避暑地の洋館と少女の物語 The European-style building of a summer resort, and a girl's tale メルヘン小説
あれはもう40年以上も昔になるだろうか。
そのころ私はこの県の北部にある、有名な避暑地の近くの開拓農家の少年として時代をすごしていた。
村はずれの、白樺林の連なる、一帯は古くからの、別荘地で、そこには、しゃれた別荘がいくつも立ち並んでいた。
私はそのころ、胸に小さな影が見つかり、自宅で療養中だった。
私は、自然に囲まれた、高原の中で、体調がよいときは、外に出ては、散歩したり、自宅の軽い農・牧畜作業も手伝っていた。
しかし、いつも心は晴れずいつも鬱屈としたものだった。
青春時代真っ最中というのにこの体たらく。受験勉強も遅々としてはかどらず悶々としていたのだった。
これから先どうなるのだろう、病気は軽度で進行も止まっていたし、第一、入院するほどでなかったことからも、軽いものだったことは今となっては理解できる。
しかし、当時は青少年期特有の憂鬱症で、深刻に悩んでいたのではあった。
さてそんなある初夏の日、私は、別荘地の辺りを散歩の途中、いつもは、空家の一軒の洋館に、人の気配があるのに気がついた。
その洋館は何でも大正時代の末に、さる伯爵家の別荘として建られたものだそうで、しゃれた、ステンドグラスがはまったチャペル風の瀟洒なつくりのものだった。
しかしいまだかってその洋館に灯がともるのを見たこともなかったし、避暑に訪れる人もいなかった。
私は気になり立ち止まり、ふと玄関を覗くと、そこに、一人の上品な婦人が立っていてこちらを見ていたのだった。なんと言ったらいいのかフランス風の洋服に身を包み、いかにも伯爵夫人という感じだったことを今でも思いだすのである。
あわてて目を伏せると、その婦人は、にっこり微笑み、手招きをした。
「あなたこのあたりの地元の方ね?」
私は思わず近づくと、婦人は、避暑に来たがよく分からないので教えてほしいというのだ。
私は中に招じ入れられ、地元のことやらを、聞かれるままにいろいろ教えて差し上げたのだった。
そして婦人は「色々教えてくれてありがとう。ちょっと待ってね。コーヒーを入れて差し上げるから」というのだ。
コーヒー、そう、そんなものがあることいくら田舎の野生少年の私も知ってはいた。
しかし飲んだことなんてまったくありえなかった。
私は、婦人が、湯沸しから注ぐ、馥郁たる香りに、陶然となった。
そのときちらとおくの廊下に一人の少女がたたずんでいるのを見たような気がした。
それともそれはわたしの単なる幻覚だったのか?
「これは、モカというコーヒーよ」婦人の言葉に私ははっと我に帰った。
しゃれたマイセンのカップを差し出す。一口啜ると私は香りの艶美な世界へと引き込まれるのだった。
「モカには、なぜかマイセンがにあうのよ。」
婦人はそんなことも言うのだった。
田舎の少年にそんなこと言っても分かるはずもないのにである。
コーヒーそれも本場のそれを本格的に入れてくれたのを飲んだのはまさに天にも昇る心地だった。
次の日私は再びその洋館の前を例ごとく散歩でとおりかっかった。
こっそり除いてみると、なんと、昨日の夢に見たあの少女がいるではないか。
私は思わずアット声を上げてしまった。
するとその物音に気づいた婦人が
ちらとこちらを見やって、「あら昨日の方ね」といって
玄関に回りドアを開けてくれたのだった。
「紹介するわ、私の娘で、雪奈というのよ、
仲良くしてね。」
私はまじまじとその娘の顔 を見ていた。
長い髪をたらした、フランス人形のような玲瓏とした顔色、
笑うでもなくといって悲しむのでもなく、
あくまでも透徹とした少女がそこにはいた。
紹介されるとその少女はにこっと微笑んで私をまぶしそうに見ていたっけ。
今はもう、遠い日の幻像である。
「雪奈は体が弱くてね。こうしてこの別荘にこられるのも初めてなのよ。
せいぜい仲良くしてやって頂戴ね。」
私は、どうしたらよいのか分からなかった。
フランス風の衣服に身を包んだ、おにんぎょうさんのようなこの少女。
お金持ちの伯爵様のお嬢様。
いくら私が子供でも、私なんかが来てはいけないことぐらい分かっていた。
彼女は私にピアノを聞かせてくれるというのだ。
別室の小楽堂に行くとそこには典雅なピアノがあり、
彼女は早速引いてくれた。
いったいそれはなんと言う曲なのか、私に分かるはずも無かった。
それからというもの、私は散歩と婦人の好意にかこつけては日課のようにその別荘を訪れては、
雪奈さんと、散歩に行ったり、ピアノを聞かせてもらったりするのだった。
雪奈さんは、確か15歳だといっていたっけ。
何でも生まれながらに体が弱くて、
東京の自宅から出たことも無く、
学校も行ったことはないという。
籍だけは学習院に置いてあるのだというが。
そしてこの夏になってよっぽど調子が良くて初めてこの別荘に来たのだということだった。
「丁度一人でさびしかったのよ、転地療養かねてきたんだけど、貴方のような人が居てくれて助かったわ。」
なんて本人は言っていたっけ。
私にとってははじめての少女の面影が焼きついて心を満たしていた。
恋なんていうそんなハッキリした形をとったものでもなかった。
初恋?そう、それは余りにもおぼろげな初恋だったのだ。
しかし、あるひのことだった、私がいつものようにその洋館に行くと、
そこはなんともぬけのから、ひっそりと静まり返っていたのだった。
何でも人づてにきくと、
お嬢さんが急に具合が悪くなりあわただしく帰京していったのだという。
もちろん、わたし風情に、何の連絡もあるはずも無かった。
瞬く間に、夏は過ぎ去り、秋の風が吹いて、高原に、「はあて」(かざはな)が舞い
そして、暗いい冬が来て、やがて春となり、また夏が来た。
私はすっかり病気も癒えて、婦人が来るのを待ち続けたのだった。
しかし、夏がすぎ秋が近くなって、すっかり、木々が枯葉になっても、もう二度とあの婦人と少女はこの洋館には姿を見せなかったのだった。
それからも、洋館は、ずっと、今に至るまで、あるじの訪れることもなく、ひっそりと無人のままに私の遥かな淡い初恋の思い出と共に立ち尽くしているのだった。