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短編集(梅衣ノルン)

願う男

作者: 梅衣ノルン

 私は今、学校のトイレの個室に避難している。


 田舎の公立高校。以前行った弟の私立高校とは、設備の出来が雲泥の差だった。

 ……異臭がする。


 築五十年ほどになろうかという学校であるから当然ではあったが、認めがたい事実でもあった。


 がやがやと若い声が聞こえた。


 何者かが数人グループで男子トイレへ入ってくる。


 私は鍵のかかった個室の中にいるから、彼らを覗き見ることはできない。


 逆に、彼らは個室の真上から俺を覗き込むことができるわけだ。恐ろしい。


 そのことはとどのつまり、今この場で主導権を握っているのは彼らの方である、ということである。


 彼らは支配者。私は逃げ惑う哀れな市民。


 どうか私に気づかず用を済ませてくれと願うばかりだ。


 ……音が聞こえてくる。


 というより、音以外にこの状況を把握できるような情報は無かった。


 靴音。笑い声。世間話。スマホの話題やら、流行りの動画やらの話だろうか。勉強やら近況やら、将来やらの話が全く出てこないのが、入学したての高校一年生らしかった。


 用を足す音が聞こえてくる。他人の放尿の音色を、私はすぐ隣の個室で耳を澄ませて聞いている。これが私の日常なのだと考えると、猛烈な吐き気に襲われた。


 ああ、私は一生こんな日常を送りながら生きて、死ぬのだろうか。


 こんな狭く息苦しい場所で。


 ……ナンセンス。


 だが、現実だった。


 しばらく怯えた赤子のようにうずくまっていると、やがてガタンと扉の閉まる音が聞こえた。


 数分前まで存在していた静寂が、復活した。


 ……私には気づかずに去っていってくれたらしい。


 より正確に言えば、彼らは私の日常を構成する人間ではなかったのだろう。ただの一人も。


 無論、私も彼らの日常を構成する要素ではなかったはずだ。


 怯える必要はなかったらしい。


 私ももう出てもよいだろうか。


 いつも孤独でいる私だから、誰かに問いかけてみたくなる。


 すぐに無意味だと悟り、自嘲しながら個室の扉を開けようとした。


 その時だった。


 男子トイレの扉が乱暴に開けられた。


 ああ、ご登場だ。私の人生という舞台を構成する、数少ない役者たちの。


 彼らの身なりは整っていた。


 学校指定の制服を身にまとっている。


 ネクタイをきつく締め、左右対称にブレザーを羽織る。無駄なアクセントのない外見。それが二、三人。


 外見だけなら、青春を謳歌する高校生の良き理想像。


 そんな彼らなのに、焦燥にまみれたビジネスマンのような足取りで接近し、私の胸倉をつかんで言うのだった。


 ……五万?


 それが意味するものは一つしかない。


 私は慣れた手つきで、だがおもむろに自分のポケットをまさぐった。


 私の顔が、青く染まった。


 襟元をきつく縛り上げてきた。


 苦しいことには苦しいが、私に残されているありとあらゆる可能性に身をゆだねるよりも、成り行きにまかせる方がはるかに良いことは明白だった。


 そこから先の出来事は、あえて綴るまでもない。


 あえて言うなら、チェーンソーでゆっくりと身を削り取られ続ける樹木を思った。


 いくらか時間がたった時、彼らは立ち去っていた。


 教室に戻り、授業を受け、友情を育み、自己を鍛える。


 高校生としての、元の日常に戻ったのだ。


 ……この私を見捨てて。


 ゆっくりと立ち上がり、体に着いた泥やほこりを払う。


 手に水滴がいくつも付着した。


 重い足取りで、トイレの壁に設置されている、塵にまみれた鏡へ向かった。


 凝視する。


 ……不格好な制服に身を包んだ、ある一人の中年男性を。




 授業はとうに始まっていた。私はすることがなかった。


 似つかわしくないことは分かっていた。


 だがしかし、そこに一縷の望みもかけていた。


 まだ学校生活は始まったばかりだった。


 私は高校一年生として、四月にこの高校へ入学した。


 今は五月。もうすぐ課外学習があるらしい。


 要は遠足だ。


 入学した二、三日間くらいまではいろいろと充実したスクールライフを夢想していたのだが、今やこんな日常に呑み込まれてしまった。


 課外学習も、このままではまたトイレの奥底に身をひそめるだけで終わってしまう。


 もう、退学してやろうか、と何度も思考した。


 担任と相談もした。


 親とも。


 どちらも、もう少しとどまってみてはというばかりであった。


 担任は私より年下だが人生経験は私より豊富なことは明らかだろうし、親は愛情を注いでくれた人であり金も出してくれている。


 だから私も、無理に退学したいとは言い出せなかった。


 それに、私自身も、己を変えるためにここへ来たはずだ。


 あえて全日制を選んだのは私だ。


 長らく中卒無職だったこの経歴を塗り替えようと思ったのも、私だ。


 だが、上手くいかなかった。


 多くの人は上手くやっていけているのに、自分だけが失敗していた。


 自分の身をわきまえずハードルを高くして自滅した。


 クラスメイトに暴行を受けるよりも、所持金を奪われることよりも、そうした自分自身の浅はかさを思っては現実を嘆くのであった。




 次の日になった。


 私は相変わらず個室にこもっていたが、今日は本を持参していた。


 いつも無気力だった私は読書の習慣が身についていなかったので、盲点だった。


 本を読んでいれば、音におびえる必要はない。


 なぜもっと早くに気づかなかったのだろう。


 家にあった本を、適当に見繕ってきた。


 古びた本だ。弟がよく読んでいたような気がする。


 タイトルすら目を通さず、一ページ目をめくる。


 まえがきと目次を無視して、本文から読み進めることにした。


 経済学について、まずその歴史から書かれている。


 四十代とはいえ、私にはまともな学はない。噛みつくように読まないと、とても耐えられないほど内容が濃かった。


 私はなけなしの気力を奮い立たせる。


 頭痛がするほどしんどいが、その事実がある意味私を高揚させる。


 しかし、今日はあの少年たちは来ないのだろうか。


 時計が無いから正確な時間はつかめない。


 彼らの蛮行だけ見ても想像がつかないが、普段の彼らは善良な男子高校生そのものだ。


 タバコも吸わなければ授業も休まない。


 しかし、このトイレの中では、文字通り人が変わる。


 なぜだろう?


 とにかく私は、本を読み進めていく。


 彼らがいつやってくるかについて全く確信が持てず、ひどく焦燥にかられる。


 一つの節が終わった。次の節の終了まで、あと何ページあるか数える。


 十二ページあった。


 彼らがやってくるまでに、読み終えられるだろうか。


 もう読んでいたくなかった。


 こんな不安定な心情のまま読んでも、内容なんて全く頭に入ってきやしなかった。


 でも、なんでもいいから、読んで学をつけなければならない。


 それが私の使命だ。おそらくは。


 幸い、次のページに、興味深い記述を見つけた。


 今の若者はありとあらゆることをビジネスとしてとらえるという記述だ。


 今の、といっても二十年くらい昔の記述ではあるが、その筆者の意見は現代でも通じると思われた。


 あの少年らの行動が、それを裏付けている。


 昨日は、私はあろうことか金を自宅に置き忘れていた。


 今日はきちんと五万ある。


 彼らは毎日やってきて、毎日私からきっちり五万を搾り取る。なければ代わりに私は殴られる。


 彼らは、ある意味とても几帳面なのだ。


 時間こそ不規則だが、彼らは必ず毎日一回ずつしか現れないのだ。


 そして、いくら私が七万持っていても、必ず五万だけ奪い去っていくのだ。


 それはある意味、平等性のみが失われた立派なビジネス的行為に他ならなかった。


 ……声が近づいてくる。


 その音を聞いて、私は初めて安堵した。


 一度払うべきものを払えば、とりあえず今日という一日は平和が約束されるからだ。


 昨日とは百八十度違う気の持ちように、自分でも驚く。


 本の効果とは人の心を反転させるほど強いことが証明された。


 私は胸さえ張って、個室から出る。


 案の定彼らだった。


 私はあらかじめ用意していた五万を彼らの前に突き出す。


 これで文句はないはずだ。


 本を左手に持ち、彼らを右手に去ろうとした。


 その時だった。


 嵐のような衝撃が頭を打った。


 彼らの靴が私の背中を蹴り飛ばす。


 私は涙と鼻水をまき散らしながら、舞う。


 それから数十秒ほどの蹂躙。


 意識さえ飛びかけた。


 彼らはなにやら言った。


 私はそれを聞いた。


 それを聞いて、ああなんて世の中は完成度が低いものだと思った。


 完璧な等価交換に支配されていると思い込んでいた彼らの心情は、それほど画一的なものではなかったのだ。


 この世の中は、結局は感情論なのだ。


 そんなことは、あの時私は嫌と言うほど思い知らされてきたはずなのに。


 あの時、裁判官はこう言った。


 無期懲役。


 私が中学を卒業したその当時、凶悪な少年犯罪があったのだ。


 十人以上の友人を刺し殺したとされるその少年の正体が、裁判官の発言によって、その日私だと決定づけられてしまった。


 のちに冤罪だと分かり、真犯人は逮捕された。


 じつに二十五年の年月だった。


 二十五年かける三百六十日。およそ九千日間、毎日一回ずつ死にたいと思った。


 願い事はそれしかなかった。


 私が家に帰ってきた時、泣きながら喜んだあの弟と母の顔を見て、ああ、あんな呪いのような願いでも、天には届くのだと、ひとりで納得したものだ。


 二十五年間渇望していた、高校生活。


 やり直したいと思った。


 それが、このざまだ。


 二十五年前の裁判官も、今この目の前にいる少年らも。私は一生、彼らの感情論に振り回されて、そしてひとりで暗く狭い場所で、ひっそりと死ぬのだ。


 少年の一人が、私の本を奪い去った。


 ……むかつくから、破り去ってしまおう。


 ……いいぜ。


 ……これでどうだ!


 やめろ!


 私は叫んだ。


 しかし、寝そべって姿勢が悪かったからだろうか。うまく声が出せなかった。


 私がさっきまで読んでいたその英知の結晶は、儚く散っていった。


 そこからのことは、よく覚えていない。


 ある種の気持ちよさが、脳内から信号として全身を張り巡らせた。


 潰れていく彼らの顔を見て、私はせめて救われたく思った。


 その後、色々なことがあった。


 見覚えのある場所へやってきた。


 二十五年間もいたのだから、当然だ。


 私の人生とは、なんだったのだろう。


 刑務所に身を潜めて、暗い便所の個室に身を潜めて、自分の心さえ潜めて生きてきた私の終着点が、きっとここなのだろう。


 ある意味では当然の帰着なのだ。


 あたたかな家庭で生まれ、まぶしいほど明るい夢を見て、かけがえのない友人や配偶者をつくるような人間の終着点は、きっと微笑を浮かべた死に顔なのだ。


 それと同じだ。


 だからせめて、そのような人間には、次のことを求めることにしたい。


 君たちは、感情論の渦巻くこの社会の、圧倒的勝者であることを自覚してほしい。


 そして、その裏側には、どうしようもなく惨めな敗者がいることを知ってほしい。


 そして何より、そんな日常を当然のものとして受け入れて、私のような敗者とは金輪際関わらないでほしい。


 明るく生きていたいのだったら、最後まで明るく生きて、そして死んでほしい。


 例外なく、明るく生きて死んでほしい。


 例外的に、惨めな人生を送らないでほしい。


 そちら側に例外があると、こちら側にも例外が発生してしまうのだ。


 そうしたら、きっと私は耐えられないだろう。


 暗く暗く生きてきた私の目の前に、もし明るい未来という例外の糸がぶら下げられたとしたら。


 そして、それを掴めず死んでしまったとしたら。


 それ以上に、惨めなことは、きっとないからだ。


 狭苦しく、ちっぽけなこの密室から、私は強く強くお願い申し上げたい。

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