契りおきし
美々しく紅葉する秋山の木々に目を奪われていたせいであろうか。紅葉狩りの帰りであった一台の牛車が、常には向かわぬ道へと迷い込んでしまった。
そしてそのまま、どうということもない泥濘にはまった。ゆぶゆぶと沈む輪はこれより先へと進む気色もない。
このようなひと気のない夕間暮れは物の怪が現れるやもしれず。
「これは困ったところで足止めされてしまったものだ」
屋形の内から涼やかな若者の声がして、従者を側へと呼び寄せる。
「あれに見えるはどなたかのすまいだろうか」
うら寂しい野にぽつりと建つ屋敷。
そこに住まう人を誰も知らぬものの、ほかに人の住む影もない。頼みはこの屋敷のみである。若者は従者を使いにやり、一夜の宿を求めれば、こころよく泊めてくださるという。
あわれとお思いくださった屋敷の主に礼を言わんと若者は牛車を後にし屋敷へ向かう。
もとより鄙びた土地である。屋敷も質素なもので、都の外れでありながら山深い田舎のような趣であった。
屋敷の主は姫であった。姫は頼みにする者にも早くに先立たれ、頼る者もなく侍従とふたりひっそりと暮らしているという。かつての屋敷の主なる人はそれほど賤しい身分の者でもなかったが、後ろ盾を失った姫はこのまま誰にも知られず野に埋もれていくに違いなかった。
若者は浮き世をけなげに生きる姫に胸をうたれる思いであった。
「一夜の宿をお借りいたします」
若者が簀子に座して礼儀を尽くすさまを月明かりが包み込む。
簾の向こうから答えが返される。
「うらぶれたところゆえ、なんのおもてなしもできず、心苦しいばかりでございます」
姫自身の声ではなく侍従を通して語るところなど、高貴の姫を思わせる。
「いやいやなんの。日も傾いているというのに、慣れぬ土地で難儀しておりました。このようにして夜露を凌がせていただける以上のもてなしがございましょうか」
秋とはいえどもまだ寒さに震えるほどではない。山の葉は赤々と燃えるごとく鮮やかに色づいていたが、この屋敷の庭に植えられた古木の紅葉はわずかに朱が差し始めたばかりで、青葉残るさまには夏の名残さえ感じられる。遮るものもないこの土地では日があるうちはまだまだ暖かな日が多いのであろう。
庭を眺めれば、草が生い茂り、虫たちはひと足早く秋の音を奏でている。男手がないと手入れも行き届かないことだろう。このようなところで侍女とふたり今までよくぞ生きながらえてきたことだ。そう思うにつれ、あわれと心が打ちふるえる。
「これもなにかの縁。いかがでしょう。これより先、姫のお世話をいたそうかと思うのだが」
「そのような過分なお心遣いは無用ですゆえ」
「そう言うな。わたしの身分ならば妻がどれだけおろうと文句を言う人もあるまい」
「それゆえにございます。姫もけして賤しすぎる生まれではございませんけれども、とてもおつり合いがとれるとは思いませぬ」
「侍従。そうつれなくするな。北の方にするというのではないのだから、もっと気安く考えてはくれぬか。姫をこのような寂しいところに埋もれさせるのも不憫であろう」
「そうではございますけれども……」
「うむ。そうだな……では姫のお声で断られたのなら諦めもつくというもの」
簾の向こうで身じろぎをする衣擦れの音がかすかに聞こえる。なんと上品な身のこなしであろうか。漏れ聞こえる溜息の儚げなこと。
「――月の君」
囁くような鈴の音が月明かりに吸い込まれていく。まだ幼さの残る若々しい声であった。
「おお。姫。なんとお呼びか」
「月の君と。人の訪れることの絶えたこの家をあわれとお思いになった月が遣わしたお方とお見受けいたします」
「わたしは紅葉に誘われて訪れただけの者。なればあなたは紅葉の姫ということですね」
「わたくしなぞ、これといったたしなみもない田舎育ちでございますゆえ、どうぞこのまま捨て置きくださいませ」
人も踏み入らぬ暗く細い道の先にある荒れ果てたすまいになど、もうどなたも訪ねてくることはないだろう。月の君とて夜露を凌ぐためだけにいらっしゃったのだから。その証にほら、戯れにも艶やかなる言の葉すらおかけくださらない。
――まあ。わたくしったら。これではまるでそのようなお誘いをお待ちしているかのようだわ。そんなはしたない。
――ああ。でも。
月明かりに浮かぶ君のなんと心乱す面持ちか――。
「まだ浅き秋ではありますが、そのような軒先ではさぞお寒いでしょう。狭いところではありますが、侍従に臥所を整えさせますので、どうぞそちらでおやすみになってくださいませ」
紅葉の姫は心に逆らうことを申し上げるしかない。ほんとうはこのまま共に月を眺めて夜を明かしたいなどという、真の心の響きが伝わりはしないかと怯えつつ。
けして妻問いを求めているわけではない。もっとはかなげで頼りないもので構わない。空が白むまで簾越しに月の君の息遣いを感じていられるだけでいい。
紅葉の姫のため息が扇の内で砕けて散る。
物欲しげな言い掛けになっていなければいいのだけれども。もうこれきりの縁だとしても、恥ずかしい女などと一夜の思い出に残りたくはない。
朝の訪れとともにお帰りになられたら二度とお会いすることはないだろう。まだ高い月を見上げながら、山の端が白むときが来なければいいのにとひそかに願う。
姫のその心が溢れてしまったのだろうか。月の君は簾越しにも関わらず紅葉の姫の目を見つめている。
「紅葉の姫さえお許しくださるのなら、臥所ではなく、このままお側に」
紅葉の姫の心がほどけて月にまで立ち昇っていく。騒がしいほどの虫の音が遠ざかっていく。
それにしても、と紅葉の姫は胸をおさえる。我ながらなんと幼い。世の姫君方はこのような言葉さえ優雅にかわされるのだろう。けれどもわたくしは、このお言葉だけで残された日々を豊かな心持ちで過ごすことができる。なんとも人との交わりに飢えた暮らしなのであろう。このような高貴な方と言葉を交わす日がこようとは夢にも思わず。いいえ。夢見ていたのだ。夢にすぎぬと知りながら。
紅葉の姫がまだ幼い日にはかなくなった母は、公達が通うほどの方だった。それゆえ娘にも高貴な血が流れているはずではあった。しかし、実のところは父となった人の名も知らされなかった。
いずれにせよ、このような寂しいところに住む女があることなど、誰の耳にも届かず、誰の目にもとまらないはずだった。侍従とふたり、静かに朽ちていくものと思っていた。
「紅葉の姫。お返事がないのはお許しの意と受け取らせていただきましょう」
月の君は言うが早いか簾の端の柱に背を向け寄りかかる。袂の端が簾の下からわずかに入り込み、紅葉の姫の目はもうその小さな布端に縫い付けられてしまう。
それを見た侍従が姫の傍らににじり寄り、案ずるように「姫さま」と小さく声をかける。その声は虫たちの声に掻き消されたはずであるのに、闇に浮き上がって見えた布端がすっと簾の外へと去っていった。紅葉の姫にとってそれは、まるで思い人が去っていくかのような苦しさ。
……おかしなこと。わたくしにはそのようなことが起きたことなどないのに。今までも。これからも。
恋だのという華やかなものには縁のないものと思っていた。それが今や心寄せと安げない心持ちの狭間で揺れている。
「ご心配なさいますな。無理なことはいたしますまい。音に聞く光る君のような振る舞いはわたしには出来かねます。それがかなえばどんなにか……。いや、これ以上は言いますまい」
声が途切れ、ふいに笛の音が闇夜を引き裂く。
見れば、月の君が横笛を吹いている。
澄んだ滑らかな音。闇夜を切り裂いたかと思われたその音は、しかと聞けばそのような鋭いものではなく、もっとやわらかな旋律であった。月から降り注ぐ光の粉は集まってまとまり、ふわりと浮かぶ。次から次へと光の珠が生まれてはふわりふわりと舞い踊る。やがてそれは簾をすり抜け紅葉の姫を包み込む。耳元で優しくささやき、艶やかな黒髪を滑らかに滑る。そして、そっと頬を撫でていく。
ほぅ……。
やわらかなため息がもれる。
月の君はしだいにゆったりとくつろいだ姿勢へとほどけていく。紅葉の姫も自ずからうち臥して笛の音に身をゆだねる。それはとても心地よく、いつしか涙が袖を濡らしていた。
涙などいつを最後としたことだろう。はらはらと流れ落ちる涙はあたたかで、蛍のように光り舞う笛の音が姫を静かに包み込む。その内は満ち足りたものなのに、涙はとめどなく溢れ、その溢れ出た思いが嗚咽となる。両の袖で強く口元をおさえても幼子のような声がもれてしまう。
笛の音が途絶え、虫の音が勢いを増す。
気付けば仄かに東の空が白んでいる。
「名残惜しいが……」
月の君が立ち上がる。
けれども紅葉の姫に通いを求める勇みなどあるはずもない。そもそもこのふたりにはなにもなかったのだから。一夜の月を共に愛でただけなのだから。
紅葉の姫は心の限りそう言い聞かせても、思う心は我が身をするりと抜けて、簾の端より垣間見たあの袂へと縋り付こうとする。
「こちらの庭には楓がございますね」
月の君が眺めるは荒れた庭に立ち並ぶまだ青い楓の木。
「この庭にも秋が訪れ、葉が紅葉する頃にまた参りましょう」
情け深い契りの言葉。
「うれしゅうございます。これであなたがお帰りになられましても夢の続きを見ることができます」
「よもや乱れ言だとお思いではないでしょうね」
「今はただ気まぐれに月が遣わしただけでございますもの。またのお越しがなくても悲しんだりはいたしませんわ」
「つれないことをおっしゃいますな。では、紅葉の頃にお会いしましたら、その時こそ親しくしていただきたいものです」
そう言い残し、月の君は朝ぼらけの中を帰っていった。
紅葉の姫は、はしたないと知りながら、簾から這い出て月の君の座していたところに手をあてた。夜通しおられたその場所は、まだかすかに温もりを残していた。そして侍従が止めるのも聞かず、床に頬を寄せる。月が見せた幻ではないことを確かめずにはいられないのだった。
*
かたや月の君にしても、帰り着いて後も紅葉の姫の香が忘れられない。日々の勤めに追われながらも、月見ればあの夢のような一夜に想いを馳せる。すぐにでも訪ねたいとは思うものの、正妻が臥せがちになり祈祷などをさせているうちに秋は深まっていった。
ようやく妻が床上げしたころには、都の楓は既に枯れ落ちていたのだった。
かの姫はさぞ心細くお思いだろう。わたしのことをどんなにか恨んでいることか。
幾度か文などを送ってはみたものの、しるべなき山の麓ゆえ、使いの者は誰一人として紅葉の姫のもとへ届けられはしなかった。
これでは露のようにはかない想いであったと思われてもしかたがない。せめて今一度お会いしてお話をしたいものだ。
やがて月の君は、あの日と同じ供を連れて紅葉の姫のもとへと向かう。
*
手入れの行き届かない荒れた庭でも、紅葉する頃にはと契りを結んだ楓は、たしかに色づいた。血のごとき深き赤に染まり、それはまるで紅葉の姫の心の傷から流れ出たかのようであった。やがてその葉も残らず散り、楓は寂しげに細い枝を冷たい風にさらしている。
それでもまだ月の君は訪れてはくれない。
――葉が紅葉する頃にまた参りましょう。
やはり道に迷われた心細さがそう言わせたのかもしれない。それともこの庭の紅葉したことを知らないのではないだろうか。
月の君のおられる都からでは見えるはずもない。山の紅葉であれば目につくこともあるかもしれないが、麓の紅葉など近づかなければわかるはずもない。果たすべき時を知るすべがないのに違いない。
冬立つ前にお知らせしなければ。あの秋の一夜に結んだ契りのために。
今日も宵闇が訪れる。
薄の穂が月の粉をまとい白く揺れる。鈴虫や蟋蟀などが声を重ね、高らかに鳴く。乾いた枯葉がかさかさと風に転ぶ。
燭台の油も尽きようとしており、心もとない弱々しい明かりが秋風に揺れる。
にわかにさあっと白い霧が広がる。否。霧と思われた白さは月明かりであった。先ほどまで月にかかっていた薄い雲が途切れたのだ。月は玉虫色の輪をまとい、千切れ雲を白金色に浮かび上がらせる。虫の音がやむ。なにかが近づいているのだ。
紅葉の姫はずるりと立ち上がり、燭台をつかむ。履物もないままに庭に下りる。夏の盛りはいろいろな草葉が生い茂っていた庭も、今は寒々しい朽ち葉が埋め尽くしている。一足ごとにかさりかさりと鳴る。
小さな屋敷ゆえ門はすぐそこにある。かさりかさりと進み、月の君が去って後は獣すら通りかかることのない荒れた道を眺める。
びょうと風が吹き、薄が月の粉を振りまく。紅葉の姫は両の手で扇を掲げ、面を覆う。
風に乗り、牛車の進む音がする。音はいよいよ近づき、紅葉の姫のまのあたりにて軋みながら止まる。されども姿は見えず。音ばかりが荒れ野に漂う。
月に雲が懸り、またしても闇が辺りを覆う。
夜のしじまに、なにかの爆ぜる微かな音が後ろより聞こえてくる。
「姫さまっ」
簀子辺りより聞こえる侍従の声にゆるりと振り向けば、庭の朽ち葉があたたかな色に染まっていくところであった。手にしていたはずの燭台が失せていた。
庭はみるみるうちに紅葉する。
地を舐め、いまや紅葉の姫の衣までも赤く染まりつつある。あの夜、月の君が眺めた楓にも辿り着き、枯れ木を赤き蛇がのぼっていく。
紅葉の姫は心安らかになる。
ああ……これできっと月の君にも我が庭が紅葉したことがおわかりになるでしょう。ようやっといとおし君をお迎えできる。
墨をこぼしたようなぬばたまの闇夜に燃える紅葉。朱に、橙に、赤に、紅葉は雲隠れの月まで昇っていく。
さあ――おいでませ、月の君。わが庭もこんなにも紅葉いたしました。
いとしの我が君よ――。
*
薄の穂が月の粉をまとい白く揺れる。鈴虫や蟋蟀などが声を重ね、高らかに鳴く。
そんな夜半の荒れた道をひっそりと牛車がやってくる。供の者は少ないものの、車輪の軋みが大きいせいだろうか、通り過ぎるそばから虫の声がやんでいく。秋の声を切り裂いて牛車は進む。
「ひとまず止めよ」
主の声に一行は歩みを止める。簾を上げて降り立つは上品な衣の男。
「いったいどうしたことなのだ」
男は辺りを見回し呟く。その問いに答えられるものは誰もいない。男とて返しがあると思って声を発したわけでもないだろう。
都の外れの女の許へ久方ぶりに訪ねてみようと思ったのが間違いであった。先に届けたはずの文への返事もなく、胸騒ぎがして、このように直に向かってみたのだが。
「文や贈り物だけで済ませていた報いだろう」
男は小波のような薄の群れを眺める。かつて屋敷があった辺りは一面に薄が生い茂るばかりである。かつて人の住んだ名残もない。
つい秋の初めの頃のことなのに、おかしなことだ……。
薄の群れは幾歳も前からここにあったかのように秋風に揺れている。
あれは秋の夜が見せた夢であったのだろうか。それはなんと儚き夢よ。
*
もとより行き逢ふことなきふたつの思いは夢まぼろし。たまさか差し交う秋の一夜。淡き契りは荒れ野に彷徨う。
こぼれた墨のごとき、ぬばたまの闇夜。
虫の音の秋の調べに、雲隠れの月ばかりが赤く染まっている。
―了―
絵:九藤 朋 様