一章 ヴァルハラへ(1)
閉じていた目を開くと、そこは雪に覆われた針葉樹の森だった。
空は曇天で薄暗く、雪が積もっているだけあって凍えそうなほど寒い。日本は初秋の時期だったが、いきなり北極圏に飛ばされたかのような気温の変化だ。
「ここが北欧神界? なんかずいぶんと寒い場所だな」
よく見れば周りの木々も枯れ果てているものが多い。少し雪を掘っても土は見えなかった。それほど深く積もっているようだ。地獄でも楽園と言った白真だが、よもや神の住まう世界がこんな寂れた雪国だとは思わなかった。
人の気配もなければ動物の気配もない。あるとすれば白真と、そこで挙動不審に物凄い勢いで首を振って辺りを見回している金髪の戦乙女だけである。
「あ、あれ? あれ? え? なんで? お、おかしいですね……こんな北の方に出るなんて」
「どうした?」
「はわわ!? 白真様いたのですか!?」
「そりゃいるだろ。お前が連れてきたんだ」
「そ、そうでした。えっと、実はですね……」
戦乙女――レギーナ・レギンレイヴは、なにか想定外の事態に陥ったように慌てふためいて頭を下げた。
「す、すみませんすみません! どうやら転移座標を間違えてしまったようです。ここも北欧神界のどこかだとは思うのですが、どこなのかちょっとわからないと言いますか……」
いきなり前途多難である。このヴァルキリーについて行っていいのか本気で心配になる白真だった。
「レギーナだっけ? 入口を抜けた先で即行迷子とか、もしかしてお前はアホの子なのか?」
「あ、アホの子とは失敬な!? これでもヴァルキリー養成学校では成績よかった方なんですよ!? いくら次期主神候補の白真様でも由緒正しき戦乙女であるレギンレイヴを馬鹿にすると許しませんよ!?」
「ならここがどこか言ってみろ」
「すみません私がアホの子でした!?」
一瞬でプライドを砕かれて土下座する戦乙女がそこにいた。
「それより今、俺のことを次期主神候補と言ったな」
「あ、はい。えっと、今ちょっと不測の事態なんですけど、説明しないとダメですか?」
「ダメ」
「あう、白真様って実はかなり無茶苦茶な人ですか……」
「フッ、無茶苦茶加減にはちょっとした自信がある」
「変な自信持たないでください!?」
レギーナのツッコミを白真は悪戯っ子の笑みで受け流す。いちいち反応が楽しいヴァルキリーである。白真は内心かなり満足だった。
レギーナは諦めたように嘆息し、
「簡単に説明しますと、現在の北欧神界は数百年置きに主神が入れ替わる制度になっているのです。政治家や大統領の任期みたいなものと考えてください。その入れ替わり候補として、白真様のような英傑を私たちヴァルキリーが人間界から導くことになっています」
「つまり俺は神になるために連れて来られたってことか」
「はい。時代を問わず歴史に名を残す英雄は、必ず内に神格を宿して生まれています。彼らを冥界ではなくこの神界に導くことは、終末戦争以前から変わることのない神界の習わしです」
白真は表の歴史にこそ載らないが、裏の歴史には名が残されていてもおかしくない。最強の〝悪党狩り〟はそれだけの巨悪を潰してきた。
自分でも馬鹿げた人生だったと思う。が、それ以外に白真の生きる理由はなかった。ヒーロー気取りのつもりもないし、蔓延る悪を駆除して世界を浄化しようなどと大層な信念を抱いていたわけでもない。
白真が悪党を狩り続けていたのは、ただの復讐だ。髪の毛が全部白く染まってしまうほどの恐怖と悲しみと憎しみを与えられた屈辱の精算だ。とても誇れる動機とは言えない。
……いや、よそう。
今の鳴神白真は、神界という新しい世界で生まれ変わったのだ。過去の自分などどうでもいい。とにかく、向こうではできなかったこと――今を楽しもう。
「近々、次期主神を選出するためのゲームが開催されます。白真様は私と一緒にそのゲームに参加して、最後まで勝ち残っていただきたいのです」
「ほう、そりゃ楽しそうだ」
主神の座を賭けた神界のゲーム。
地球で生きていた頃では考えられないイベントに、白真は胸を躍らさずにはいられなかった。あとはどうにかして本来転移するはずだった場所に辿り着かねばならないが、果たしてこの案内人に任せて大丈夫だろうか? 大丈夫だと信じよう。
と、そこで白真は一つ思い出す。
「そういや俺の死体は置いて来ちまったけど、今の俺は霊的な存在って感じか?」
「あ、いえ、私も白真様もきちんと肉体を持っています。本体が修復不能なほど破損していたので、勝手ながら別の肉体として復元させていただきました」
「へえ」
人をデータの塊みたいに言うレギーナだが、白真は特に気にしない。ヴァルキリーに導かれた英雄がどういう存在なのか、白真は齧った程度には知っているからだ。
「魂の記憶からの復元ですので、百パーセント同じ体だと思っていただいて問題ありません」
「なるほどね」
手をグーパーする。
軽くジャンプしてみる。
ヴァルキリーの胸を揉んでみる。
「本当だ。全く違和感がねえな」
「今なんで私の胸揉んだんですかぁあッ!?」
瞬時に顔を真っ赤にしたレギーナは平手で白真の頬を引っぱたこうとしたが、やはりひょいっと簡単にかわされてしまう。
「避けないでください!?」
「いやほら、あたったら痛いし」
「乙女の胸を揉んだ代償くらい受け取ってくださいぃ!?」
「えー」
「えー、じゃないですから!?」
レギーナがついに腰の剣を抜いて振り回して来たので、白真はバックステップで距離を取った。そんな白真にレギーナはぷっくりと頬を膨らませて唸ると――ぷいっ。膨れっ面のままそっぽを向いた。そういう仕草が白真の嗜虐心をくすぐることに気づいていない様子だった。
「と、とにかく少し時間をください! ここがどこなのか調べますので!」
「いや、場所がわからないってのも一興だ。探検のし甲斐がある」
白真は子供のように好奇心旺盛な笑みを浮かべると、早速その辺を見て回るために歩き始めた。するとレギーナの顔がさーっと青ざめる。
「探検て、ちょっとお待ちください白真様!? 神界と言えど危険がないわけではありません!? 場所によっては凶悪な魔物や、神々と敵対する巨人族がいるかもしれないのですよ!?」
「そりゃいい。魔物も巨人も地球ではお目にかかれない架空の存在だからな。いるなら是非見てみたいぜ」
「いけません!? 遭遇したら間違いなく戦闘は避けられませんよ!?」
「望むところ」
「望まないでください!?」
根っこから好戦的な性格だと自覚している白真に戦闘回避の選択肢はない。売られた喧嘩は買う。売り手がいなければこちらから叩き売る。もちろん善良な一般人に手を出すほど白真はバーサークしていない。喧嘩する相手はちゃんと選ぶ。
「お願いですから動かないでください! いいですね!」
「へいへい」
「へいは一回です!」
「お前は引率の先生か?」
仕方なく探索を諦めた白真がその場に胡坐を組むと、レギーナはツッコミ疲れでぜいぜい息を切らしながら地図と思われる紙面を取り出した。ヴァルキリーの衣装の中から取り出したように見えたが、内部の構造はどうなっているのだろうか?
眉間に皺を寄せて地図と睨めっこするレギーナを見詰めながら、白真が暇潰しにどうやって脱がせて服の構造を調べるか検討していると――
メシリ。
嫌な音が聞こえた。
「え?」
「おっと」
足下が激しくぐらつく。
――地震か? いや違うな。
範囲はそれよりも遥かに限定的だ。白真たちの周囲でのみ地面が、いや雪の地面が揺れ、僅かに沈み始める。
「わわわわっ!? なんですか!? なんなんですかこれ!?」
「元々穴が開いていたところを雪が塞いでいたみたいだな。で、俺らが乗ったことでバランス崩壊。天然の落とし穴ってわけだ。ほら、一気に落ちるぞ」
「ええっ!?」
レギーナの悲鳴は爆撃のような轟音に掻き消された。瞬間、地面が突然消失したように抜け、白真とレギーナは成すすべなく重力に従って落下していく。
底は見えない。真っ暗だ。
「すっげ。かなり深いな。このまま落ちたら死にそうだ」
「なんでそんなに冷静なんですかぁあああああああああああああッ!?」
一人分の絶叫が深い深い縦穴に虚しく反響し、そして消えた。