桜の天使たち 5
放課後、美和がオーケストラ部に顔を出すと、すでに部室には好子が居た。あさみは大丈夫だと言っていたものの、まだ体調は悪そうだ。顔を真っ青にしてうつむいている。美和は体育の時間の事を謝ろうと思い、好子に近づ……こうとしたが、それより先に好子が立ち上がり、向こう側に居た茶子のもとに駆け寄った。「相談したい事があるの……」と聞こえたが、それ以上聞き取れないうちに二人は部室を出ていってしまう。好子に声をかけようとした時に上げた手を中途半端にもてあましながら、美和は部室内をうろうろした。
「どうしんだい? 卯野さん」
手をぶらぶらさせている美和を見つけた勉が近寄ってきた。
「あ、兵藤先輩……」
美和はちょっと考えてから、小声になった。
「好子ちゃん……いえ、愛取さん、ここ最近体調が良くなさそうですね」
「あぁ……」
兵藤は端正な顔を曇らせる。
「何か悩みがあるような感じがするね」
「やっぱり先輩もそう思います?」
「何に悩んでるかまでは分からないけどね」
苦笑いする勉。美和も眉を八の字にした。
「あんまり詮索すると嫌われちゃいますよね、でも何だか気になって」
「まぁ、彼女が何かサインを出したら話を聞いてあげて。女の子の方が相談しやすいだろうし」
そう言ったところで勉は部員から呼ばれた。手をあげて笑顔で美和のもとから去ってゆく。
サインはもう出ている。
と美和は思った。が、そのサインが何を指しているかまでは判らない。もやもやした物を抱えながら、美和はトランペットの練習にかかった。いつもなら雄一と一緒に練習しているのだが、何故か今日は雄一は姿を見せていなかった。少し寂しい気持ちがする。
ここ一ヶ月で美和と雄一はよく喋るようになっていた。雄一は美和の事を先輩として立てながらも気軽に話しかけてきてくれている。美和はそんな雄一にどんどん惹かれていったが、それと同時に不安も大きくなってきている。はたして自分は本当にこの少年の事を本当に好きなのかどうか。年下で可愛らしいので、それを勘違いしているだけかもしれないとも思っている。あと、雄一が美和の実らなかった初恋の人と時折かぶることがあったので、その影響で好きなのだと誤解しているだけなのかもしれないと危惧もしている。
だが、そんな美和の思いを知らず、雄一はクラブがあるたびに美和を誘って途中まで一緒に下校している毎日だった。
しばらくして、好子と茶子が部室に戻ってきた。が、どうもただならぬ様子だ。好子はしきりに茶子に向かって「ごめんね、ごめんね」とつぶやいている。茶子は顔をしかめて、ただ何度も頷いていた。二人ともうつむき加減で慌てて自分の荷物を取ると部室を出て行こうとする。美和は声をかけようとして立ち上がったが、あと一歩のところで間に合わなかった。だが、茶子の手首からぽとりと何かが落ちるのが見えた。美和は床に落ちたそれを調べる。―一気滴の血のしずくだった。
「……!」
全身から血の気がひいてゆくのを感じた。突然の事にくらくらする頭をどうにか押さえる。咄嗟に部室を飛び出し、好子達を追いかけようとしたが、怖くてできなかった。廊下に出たところで立ち尽くす。
しばらく部室の前でぼんやりしていたが、今日はもう部活をする気になれなかったので、荷物を取って帰宅することにした。いつもより重く感じるトランペットケースを手に、再び部室を出たところで、誰かにぶつかった。
「あっ……」
遅れてクラブにやってきた佐留雄一だった。
「雄一くん……?」
美和は青ざめた顔で雄一を見る。だが、雄一はそれ以上に顔色が悪かった。
「あの、先輩……」
そこで雄一は一度ごくっと唾を飲んで、深呼吸する。
「ちょっと、話があるんですけど……いいですか?」
声のトーンに明らかに緊張の色があった。つられて美和まで緊張してきた。
「いいけど、一体なに?」
「ちょっとここでは……屋上に来てもらえますか?」
美和の返事を待たずに雄一が歩き出す。鼓動が早くなる心臓を押さえながら美和は彼の後についていった。
二人は屋上に着いた。春だが、まだ風は少し冷たい。いつもは閉まっているはずの屋上の扉が開いていたのは意外だった。雄一が職員室から鍵を借りてきたのだろうか。
「ここなら誰も居ないですよね……あの、先輩」
雄一はいつにない真面目な顔で美和に向き合った。美和の心臓の鼓動はピークに達している。先程の好子たちが脳裏に焼きついている。
「実はこれ……拾っちゃったんです」
「え」
雄一はポケットから何やら取り出す。ハンカチに包まれていたそのモノを美和に差し出し、そっと包みを解いた。
そこから出てきたのは……血のついたナイフだった。
「キャッ!」
思わず美和が叫ぶ。さっきの血のしずくのシーンも同時にフラッシュバックしてくる。
「わ、いきなりこんなの見せてごめんなさい!」
慌てて雄一はナイフをハンカチで包んだ。
「クラブに行こうと思ったら、屋上の方から男の人と女の人が何人か、揉めているような物音が聞こえたんですよ。一体なんだろうと思って様子を見に行こうとしたら、上から何人かがバタバタ降りてくるんですよね。鉢合わせしたらマズイと思って咄嗟に隠れたので、どんな人が何人くらいで揉めてたかは判らなかったんですが……。その後、気になって屋上に上ってみたら鍵が開いてて、何気なく足元を見たらその血のついたナイフが……」
「落ちて、たのね」
意識的に美和は心を落ち着かせた。先輩なのだからしっかりしなければ、と自分に言い聞かせる。
「はい。下手したら誰か殺されてないかと思って辺りを調べたんですが、倒れてる人は見当たらなかったのでホッとしてます……けど、もしかしてどこかに隠されてたらどうしようかと思って」
不安そうな雄一の肩に美和はやさしく手を乗せた。
「それ、もしかしたら茶子ちゃんの血かも知れない」
「えっ?」
「さっきね、好子ちゃんと茶子ちゃんが部室に入ってきたのだけれど、様子がおかしかったの。で、茶子ちゃんの手から血がポトポト落ちてたのよ」
美和は唇に指を当てて少し考える。
「好子ちゃん、茶子ちゃんに『ごめんね』って言ってた」
「じゃあ、愛取先輩が麩隙先先輩を刺したんですか?」
「いえ、違うと思うわ」
もし好子が茶子をナイフで刺していたのなら、わざわざ付き添って安否を確かめたりはしないはずだと美和は思っていた。
「揉めてた声って男の人の声も含まれていたのよね?」
「はい」
「じゃあ……」
美和はぶつぶつと何か独り言を言っている。このモードに入ると神経がそっちに集中するという事はこの一ヶ月で知っていたので、雄一はしばらく黙っていた。
ややあって、美和は表情を正した。
「まだ、今の段階では答えは出せないけど、とにかくそのナイフはばれないように保管しておいて。あと、ナイフを拾った事はまだ誰にももう言っちゃ駄目よ。やたらと言いふらしたら雄一くんの身が危ないわ」
「はい!」
雄一は笑顔で敬礼してみせた。幼い少年のような表情が美和の母性本能をまた刺激する。
少々不謹慎だとは思ったが、共通の秘密が持てた事が美和は少し嬉しかった。
「あ、でもコレどうしましょうか?」
再び雄一はナイフを取り出して包みを解いた。美和の目に嫌でも血が飛び込んでくる。
「キャー!だからソレしまってちょうだい!」
「わはは、ごめんなさい」
先程とは違い、今度は美和が怖がっているのを楽しんでいるように見える。美和は膨れっ面になって怒る。
「もう! ……ん、ナイフは怖いけど私が持つか、雄一くんが保管……」
言いかけた時、屋上に通じる階段を誰か登ってくる足音が聞こえた。雄一はさっとナイフをポケットにしまった。二人は身構えてその人影が登ってくる方向を見つめる。
「おい! 何をしているんだ! 叫び声が聞こえたが」
登ってきたのは美和の担任の体育教師の桂だった。鉢合わせのタイミングの悪さに美和は舌打ちしたい気分だった。
「いえ、何でもありません。たまたま屋上の扉が開いてるのを見かけて……」
美和はナイフの事は伏せる。
「屋上は生徒立ち入り禁止だぞ。早く降りてきなさい。……全く、今時の高校生はこんな所で逢引して……」
あいびき、という時代錯誤な言葉に二人は吹き出しそうになったが、素直に従って階段を降りる。こちらに非は無いが、一応桂に頭を下げて部室に戻る事にした。
「僕たち、もしかして恋人同士だと思われたんでしょうか?」
「そうかもね」
雄一にサラリと言ったが、内心美和はドキドキの状態だ。赤くなっている顔を隠すため、美和はさりげなく頬に手をあてた。
「恋人同士、屋上で二人きりで会うって、ちょっとドキドキしそうですよね」
「うん」
それってどういう意味だろう? もしかして雄一くんは私の事を……と美和は内心思った。が、
「でも僕達全然そんな関係じゃないですもんねぇ」
と雄一が笑顔で言った言葉に美和はがっくりと肩を落としてしまった。だが、先輩のプライドにかけて雄一にガッカリした姿は見せられない。美和も思いっきり笑顔で返す。
「そうよね。ただの先輩後輩よね! 恋愛感情なんて考えられないわ」
内心がっかりしつつ、美和は言ってみたが、予想外に雄一は少し寂しそうな表情になる。
え? と美和が思ったが、雄一は一瞬でまた普通の顔になった。
「さて、とりあえず部室に戻りましょうか」
「えぇ……」
美和は先程の寂しげな表情が気になったが、気のせいだと自分に言い聞かせ、部室に向かった。