妹たちは予感し、お姉ちゃんは走り出す
0.
◆◇◆
栄枯盛衰。
かつては多くの賑わいを見せたその街に、今や住まう者は一人もいない。
焼け、崩れ落ちた家々や石畳。
鬱々とした空気は、動物はおろか虫さえも寄り付こうとしない。
そんなゴーストタウンの様相にあってただ一つ、辛うじて姿を保つ建造物が在った。
ポツンと街の中心部に佇むのは、当時この街を支配していた領主の居城。かつては立派な構えを見せていたそれも、今ではその三分の一を抉られ廃城というに相応しい有り様だ。
そんな陰惨な場所に、幼い声が響く。
どこまでも明るく無邪気な声色。
鈴が転がるようなそれは、場所が場所ならば聞く者に微笑みを与えるだろう。
だが、この場所にあってそれはあまりにもちぐはぐだ。
けれど、それを誰が気にするというのか。
「聞いて! ケレス」
「まぁ、どうしたのエリス。レディが大声なんてはしたないわ」
ぬいぐるみ。お人形。
クッキーに紅茶。
毛の長い絨毯。オークウッドの椅子と、氷水晶から削り出したテーブル。
広い部屋にはそんな子供らしさと贅の凝らされた上質さが内在していた。
何をするでもなく、椅子に腰掛け漫然と紅茶を楽しんでいた、ピンクブロンドをセミショートに整えた少女。
そこへトタトタと軽い足音を響かせ、ノックの一つもすることのない荒々しさで扉が開けられる。
扉を開けたのもピンクブロンドの少女であり、二人の容姿は良く似ていた。こちらは左右で異なる長さのツーサイドアップに左目が琥珀色で、右目が朱色をしていた。
紅茶をテーブルに静かに置いた少女が閉じていた瞳を開く。こちらは左目が朱色で右目が琥珀色だ。
「もう、そんなことどうだっていいの! それよりもね、あたし、とっても良い夢を見たの! ねぇ、聞きたい? 聞きたいかしらケレス?」
「そういう貴女は言いたくて仕方ないのでしょう? ええ、いいわ。聞かせてちょうだい、エリス」
諌めるケレスに頬を膨らませたエリスは、けれど次の瞬間にはニヤニヤとした笑顔で可愛らしく首を傾げて見せた。
そんな半身の姿に小さく微笑を落としたケレスは優しく続きを促す。
「お姉さまの夢を見たの!」
「まぁエリスったら。わたし達がお姉さまの夢を見ない日があるの?」
「無いけど、違うの! えっとね、お姉さまが、あたしたちに逢いに来てくれるのよ!」
「! それは、ただの夢ではないのね?」
「当然じゃない! お姉さまはきっと、もうすぐあたしたちに逢いに来るわ!」
「……そう。ようやく、お逢いできるのね…………」
輝かんばかりの笑みを一杯にはしゃぐエリス。
ケレスは無邪気に喜びを表すエリスの様子に、それが真実なのだと理解し、染み込ませるように小さく呟く。
「泣いてるの? 泣いてるのねケレス。でも大丈夫。ここにはあたしが居て、そして、ようやくお姉さまも! もう、寂しいことなんてないのよ!」
「ええ……。ええ、そうねケレス」
ころころと表情を変えて、くるくるとその場で踊り出すエリスへ、涙を溢しながら噛み締めるように返すケレス。
「嗚呼、お姉さま。お姉さま、おねえさま――! 待っていました、この時を、ずっと。ずっと! やっと無為な時間が終わる。色の無い世界に彩りが生まれる」
「そうよ、そうよねケレス! こんな世界、もう壊しちゃおうと思ったけれど、その必要も無いわね! そんなことをしている場合じゃあないもの! いっぱい、いーっぱい可愛がってもらいましょう!」
「ええ、ええ。エリス、いっぱいお話をして、いっぱい愛でてもらいましょう。そして――」
「うんっ! そして――」
『うーんと愛をお返しするのよ!』
◆◇◆
――前後の記憶が定かではないが。
彼女がこれは現実ではないと察するのは容易だった。
ぱちりと開いた薄氷色の瞳を燦々と輝く太陽の光が刺激する。眩しさに思わず目を瞑ってしまうが、それでも手を翳して影を作りながら、再び瞼を押し上げた。
先程よりマシになった視界には吸い込まれるように青い空が広がっている。視界の端ではぽつぽつりと浮かぶ白い雲がゆっくりと流れていく。
ざあぁ、と風が吹き、長い暗灰色の髪が頬を撫で、左腰から伸びる歪な片翼の羽毛が左腕を擽る。
青臭い匂いに混ざって、何処からか微かに嗅ぎなれぬ甘い匂いが鼻孔を擽った。
「……ぁ、」
掠れるように小さな声が喉を震わせる。
視界の端を流れていた雲が何処かへと消える頃になって、少女は漸く上体を起こした。
そのまま正面を見て、右を見て、左を見る。
草原、だろうか。そう自問して、何故、と問いを重ねる。
霞がかった思考が徐々に晴れていく。
霧が晴れ、鮮明になった思考は先の問いへの解答ではなく、有り得ないという回答を訴える。
見慣れた光景だ。少女はこの光景を、景色を知っている。よくよく見れば細部に差異を覚えるが、今この状況に対しては些事でしかない。
少女はこの景色を知っている。見慣れているどころではない。彼女にとって此処は現実以上の場所だ。一日の大半を過ごしている場所なのだから。
『閃律のスペクトラム』
そう銘打たれたVRMMORPGの中央塔バベルから伸びる草原フィールド。自分が今そこに居るのだとはっきりと確信する。
この光景は勿論、視界にちらつく暗灰色の長い髪が、動かそうと思えば自由に、思い通りに動く身体が如実にそう告げている。
――あの白い部屋に在る天羽翼の不自由な身体ではなく、VRMMORPG『閃律のスペクトラム』のセラフィム・ソルフェージュの強くて自由な身体であると。
だからこそ、有り得ない。
『スペクトラム』は原則として最後にダイブアウトした場所が何処であろうとも、次回ダイブイン時は必ず最後に訪れた街のゲートと決まっている。「冥界」や特定のダンジョンならばその限りではないが、少なくともフィールドへの直接インなど出来ない筈だ。
いやそれよりもなによりも、
「私は、何時インしたの……?」
左手を顔に当て、思い出そうとするもののはっきりと思い出せない。
何時ものようにダイブして、時間一杯まで堪能して、アウトして――。そういう記憶はきちんとある。けれど、今思い出している記憶が何時のものなのかがわからない。
ぐるぐると回る思考は、やがて視界を侵食する。
ぐるぐる。ぐるぐるぐるぐる。
酷い頭痛と眩暈に吐き気さえしてくる。
「ーーやめ。いいわ、別に。思い出せないならそれで。かまわないもの」
大きく深呼吸をして、一切の思考を切り上げ放り捨てる。
なんであれ、ここが『スペクトラム』であるならばやることは変わらない。
何時も通り、何時ものように。この世界を楽しむだけだ。
立ち上がり、メニューを呼び出――せない。
二度三度とメニューをコールして、
「ああ、そういう」
ごく自然に、けれど不自然な説得力と共に納得を得た。
ここは、違うのだな、と。
メニューが使えない。
フィールドに他のプレイヤーが見当たらない。
システム上ありえないダイブ地点。
そんな差異を頭の冷静な部分が根拠として。一方で直感的に、あるいは願望を込めて。
彼女にとっての現実は残酷だ。
残り少ない命。決して出ることを許されない白い部屋。
親も、兄弟も、友達もいない。
彼女の世界に登場するキャストは片手で足りる。
叔父だという男性医師と、毎日決まった回数訪れる二人の看護士。
ああ、なんてことだ。片手でなお余ってしまった。
ともあれ、翼――セラフィムの世界はかつてこれだけの、本人を含めたこれだけのキャストで回っていた――。
だから、だろう。
異世界トリップ。
脱出不可能なデスゲーム。
なんでも良い。
――此処がそうだというなら、私はそれを歓迎する。
だって、もうあそこにもどらなくてよいのだから。
あらゆる疑問を放り捨てたセラフィムは、何が出来て何が出来ないのかの理解に努めた。
メニュー画面は呼び出せない。自分で設定したコールアクションも、デフォルトのコールアクションも無反応。
セラフィムにとってこれはとても痛い事実だった。
メニューを呼び出せないとアイテムボックスを開けない。ステータスが見れない。マップが開けない。フレンドリストが開けない。ギルドホームへの転移も出来ない。およそメニュー画面に依存する全てのアクションが封印されたのだから。
セラフィムには二人のファミリア――自己学習型AI搭載のNPC――が居る。彼女らを呼び出すのもメニュー画面の召喚機能を使わなければならないのだ。セラフィムには何よりもこれが一番堪えた。
寂しい翼にとって二人は妹のようなものだった。いや、事実妹だったのだ。そのように設定し、セラフィムもそう接してきたし、二人もまたセラフィムを姉として慕っていたのだから。
その二人を呼び出せない。会えない。何より、ここがゲーム世界なのか、ゲームを土台とした異世界なのか、何れにしても安否がわからない。それが彼女をひどく不安にさせた。
故に、セラフィムの最初の目標は決まる。
まずは二人を探す。全てはその後で決めれば良い。
改めて自分の装備を確認する。リボンと、ドレスと、グリーブと一体のブーツ。そして腕輪。最上位プレイヤーだったセラフィムの本気の装備には程遠い魅せ装備だが、高位の装備であることに違いはない。
「――解放〈リリース〉」
短く発せれたセラフィムのコマンドワードに従い、腕輪の機能が解放される。
コールリング。通称腕輪。ステータスの補整等といった基本的な機能はない上に、武器分類の籠手以外の腕部装飾品を装備できないというデメリットの代わりに、十二個の武器をストックし必要に応じてノータイムで装備変更できるショートカットアイテムだ。
腕輪が一瞬強い輝きを放つと、セラフィムの手には一本の槍が握られていた。
腕輪の機能がゲームと変わらず働くことにちょっとだけ安堵して、手にした武器を確かめる。
青い柄と、金色に輝く三ツ又の穂先の長物。三叉戟と呼ばれる武器だ。
銘を【神器:トリシューラ】。
セラフィムが所持している武器の中でも最高のレア度と、破格の性能を備えた装備の一つである。
「念には念を、ね」
呟き。セラフィムは三叉戟を振るって空中に幾つもの鋭角な線を刻む。
“発声”を発動のキーとする『スペクトラム』の魔法スキルの中でも窮めて数の少ない、文字を刻むという“行動”をキーとする魔法スキル『ルーン魔術』。セラフィムこれを取得しており、ちゃんと使えるのかの確認と、何があっても良いようにと念のために使っておくことにしたのだ。
速力向上やらスタミナ消費半減やらスタミナ自然回復力増強やら、その他これでもかと必要なものも必要でなさそうなものも過剰にバフを施す。
幾つもの効果が多重発動した結果、昔流行ったという漫画の超戦士めいたオーラを身に纏ったセラフィムは。
「さ、て。行きますかっ!」
言い終わるや否や。
風になった。