7月・3
巻き上げられた砂が、遠ざかるバスの姿を覆い隠す。
必死に目で追う僕らの前で無常にも門は閉じていく。
うら寂しい余韻を漂わせながら、在校生たちはひとり、またひとりと帰路につく。
僕も同じように踵を返しかけた。
その時。
閉じていく門が何かを引き摺っていることに気がついた。
紐状のものに握り拳大ほどの黒い塊。
此処の学生なら真っ先に思いつく形状のそれは、此処の学生なら失くしたら絶対に駄目なものだということも知っている。
拾おうと駆け寄ると、町外脱走者と見なされたのか警備兵が飛んできた。
数人がかりで押さえ込まれる。
「違うってば!」
叫んでも押さえ込む手の力が弛まることはない。
そうしている間に門は完全に閉ざされた。
「マーレ!」
騒ぎを見たのだろう、ヴィヴィとチャルマが走って来るのが見えた。
先ほどフローロとの会話でもちらりと話題に出た彼らは同じ寮の学生で同学年。
僕のことを”フローロ過激派”と冷やかすヴィヴィのことだから、「彼との別れを悲観してとうとう脱走にまで至ってしまったか」なんて思っているかもしれない。
彼らが来たことと、門が完全に閉じてしまったことで、警備兵たちはやっと僕を解放した。
押さえつけられたせいで背中が痛い。
「何やってるんだよ。レトに通報されたら減点じゃ済まされないだろ!?」
「違うよ」
頭上から降って来る声に僕はよろよろと立ち上がり、門が引き摺っていたものを拾い上げる。
間違いない。これは、
「セルエタ?」
「……ノクトのだ」
セルエタは初期デザインのままでは誰のものか見分けがつかないので、飾り付けて個性を出すことが推奨されている。
装飾を専門にする店も多く、学生もそういったことに不得手な者のほうが多いから大半が職人に依頼する。
そんな中、ノクトは自分で塗ると言ってきかなかった。
とは言え子供の画力など推して知るべし。
フットボールチームのエンブレムを模したというそれは色がはみ出したり混ざったりした見るからに稚拙なもので……何も言わなかったけれど本人も酷いと思ったのだろう。1年も経たないうちに黒一色に塗り潰していた。
引き摺られたせいで擦り傷まみれの上にストラップも切れてしまっているけれど、こんな地味なセルエタは他にない。
これは。
ノクトのだ。
「卒業生が捨てて行った、じゃなくて?」
ヴィヴィは眉を寄せる。
セルエタを必要とするのはこの町でだけ。
交換するわけでもなく、記念に取っておくわけでもないのなら捨てる、という選択肢もある。
でもこれは違う。
稚拙な色ムラが間違いなくノクトのものだと主張している。
けれど、何故これがこんなところに。
さっきから僕の頭の中で最悪な想像が浮かんでは消え、浮かんでは消える。
此処、ラ・エリツィーノは周囲を高い壁で囲まれている。
外に勝手に出ることは許されていない。
上空もひらけているように見えるけれども透明な屋根で覆われ、外界から完全に遮断された形。これは他の町もほぼ同じ仕様だ。
でもこの造りは僕たちを守るため。
町の外で待ち構えているのは夢でも希望でもなく砂嵐と熱射。
容赦なく照りつける陽の光のせいで大地は荒れ、動物はおろか虫もいない。
温室育ちの子供が遊び半分に出歩ける場所ではない。
にもかかわらず此処、ラ・エリツィーノでは、レトの統制を支配と勘違いした学生が数年に1度の割合で脱走を試みる。
砂嵐の荒野に興味はない。
目指すのはその先にある楽園、ファータ・モンドだ。
彼の町だって彼の町なりに規則や罰則があるだろう。
けれど、新たな未来に胸躍らせて旅立っていく卒業生を何度も見送っていれば、此処よりも夢や希望に満ちた地に見えるのは仕方がない。
最もたるものは”セルエタの携行が義務ではない”ことだ。
人体から離れたセルエタは、1時間後に持ち主の失踪をレトに伝える。
伝われば捜索隊が出動し、場合によっては更生と称して何処かへ連れて行かれる。
何故1時間の猶予があるのかと言うと、着替え、入浴から装飾加工まで、外さなければならない機会が結構な頻度であるからで、僕らはそれを若干の皮肉も込めて”レトの温情”と呼んでいる。
1時間はそれらを行うのに十分すぎる時間。
そして町の外に出たところでそう遠くへは行けない時間。
しかしこの束縛が管理社会への反発を生んでいることも確かなこと。
少し考えれば、庇護が必要な子供だから管理されているのだとわかりそうなものなのに。
現に大人になればどんな危険も自己責任となるため、レトに連絡は行かない。
卒業生がセルエタを交換しても大丈夫なのはそのためだ。
そしてその”セルエタのない楽園”は存外に近い。
視認できるほどには近い。
卒業生はバスを使うけれど、実際、飲み水や陽射し対策をきちんとしていれば徒歩で辿り着くのも不可能ではないと――命がけではあるけれど、それでも命が尽きる前には辿り着けると――そう思える距離にある。
なのに脱走に成功したという話は聞かない。
ファータ・モンドの情報が全く入って来ないということもあるけれど、ゴールすれば脱走がチャラになるなんて示しの付かないことをレトはしないはずだから、きっと向こうで罰を受けているのだろう。
もしくは途中で力尽きたか。
外の世界に放置されれば、僕らの体は風と熱砂でカリカリになるまで乾燥し、崩れて砂に還る。
でもそれは全て脱走した本人の自業自得。同情の余地はないけれど――。
「ノクトは?」
「いないんだ。ずっと探してるんだけど」
「だから脱走したかも、って? ……まぁ……ノクトじゃあ、あり得ないことじゃないけど」
ヴィヴィは言葉を濁し、閉じられてしまった門を振り返る。
僕たちの年頃にはよくあるらしい管理社会への反発をノクトも持っている。
ただ、多くの学生は心の中で思うに留めるけれども、ノクトは行動に移しかねない――要するに”数年に1度の割合で脱走を試みる学生のひとり”になりかねない。
もしノクトが外に出たところでそれは先ほども言った通り自業自得だけれど、僕らが気に病むべき問題は別にある。
脱走の罪は、本人だけでなく周囲にも及ぶということだ。
共同責任と言えばいいだろうか。
さすがに学年全員に罪を問うことはないけれど、同室の学生は間違いなく監督責任を問われる。
「で、ノクトは何処に?」
「半径500メートル圏内……なんだけど」
「は?」
ヴィヴィは僕が手にしているセルエタを覗き込み、口元を歪めた。
「何これ。ノクトの場所わかんないじゃん」
ノクトのセルエタに浮かぶ情報は距離だけ。方角も目印になる建造物もない。
持ち主から離されたセルエタは持ち主の居場所を指し示す。
親切な誰かが拾って届けてくれることを想定している、なんてほのぼのとした理由ではなく、共同責任が問われる者(この場合は僕)に探せ、と言っているのだ。
けれど何の因果かノクトのセルエタは彼が何処にいるのかを教えてはくれない。
わかるのは此処からどれだけ離れた場所にいる、と言うことだけ。
引き摺られた拍子に壊れたのかもしれない。
けれど、考察している時間はない。
真っ黒な表面に赤く点滅する30。
これはレトに連絡が行くまでの残り時間が30分しかないことを示している。
「どうしよう」
セルエタが掌の中で滑る。
500メートル圏内、且つ30分以内にノクトを見つけるなんて無理だ。
ダイレクトに居場所を教えてくれないにしても、せめて行き先の予想がつけばワンチャンあっただろうのに。
どうすればいい?
気ばかり焦るのに足が動かない。
点滅する数字が29に変わる。
飲み込んだ息がカラカラに乾いた喉を傷つけながら落ちて行く。
「どうしよう、って、探すしかないじゃない!」
忙しなく周囲を見回したヴィヴィは、
「此処にはいない。手分けして探そう。僕はあっち、チャルマは寮、マーレは右!」
一息にそう指示するとチャルマの腕を掴み、広場を飛び出していく。
呆気にとられるほどの行動力だが、残り時間を考えればぼんやりしている場合ではない。
それに指示されたことで何も考えられなかった真っ暗闇の中に一筋の光が見えたと言うか、足が動く気になってくれたようだ。
ヴィヴィが向かった広場の正面には商店街が、チャルマが向かった先には寮がある。
そして右手の坂道を上れば星詠みの灯台がある。
町で最も高台にあるこの灯台は、砂嵐が吹き荒れる外界からこの町を見つけ出す目印。
そしてこちら側からすれば、町全体を取り囲む塀より高い位置にあるおかげで門が閉じていても塀の向こうを覗き見ることができる唯一の場所になる。
ゲームや買い物で気を紛らわせているか、部屋でふて寝しているか。
それとも視界から消えるまでバスを見送っているか。
外に出ていないとすればノクトが行くのはこの3箇所、と踏んだのだろう。
この予想が吉と出るか、凶と出るか……商店街と寮は任せることにして、僕は右手の上り坂を駆け上がった。