一章 ヴァルハラへ(2)
しとり、しとり、と頬に落ちる水滴のおかげでレギーナの意識は覚醒した。
「うぅ……ここは? そ、そうです! 私たち穴に落ちて……ッ!?」
がばっと起き上がると、そこは広大な鍾乳洞の中だった。すぐそこにはいかにも冷たそうな川が流れ、誰かが熾してくれた焚火が温かな光で照らしてくれている。
その焚火の傍には一緒に落ちてきたと思われる枯れ木が突き立てられ、枝にはレギーナの着ていた服やら下着やらが干されていた。どうやら落下中に意識を失った後、あの川に思いっ切りダイブしてしまったらしい。
となると、レギーナを助けてくれたのも、焚火を熾してくれたのも彼ということになる。
彼――鳴神白真。レギーナがやっとの思いで見つけた神の器たる英傑。ちょっと無茶苦茶なところはあるが、レギーナの選定に間違いはなかった。こうしてレギーナを助けて、凍えないように自分の上着を被せ……。
……。
…………。
………………ッ!?
「ひ、ひゃあっ!? わ、私スッポッポンじゃないですかぁあッ!?」
かぁああああああっ! 一瞬で顔を真っ赤にしたレギーナは慌てて自分自身を抱き締めるようにあられもない肢体を隠した。ミルクのような白い肌を男物の上着で可能な限り覆い、その上着の持ち主を思い出してさらに頭が沸騰する。
冷水の川に落ちたとはいえ、人間の男に服を脱がされ裸を見られたとあっては一生の恥である。そもそもあの程度の高さから落下したくらいで気絶するような事態もヴァルキリーとして大変羞恥するべきだが、今のレギーナにはそこまで考えは至れない。
しかも白真の上着は全く濡れていない。川に落ちたのはレギーナだけだったようだ。これでは出会って早々にアホの子呼ばわりされても返す言葉がない。
「白真様!? 白真様どこですか!?」
白髪の不埒者はと言えば、レギーナが首を巡らせて視認できる範囲にはいなかった。その代わりに焚火の傍の地面に日本語でメモが書かれてあるのを発見する。
そこにはこう書かれていた。
『超役得』
「黙りなさいッ!?」
一応日本語も読めるレギーナは文章の開始からツッコまざるを得なかった。
『人工呼吸なんてもん初めてやったが、案外上手く行くもんだな』
「じじじじ人工呼吸ッ!?」
――人工呼吸って、アレですよね!? マウス・トゥ・マウスのアレですよね!?
レギーナは赤面をより濃くさせて両手で口元を押さえた。まさか裸を見られただけでなく唇も奪われていたとはもうお嫁に行けない。
『冗談だ』
「ぶっ飛ばしますよ白真様!?」
叫んでからレギーナはハッとする。ただの文章でさえいいように弄ばれている。これではヴァルキリーとしての威厳が……。
『威厳なんてもの最初だけだったな』
「書置きで心を読まないでください!?」
鳴神白真はもしかするとレギーナの天敵だったのかもしれない。この後も思わず声を張り上げたくなる文章が続いていたが、そうすると負ける気がするのでレギーナは全力で我慢した。
そして、最後の文章。
『冗談はこのくらいにして、ちょっと探検してくる。そこの川に沿って行けば運よく出口が見つかるかもしれねえからな。レギーナは溺れかけていたんだ。このメモ書きを読んでも下手に動かず休んでろよ』
そこには茶化すようなことは書かれておらず、寧ろレギーナの体を気遣っていた。ツッコミ必須な前置きが長過ぎる。どれだけ暇だったのだろうか?
「勝手に動くなって言いましたのに……」
レギーナは溜息をつくと、枯れ木の枝にかけてあった服を手繰った。もうすっかり乾いていたので急いで着直す。
すると――にゅるり。
腕になにかぬめっとした細長いものが絡みついた。
「――きゃあッ!?」
反射的に振り払う。地面に叩きつけられてのたうち回ったそれは――
「へ、蛇ですか?」
黒い鱗に覆われた長大な体に、赤く怪しく光る二つの目。舌をチロチロと出しながら威嚇するように首をもたげ、レギーナに襲いかかるタイミングを窺っている。
その黒蛇が、一匹だけではない。
「――ッ!?」
周囲の壁や天井までもが、黒い蛇の群れで埋め尽くされていたのだ。蛇たちはどこか統制の取れた動きをしており、徐々にレギーナを取り囲む輪を縮めてくる。
「北の世界で……蛇の群れ……!?」
ようやく、レギーナは気づいた。
今、自分がいる場所と、その危険さに。
「まさか、そこの川はフヴェルゲルミルの支流……ということは――いけません白真様!?」
レギーナは剣を抜き、走る。飛びかかってくる蛇を薙ぎ払い、地面に残っていた白真の足跡を辿って追いかける。
「ここはニヴルヘイムです!? 川を伝ってもしフヴェルゲルミルの泉に出てしまわれたら――」
最悪の事態が脳裏を過る。
「そこは黒き悪竜――ニーズヘッグの住処です!?」