シルバと野良虎
雨が降っていた。
大降りと言うほどではないが、かといって雨除けの外套が不要と言うほど弱くもない。
しかしそれでもシルバ・ロックールが外出したのは、何となく小腹が空き、行きつけの肉屋『十八番』の揚げ物を食べたくなったからに他ならなかった。
そのシルバが、袋を抱えたままコロッケを囓った手を止め、固まっていた。
仲間たちの集まる食堂『朝務亭』への、帰り道の途中の事だった。
「むむむ……」
道の端に積み重ねられた木箱の中を覗き、シルバは唸る。
木箱の中には、薄汚れた子どもの虎が一匹、横たわっていた。
弱々しい鳴き声を聞き咎め、誘われるように確認してみたら、入っていたのだ。
猫ではなく、虎である。
……冒険者には従魔師と呼ばれる、魔物を使役する者も存在しており、この辺境都市アーミゼストの中でも、そうした魔物を従える者もたまに見かけることがある。
「……世話できなくなって、捨てたか?」
だから、シルバが最初にそう考えたのも、無理はなかった。
「に……」
「これは、見捨てるのは無理だなぁ……」
コロッケを頬張りながら、シルバはぼやいた。
その仔虎と目が合う。
碧色の目が、鋭くシルバを睨んでいた。
しゃー、と鋭い二本の牙をむき出しにされる。
「超警戒されてるし。いや、まあいいんだけど……」
正直な所、全然怖くない。
近付くと、仔虎はビクッと身を竦ませ、箱の端に逃れた。
「んー」
構わずシルバは指を伸ばした。
逃げようのない仔虎はしばらく身をよじっていたが、頭やアゴの下を撫でると眼を細め始めた。
そして、指を噛んだ。
「痛……いや、痛くないか」
かぷかぷと遠慮はないが、せいぜい甘噛みといった所だ。
やがて飽きた仔虎は、不意に指から興味を失い、顔を上げた。
視線を追うと、シルバが懐に抱えた肉屋の袋があった。
「……欲しいの?」
「……にぅ」
仔虎が腹を減らしているのは、明らかだ。
「いや、さすがにコロッケはまずいだろ、多分」
この虎が、ただの野良虎(?)なのか魔物の一種なのかは分からないが、確か揚げ物のようなモノは駄目なはずだ。
シルバは仔虎を抱え上げると、雨に濡れないようにコートの内側に入れた。
「とりあえず、肉屋に戻るか。あ、いや、この場合はミルクの方がいいんじゃないの、お前?」
「にー」
当たり前の話だが、仔虎の鳴き声の意味などシルバに分かるはずがない。
なお、袋に残っていた最後のコロッケはシルバが自分で食べ、その間、仔虎がずっと暴れていたのだった。
一時間後、食堂『朝務亭』。
まだ夕餉には早い店内は、比較的空いていた。
「それで、懐かれたと」
事情を聞いたカナリー・ホルスティンは、ワイングラスを揺らしながら読んでいた本から顔を上げた。
「そう見えるか?」
「いや、指を食われているように見えるな」
「だよな」
懐に抱えた仔虎は、シルバの指を囓ったまま離そうとする様子がまるでなかった。
特にダメージもないので、シルバもするに任せている。
冒険者の出入りする食堂や酒場は、魔術師の使い魔や従魔師の契約モンスターもよく出入りする為、この程度の小動物はちゃんと店員に言っておけば問題はない。
もちろん粗相をすれば、その始末は飼い主に降りかかることにはなるが。
「それもあるけど、どうするんだい? 飼うの?」
カナリーの質問は、シルバにとって目下一番の悩み所だった。
「そこなんだよなぁ。とりあえず冒険者ギルドに行って、虎使いの従魔師とかいないか聞いてみたんだけど、今のところいないらしい。ウチのアパートも一応ペットオッケーだけど、留守の間の世話がなぁ……って、どうした、キキョウ?」
それまで黙っていたキキョウの様子に、シルバもようやく気がついた。
よく見ると、頬が紅潮し、尻尾がパタパタと左右に揺れていた。
「……かわゆい」
「え、これ?」
シルバはまだ自分の指を囓り続ける懐の仔虎を見た。
「そ、そ、某も、触ってもよいか?」
「いや、俺は構わないけど、コイツの機嫌次第じゃないか?」
「そ、そうであるな。ぬぬ……」
「シャー……!」
キキョウが近付こうとすると、仔虎は警戒を強めたのかシルバの指に囓りついたまま、その毛を逆立てる。
「カナリーはどうする?」
「そ、そういうのは、ストレスが溜まるだろう。僕はいいよ」
再び読書に戻ったカナリーは、本から目を離さないまま手を振った。
「……カナリーさんや。あなたのトコの召使いは寄ってきてるんだが」
赤と青の美女はいつの間にか、気配もなくシルバの懐を覗き込んでいた。
その様子に、カナリーは慌てて立ち上がった。
そのせいでワイングラスが倒れ、本を濡らしてしまう。
「あ、こ、こら、ヴァーミィ、セルシア!? 余計なちょっかいを掛けるんじゃない! あ、本が!? ワインが!?」
「カ、カナリー、あまり大声を出してはこの子が驚く! ……いやしかしシルバ殿。実際、カナリーの言う通り、どうするつもりであろうか。飼うつもりなら某も協力するにやぶさかでないぞ」
「んんー……正直な所、里親探すのが現実的だよなぁ。今はまだ暇だから良いけど、遠くに冒険に出るようになったら、何日も留守になるだろうし」
「さすがに連れて行けぬよな。あとカナリー。触りたければ素直にそう言うがいい。誰も笑わぬから」
「そ、そそ、そんな事はない! 僕は気にしなくていいから、君達で愛でていればいいじゃないか!」
カナリーは、ワインのこぼれたテーブルを拭くので手一杯のようだ。
「かわゆいなぁ……」
立ったまま仔虎を抱いたシルバを、キキョウ、ヴァーミィ、セルシアが取り囲む。
大人気である。
ヒイロとタイランが修練場で稽古中だったのが、せめてもの救いだったかも知れないと、シルバは思った。
そういえば雨が降っていたが、ちゃんと避難したんだろうなと、心配にもなってくる。
「……懐いてくれると、もっとかわゆいのだが」
へにゃり、とキキョウの耳も悲しそうに垂れ下がる。
確かに、仔虎はかろうじて大人しいモノの、キキョウや従者達に懐く様子はない。
尻尾は逆立ち、シルバに身を寄せている。
「結構ハードな人生……いや、虎生歩んでたのかもな。あと、いい加減お前、俺の指から口離せ」
「ソーセージか何かと勘違いしてるんじゃないかい?」
ようやくテーブルを拭き終えたカナリーが、改めて椅子に座り直す。
「……まあ、全然痛くないからいいけどな」
「あと、身体も洗った方が良いと思うよ。毛が荒れているように見える」
「うん。……やっぱ気になってんじゃん、カナリー」
「そ、そそ、そんな事はない! 見たままを指摘しているだけだ!」
「ほれ」
指を仔虎の口から抜き、両手で抱えたシルバはそれをカナリーに突き出した。
「に」
「……っ!?」
小さな鳴き声に、カナリーは椅子から転げ落ちた。
その反応に、シルバは察する。
「アレ、もしかしてお前……」
「ち、ちち、近づけるな」
「ひょっとして、遠慮してたんじゃなくて……虎だけどこんな小さいんだぞ? それでも怖い?」
「そ、そそ、そんな事はないぞ!? 昔、初めて蝙蝠変化に成功した時、猫に食べられかけたとか、そんな過去は一切無い! ぜぜ、全然平気だとも!」
「猫じゃなくて虎だぞ?」
「そのサイズでは大差ないだろ!」
そうだろうか。
頭も猫より大きいし、手足も結構太い。
確かに同じ猫科だが、見た目はかなり違うと思うんだが。
シルバは、赤と青の従者を見た。
「……お前らの主人って、苦労してるんだな」
二人は微笑のまま表情を変えないが、それが今は、どこか苦笑のようにシルバには見えた。
「んじゃまー……どうすっかなぁ。やっぱりコイツの身体は洗ってやりたいし、ここは一つ風呂にでも行くかな」
「む」
ピクン、とそれまで垂れていたキキョウの耳が立ち上がった。
「え、キキョウ付いてくんの? 珍しいな」
かなり意外だった。
これまで、こと風呂に関しては何故か一度も同行した事がないのだ。
大抵、用事があったり、既にもう入ったなど、間が悪い事が多い。
「う……い、いや、いい。某はもう少しここで飲んでからにする。某に構わず、行ってくれ」
「ぼ、僕も遠慮しておくよ。もう少し飲んでいたいんだ」
キキョウとカナリーは、同時に首を振った。
しょうがないか、と思いながらシルバは腕の中の仔虎に声を掛けた。
「そっか。じゃあ、行くかリフ」
「に?」
「ん、シルバ殿、その子の名前か?」
「まー、一応、名前がないと不便だしなー……あー、いかん。本当に飼うこと前提になってきてるかも」
大家さん猫好きだったよなぁ、確か……虎だけど。
ちょっと相談してみよう。
そう考えるシルバに、カナリーが声を掛ける。
「その名前は何か由来があるのか」
「いや、昔実家で飼ってた子の名前。別にいいよなー」
「に」
言葉が分かるのか、いいタイミングで仔虎――リフは返事をする。
二人は、風呂に向かう事にした。
都市の北部に温泉の水脈があり、温泉街となっているのだ。
シルバを見送り、キキョウはふと、店の掲示板に目をやった。
依頼や街の事件などが、何枚も貼り付けられている。
またパーティーのメンバー募集も貼られているが、盗賊関連でめぼしいモノはなかった。
キキョウが気になったのは、依頼の内の一枚である。
「時にカナリー」
「何だい、キキョウ」
ワインに濡れ、へばりついたページを嫌そうにめくりながら、カナリーは答える。
「一つ、面白い調査事件があるのだ。何だか大型の猫型生物が夜な夜な、街中を徘徊しているのだとか。その正体探り、某とやってみぬか?」
「あからさまに嫌がらせだな、それは!?」
「はっはっは」
歳が近いこともあり、これで割と仲のいい二人だった。