で笑いそうな大きさの――水槽が並ぶ。
蒼白い光に照らされて揺れるイソギンチャク。砂に混ざり込んで動かない虫。硝子面に貼りつく小さな巻貝……と子供心にまるで響いてこない生き物が名前もないまま展示されている。
自力で動こうとしないそれらは、僕からすれば死骸の群れと何ら変わらない。感銘も受けない。
足音を吸い込んでしまう青カビ色のカーペットと耳鳴りのように聞こえる空調の音は、初等部の学校行事で何度か連れて来られた時の記憶のまま。
水族館側のスタンスは”水生生物に親しんでもらおう”ではなく”我々の長年の培養の成果を見るがいい”ではないのかと疑ってしまうほど、そこに歓迎ムードはない。
子供心にも楽しい場所ではなかったが、何年か経った今でもやはり気が滅入るばかりだ。
「暗いところは怖いのか?」
「ち、違うよ!」
黙ったまま後に続く僕をノクトは別の意味に解釈したらしい。
子供でもあるまいし、と続けそうになった脳裏に、その初等部の行事で此処に来た時のことが浮かんだ。
初めての寮生活。
有無を言わさず組み分けられた同室の同級生。
人見知りで馴染めなかった僕と『同室だから』と言うだけでセット扱いされたノクトは、その時もやはり僕の隣にいて、
『暗いところが怖いんだ?』
と意地悪く言いながらも手を繋いでくれた。
どうして今になってそんなことを思い出したのだろう。このノクトはあのノクトとは違うのに。
汗ばんだ掌を上着の裾で拭い、僕はそのままポケットに突っ込む。
「此処の水槽は小さいな」
僕の反論など意に介した様子もなく、ノクトはもう水槽に興味を向けている。
彼の中にあのノクトの記憶などないのが見て取れる。
「俺の世界の水族館はさ。教室くらいのデカい水槽がこう、ドーン! ドーン! って置かれてて」
あるのは過去の記憶だけ。
教室大の水槽なんてものは想像もつかないので、僕は見るともなしに貧相な水槽に目を向ける。
両手で抱えれば持ち上げられそうなほどの大きさしかない水槽群は、大きさの代わりに数で勝負をかけようと言う苦肉の策だろうか。
が、仮に教室大の水槽があったところで展示物がこの程度では『器ばかり大きい』と苦情が来るだけだろう。ここは小さな水槽で良かったと言うべきかもしれない。
「それにしても、魚らしい魚って全然いないな」
案の定、ノクトが苦情の一歩手前のような感想を呟いた。
自分から誘った手前、『つまらない』と言えないであろうのが垣間見える。
「そう?」
「最初っからイソギンチャクだったろ。こう、泳ぐ魚はいないのか?」
「ノクトが見たい魚ってのがどんなものかわからないけど、絶滅してるんじゃないかな」
「そっか……人間以外はこんなのしか残ってないんだな」
人間も残っていないんだよ。
口から出そうになったその言葉を飲み込む。
『水生生物の多くが死滅したこの世界では大きな水槽など必要としない。
育て、繁殖させるのは建物の外にある”海”で、水槽に入っているのは専ら”見せるため”のものだから。』
その説明でずっと納得していたけれど、考えれば展示されていない生物は”海”にもいないだろう。
本当にかなりの数が死滅してしまったのだと改めて思う。
だからだろうか。
青白い光の中で漂う生き物はどれも生気に乏しく、針で刺されたまま朽ちた昆虫標本や、理科室の棚の最上段に並んでいる瓶詰と同じ属性の臭いがする。
「この世界って虫も動物もいないよな」
「外の世界にはいるんじゃない? あとはファータ・モンド」
生物は多くが死滅した。
今残っているものも数を極端にまで減らした結果だ。
全ての命がレトの管理下に置かれ、これ以上数を減らさないようにしているのが現状だろう。
この町は子供を育てることに特化した町だから、希少な生き物を置いたところで見せる以外の意味を持たない。
置くとすればそれ専用の施設や世話役――要するに”子供を育てること”とは無縁のもの――を増やさねばならなくなるし、”見せ物にされる”のは案外にストレスが溜まるもの。
本物と触れ合うのは教育上で大事なことかもしれないが、子供が興味本位で触れば死なせるリスクも上がる。だからこの町にはそのような生き物はいないのだ。
でも。
来る途中で見た鳥影を思い出す。
それでも世界は少しずつ元の姿を取り戻そうとしている。
多くの先人が少しずつ積み重ねた結果が少しずつ現れてきている。
「……またファータ・モンドか」
しかしノクトは聞き飽きた、とばかりに口元を歪ませた。
「俺がいた世界の諺で”井の中の蛙大海を知らず”って言葉があるんだけど、それだな。この水槽が町。中にいるのがお前ら。外に世界があることも飼われてることも知らないで、波風も何も立たない世界で平穏に暮らして平穏に死んでいくんだ」
「外に世界があることくらい知ってるよ」
「ファータ・モンドだろう? 此処と、あんな目と鼻の先にあるような町だけが世界だとはまさか思ってないだろうな?」
「他にもあるよ。ただ……知らないだけで」
ファータ・モンド以外の町が何処にあるのかも、どうやって行くのかも此処では教えてもらえない。
ファータ・モンドですら辿り着けない可能性があるのに、此処から見ることもできない町に行こうなんて愚かな考えをしないよう、その場所は隠されている。
何時かは知る。
でも、今は知る必要がない。
確かに今の僕たちは蛙かもしれない。
けれどそれはレトが危険から僕たちを守るための措置。僕たちはあえて蛙の地位に甘んじているだけだ。
「きみの世界とこの世界は違う。外の情報を出して煽って、それでどうなるの? 馬鹿な子供が干乾びるだけじゃない」
「だから知る必要がないのか?」
「此処では。でもファータ・モンドに行けば知ることができるんだ。大人は何処へ行こうとも自己責任なんだから」
「レトがそれを許すと思うか?」
「危険な行為なら許さないよ。でも大人になれば、」
「自己責任、か? どうも認識が平行してるな」
ノクトは僕に背を向けると水槽が居並ぶ中を進んでいく。
機嫌が悪いのは期待していた水族館と趣が違い過ぎたからだろうか。
ノクトにしてみれば巨大水槽で悠々と泳ぐ魚――サシミ……マグロと言ったか――が見たかったのだろう。
そう思うと、この世界側の人間として申し訳なくも思う。
けれど、それが今の世界。
フローロが海の再生を目指しているように、この町を巣立った多くが失ったものを取り戻そうとしている。
魚も動物も虫も。僕たちの代では本物を見ることはできないかもしれないけれど、何時かは。
「――これなんかお前らっぽいな」
前を歩くノクトは、とあるひとつの水槽を指さした。
白い網のようなものの中に海老の玩具が入っている。本物の海老は死滅したか、見せられるだけの数がいないのだろう。
「なにこれ?」
「カイロウドウケツだとさ」
偕老同穴。老いても共に暮らす夫婦の姿をこの海老に見立てた先人がそう名付けたらしい。
しかし。
「共に育ち、共に暮らし、共に死ぬ。この世界から出ようと思った時にはもう手遅れで出ることは叶わない、か。皮肉だな」
蔑んだ声に、『逃げて』と書かれたフローロの手紙を思い出す。
『もしファータ・モンド行きが決まってしまっているのなら』というあの文が、『手遅れで出ることは叶わない』に重なって聞こえる。
「……さっきから何が言いたいんだよ」
「俺たちは人間だ」
「だから?」
「機械に飼われて、世界も知らないで、それで人間って言えるのか?」
「レトがいなかったら僕たちは生きていけないって、何度言ったらわかるの?」
ノクトはレトが嫌いだ。
彼の世界の人工知能は”人間に使役されるもの”。”人間に危害を加えず”、”人間に絶対服従”し、暴走すれば人間の手によって終止符が打たれるものでしかない。
だから僕らがレトの指示に従い、レトやアンドロイドを家族と思うことに共感ができないのだろうけれど、それこそ先入観ではないのか?
此処で生きて行くとは、先入観を捨て、この世界を受け入れること。機械と共に生きることだ。
人工知能が暴走したり敵対したり。そんなのは本の中だけ。
色眼鏡で彼らを見ているのはノクトじゃないか。
閉館を伝える声が聞こえる。
此処にまで聞こえなければ意味がないのに、その声はやけに遠くて。水を通した向こう側で言われているようで。
声を合図に青い照明が落ちていく。
この部屋の明かりは全て水槽の照明で賄っているから、全てが消えてしまったら真っ暗になってしまう。
閉館前にそこまではしないだろうけれど、少しずつ闇に閉ざされていく空間は焦りを感じずにはいられない。
ノクトが沈痛な顔をしているように見えるのは照明のせいだろうか。
いや、彼の意図を汲もうとしない僕に心底愛想を尽かせているだけかもしれない。
「ノクト?」
「……すまない。お前とはここまでだ」
「え?」
「お前が寝てる間、俺もいろいろ考えたんだ。で、することができた」
ノクトは背を向けた。
機嫌を損ねたのだろうか。頭ごなしに否定したし、そうでなくとも僕は前から敵みたいなものだし、改めて味方にはなり得ないと思われたのかもしれない。
でも。
「……何それ」
何を考えた?
何をするつもりだ?
ワクチンのことも前世に戻ることもやめて、この世界で2度目の人生を生きて行くだけなのに、どうしてそんな別れの台詞みたいなものを吐かれなきゃいけないんだ?
”ノクト”として生きて行くと前から言っているのに僕が何時までも”能登大地”のつもりで話しかけるから、ボロが出る前に離れると、そう言うことだろうか。
「一緒にいたくないならそれでいいよ。部屋だって別々で構わない。ノクトはノクトとして生きて行けばいい。そんな宣言しなくたっていい。そうだろ?」
チャルマが消え。
ヴィヴィが消え。
クルーツォが消え。
今度はノクトがいなくなる。
でもそれは覚悟していたことだ。ファータ・モンドに行けば離れ離れになって2度と出会うことはないという意味でなら、死別することと何ら変わりない。
別れが数ヵ月早まっただけ。
何年か後には、きっとその数ヵ月の差だって忘れてしまう。
それだけだ。
そんなことわかっていたことなのに。
なのに。
「”ノクト”の身代わりとして生きろ、ってか?」
「そんなこと言ってない」
なのに、何故。
「そうだろうな」
自嘲するように嗤ったノクトは、おもむろに自身のセルエタを外すと、そのストラップを僕の首に掛ける。
「な、に?」
「それは元々お前のノクトのだ。俺のじゃない」
相手にセルエタを渡すのは、ファータ・モンドに行ってから再会するための約束の証。
でもこれは違う。これは――。
「ノクト待っ、」
僕の制止を振り切って水族館を出て行ったノクトは、そのまま、人混みに紛れるようにして消えてしまった。
何故。
何故、僕は。
何故涙が頬を伝うのか、僕には……わからなかった。




