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竜の傷痕(1)


 翌日の早朝。アンナはいつもより少し早めに起きると、彼女の庭園へと向かう。外に出た瞬間に肌を刺す、少し冷たい空気。完全に目を覚ますには、ちょうど良い温度だった。



「おはよう。」



 いつものように、アンナが庭園の植物たちに語りかけると、彼らはサラサラと葉を揺らす。まるで“おはよう”と、植物たちが挨拶を返してくれているようだった。


 そんな様子に彼女は微笑むと、庭園内の果樹が植えてある一角へ歩を進めた。



「少しいただいていくね。また美味しい実を付けるのよ?」



 そう言った刹那、木々からアンナを誘うような甘い香りが漂う。彼女の両手は、その香りに吸い寄せられるかのように持ち上がり、いくつかの種類の木から果実を何個かもぎ取った。


 アンナはこんな風に木々や植物とコミュニケーションを取りながら過ごすこの日常が大好きである。愛しているといっても過言ではない。果実を分け与えてくれた木々を労うように、アンナは木の幹を優しく撫でた。



「さて、こんなもんかな……。」



 竜だから食べ物には肉を与えるのが一番なんだろうが、生憎今はアンナ一人分の肉が、しかも2日分しかないため、それだけではおそらく腹は満たされないだろう。


 しかし、だかといって手当たり次第にアンナの大切な木々や草花からもぎ取っては、庭がはげてしまう。そのため、比較的腹持ちがよく、実自体も大きめな種類の実を、いくつかだけ取るに止めておき、それでも足りないと言われたら素直に謝って買い出しに行くしかない。


 (もう起きてるかしら?)


 そう思いながらアンナは家を出て、竜の眠っている森へと向かった。アンナの気分は今日の天気のように清々しく、とても晴れやかだった。

 

 森の中をしばらく歩くと、昨日の竜が丸まってるのが目に入った。その竜はまだとても気持ち良さそうに寝息を立てている。


 アンナは竜の側に行くと、その巨体にそっと触れた。そのまま慈しむように何度も何度も撫でる。竜はアンナよりもずっと大きい生き物であるのに、アンナは不思議と恐いとは感じなかった。



「おはよう。起きてる?」



 アンナは優しく、手負いの竜に話しかける。しかし、どうやらまだ眠っているらしく、竜からの返答はなかった。まだ朝も早い時間であるから仕方ないかとアンナは苦笑を零す。


 それじゃあ、といった調子で竜の側の切り株に腰を下ろし、することもないのでジッと竜を観察する。すると、段々この竜に関していくつかの疑問が沸いてきた。


 どこから来たのか、なぜここに来たのか、何よりもどうして怪我をしていたのか。


 数々の疑問が頭の中を巡っていく。やがて頭がパンクしかけた、その時。



《君は竜の寝顔なんか眺めてて、そんなに楽しいのかい?》


「……え?」



 ハッとアンナの意識が現実に戻ってくる。低くて落ち着いた声だが、何とも不思議な声だった。耳から聞こえる音ではなく、頭に直接響いてくるような不思議な声。一体誰が話しかけてきたのだろうとアンナは辺りを見回した。少なくとも、耳に慣れた木々たちの“声”ではないことは確かだ。


 そして、辺りを見回して誰もいないと分かった以上、自分や木々以外でこの場にいるのは、彼女の知る限りたった一匹しかいない。


 彼女は意識をゆっくりと竜に戻すと、その金の眼は開かれていた。どうやら目覚めたようだ。開かれたその眼はアンナをジッと見据えている。気恥ずかしいとかいう感情はどうやら無いらしく、アンナが思わずたじろいでしまうほどに真っ直ぐ、金の瞳はアンナのエメラルドグリーンの瞳に据えられていた。


 しかしアンナはそれよりも、先ほど聞こえた彼の“声”に驚愕していた。アンナもエメラルドグリーンの瞳を金の瞳から逸らすことなく、むしろ凝視してしまう。凝視されることを不愉快に思ったのか、竜は微かに、本当に微かに眉を顰めた。


 

《……何?》


「今、あなたが私に話しかけたの?」



 アンナは信じられないといった様子で()の竜に問いかける。木々に少し遮られながらも、キラキラした朝日の木漏れ日が、竜の体を撫でていた。竜はそれに少しだけ長い尾を動かして、アンナの問いにはさも当然といった様子で答えてくる。



《この場で僕以外に、君に語りかけられるものがいるかい?》


「……。」



 アンナは“木々”と言いそうになるのをなんとか堪えた。あまりこの力は知られていいものではないとアンナは思っている。この力のことを知った者が良い顔をした覚えがアンナにはなかったからだ。


 ふぅ、とアンナはため息をついて、反射的に口から出そうになったその力のことを心の内側に押し隠す。アンナは漂う空気を誤魔化すように、手に持っていた朝食の入っている籠を顔の辺りまで持ち上げた。



「朝ご飯。いる?」


《気が利くね。折角だしいただこうか。》



 アンナの口元は先ほどからずっと引きつっている。動物も割と自由気ままで己の欲望に素直だし、物言いもはっきりしているけど、ここまで何様俺様僕様な動物に出会ったことがない。アンナは確信した。


 (この竜、絶対私より年下だわ。)


 竜は目の前に置かれていたバスケットから朝ごはんとなるものを取り出し、早くも食べ始めている。アンナのことは全く気にしていない様子だ。しかし、そんなことよりももっと納得のいかないことが、彼女にはあった。


 (ていうか、助けたの私なのに、どうしてこんなに上から目線なのよ。)


 礼儀を知らないのだろうか、いやでもそれは仕方ないのか、と再びアンナはため息をつく。そんな彼女を竜は怪訝そうに見つめた。朝食を食べるのを一旦止めて、竜はアンナの目を見つめながら少し首を傾げてみせる。



《ねぇ。一応言っておくけど、僕は人間年齢でいう20歳だからね。》


「……。」



 開いた口がふさがらないとは、この瞬間の為にできた言葉なのではないか。そう思ってしまうくらい、アンナはかなりのショックを受けた。


 そしてその直後、軽く意識がなくなりそうなほどの激しいめまいに襲われる。

 

 (有り得ないわ、コイツの方が年上だなんて!!)


 必死に意識を保ちながら、彼女は心の内で悲痛に叫んだ。ちなみにアンナの年齢は19歳。僅差なのだが、彼女にとってはとてもショックだったらしい。アンナが心の中でそう叫んだ瞬間、竜の眼がギラリと光った。



《……失礼だね。それから僕にはちゃんと、“クロウ”って名があるんだよ》


「え? クロウ? って、ちょっと待ってよ!!」



 思わずアンナは座っていた切り株から立ち上がった。彼女の脳裏に一つの仮説がよぎったのだ。もしそれが的中しているならこの竜……もとい、クロウが、あの静寂の中でなぜ目覚めたのかも全て辻褄が合う。


 アンナは恐る恐るといった表現がピッタリと合うほど控えめな調子でクロウに問いかける。仮説が的外れなものであってほしいと、彼女は切実に願っていた。



「……あの、ひょっとしてクロウは人の考えてることが分かるの?」


《さあね。それを言ったら面白くないだろ?》


「……。」



 この態度から推察するに、およそ八割は認めているのだろう。少なくともアンナはそうとった。先ほどの考えを読まれていたことを知り、みるみるうちにアンナの頬が赤く染まっていく。


 (人の思考を読むなんて、なんて悪趣味なの!?)


 赤くなっていく頬を隠すように、アンナは目尻を吊り上げてクロウを睨んだ。クロウは涼しげな顔でそれを受け流している。照れやら怒りやらで、アンナの白い肌はどんどん紅潮していった。地団駄を踏みそうな勢いだ。



「もう! さっさとそれ食べちゃってよ!!」


《はいはい。》



 クロウはアンナにとってカチンと来るような2つ返事をした後、器用に果実や肉を食べることを再開した。アンナはそれをみながら、深い溜息をつくより他はなかった。そのままアンナは脱力するように切り株に腰を下ろし、頬杖をついて、元々の体勢でクロウを観察する。


 最初、アンナはとても豪快な食べ方を予想していて、ご丁寧にホウキまで持参していたのだが、それは杞憂に終わった。


 クロウは舌で食べ物を巻き取るとそのまま口へ丸ごと放り込んでしまうのだ。果実に至っては、どうも種まで食べてしまうらしく、実を丸呑みしたまま種らしきものが出てきた瞬間は、彼女の知る限りただの一度もなかった。


 瞬く間に籠の中の食材は、クロウのブラックホールのような胃袋の中へと消え失せていた。しばらくして、アンナは空になってしまった籠を見つめている内に、少し心配になり、素直にクロウに問う。



「ひょっとして、足りない?」



 竜の食べる程度が分からなかったので、大男一人前分くらいの食物を用意したのだが、果たして竜の胃袋にそれが通用するかどうかは微妙なところだとアンナは思っていた。だが返って来た答えは、彼女にとって意外なものだった。



《……人にしては賢明だと思うよ。》



 そう言ってクロウは、アンナを見つめながらニヤリと笑みを見せる。笑ってみせると言っても、本当に笑ったのではなく、あくまで雰囲気の話だ。アンナの瞳には、口角が微かに上がったという程度しか映っていないが、不思議とアンナはクロウの感情の機微を正しくまた見逃すことなく捉えていた。

 

 

《たまにね、山ほどの肉を出してくる馬鹿もいるけど、実際僕らが食べる量は人間とさして変わらないから。》


「へぇ……、じゃあ多すぎた?」



 借りた本によると、竜は肉も食べるが木の実や野菜も食べるということが記されていたので、ハーブや果実は入れたものの量の程度は分からなかったのだ。あと2、3日の間は翼を治す為にここにいるはずだから、アンナとしては竜の食事量を正しく知っておきたかった。



《僕は雄だし成竜だからね。少ないのは困るけど、これくらいなら適量の範囲内かな。》


「分かったわ。……治るまでに太らないでね? 飛べなくなっちゃうから。」



 と、アンナは冗談半分で言ってみた。クスクスというアンナの控えめな笑い声が、優しい温度のこの空間に溶けていく。しかし、その刹那。バサッという音が聞こえたかと思うと、突風がアンナを襲った。



「きゃっ……!?」



 しかしその突風は直ぐに止み、アンナが再びクロウを見やると、怪我をしていない左翼が開かれていた。その眼はさも愉しげで。



《一体誰に向かって言ってるのさ。僕が太るわけないだろう?》


「ふふっ、そうね。ごめんなさい。」



 わけの分からないクロウの自信に、アンナは思わず吹き出してしまった。でも確かに、きっと彼は太らないのだろうとも、アンナは思っていた。本当に不思議である。


 一刻ほど前まで、彼の態度にあんなに苛立っていたのに、これほどまでに自信に満ち溢れていると、逆に頼もしくも見えてくるのは一体なぜなのだろう。


 だからアンナは、この竜になら自分の秘密を言っても良いような気がしていた。確かにまだ会って間もないが、木々や植物と同じように、不思議と信頼出来る雰囲気がその竜にはあったのだ。



「……私の話、聞いてくれる?」


《さぁね。興味がなかったら聞き流す事にするよ。》



 アンナはだんだん気づき始めていた。これはクロウの少し不器用な優しさだということに。それは単純に天邪鬼なのか、それとも意識してこういう態度を取っているのか、本当に不器用すぎるだけなのか、どんな形なのかということまでは分からないが、アンナはこの優しさが心地よいと感じていた。棘があって分かりにくいが、これがクロウの優しさの形なのだと、アンナは気づいたのだ。


 アンナは偽善に少し敏感な性格だった。もちろん偽善だって優しさの一つの形であるのだろうし、否定するつもりもないが、ただアンナ一個人としては、あまり親しくない人からの押しつけのような優しさがあまり好きではない。だから彼女はそんな彼の、表向きは突き放したような調子の優しさに感謝しつつ、肩の力を抜くとゆっくり話し始めた。



「うーん、まず何から話そうかしら。……私ってね、一応魔女なのよ。」


《魔女? なんだって一応なのさ。ひょっとして修行中かなにか?》



 クロウはその金の眼をアンナに向けながら、少し首を傾げてみせる。彼は魔女であるなら堂々と魔女だと言えばいいのに、といった分かりやすい目をしていた。アンナももちろん自分が魔女であるとは一応思っているが、堂々と言うには少し材料が足りない。そのため彼女は首を小さく横に振った。



「一応っていうのは、私がホウキで空を飛べないからなの。」



 そう言ってアンナは、少し肩をすくめてみせる。心の奥の痛みを隠すように、茶目っ気をわざとみせながら。アンナは同情されることが好きではなかった。



「昔、私の出身地の村の長に言われたのよ。飛べない魔女は、魔女って言わないんだって。」


《へぇ。》



 そうクロウは適当に相づちを打つと、アンナが座る切り株の横の木に立てかけられているホウキを見やった。彼女が飛ぶ為のものでないのなら、これが今現在、何故ここにあるのかを考慮しているのだろう。

 

 (……クロウが怒りそうだから、絶対に言わないけど。)


 彼の視線の先にひたすら気づかないフリをする。本当はホウキに頼らなくても、要は空さえ飛ぶことができればよかった。魔力の媒体としてホウキを使うという方法が一番簡単な飛行魔法の方法であるため、ホウキを使ってですら飛ぶことのできないアンナは、出来損(できそこ)ないとして同族から酷く疎遠されていた。



「でも私は木々や草花と会話が出来る。大地が持っている一切の力を、私は扱う事が出来るのよ。」



 そこでアンナは一旦言葉を切ると、得意げな笑みを浮かべながら言った。本当に年相応の、屈託のない笑みだった。植物のことに関しての話をする時は、アンナはいつもこんな風に楽しそうで幸せそうな笑みを浮かべている。



「そうね、例えば。花を咲かせることなんて容易だわ。」



 そう言ってアンナが地の一点を見やると、ポンと小さな音を立てて地面から黄緑色の芽がでた。その芽はみるみるうちに成長し、やがて花を咲かせる。


 濃い青色をした、この森にぴったりの花だ。主張しすぎない小さな花弁からは、魔法の名残だろうか、小さな粒子がキラキラと周りに舞っている。



「こうやって、念じるだけで花を咲かせられるのに、私は魔女として認めてもらえなかった。」



 落胆の色を深く滲ませるアンナの声。魔女の里で、おそらく何度も何度も長や仲間に訴えたのだろう。もちろん普通の人間が念じるだけで花を咲かせるなどという芸当は当然できない。不可能だ。そのことからも、アンナが普通の人間でないことは分かるし、本来であれば、空さえ飛ぶことができれば、アンナは魔女として認められるはずだったのだ。


 アンナはそういった過去を思い出すかのように、その冴えるような青い花を見つめる。瞳の内に揺らぐ光があるのを、クロウは見逃さなかった。アンナはクロウの視線に気づいたのか、眉を八の字にしながら彼へと視線を移す。先ほどの無邪気な笑みはすでに消え失せていた。



「クロウはどう思う?」


《……君は大地に、余程愛されてるんだなって思ったよ。だから飛べないだけで魔女じゃない訳じゃない。》



 アンナの意見を求める声に、クロウはため息が入り混じったような、そんな呆れた声音で返答する。もし、クロウが人であったならば、その声の調子だと肩を竦めてしまっていそうだとアンナは思った。



《世間なんてね、どうせそんなものさ。気にする必要はないよ。》



 逆にそういう奴らは、物事の本質を見抜けない愚か者。と、クロウは更に続ける。アンナは初めて認められた気がして、少し目を見開いたあと、無意識に笑みを零していた。


 

《竜だって変わらないよ。》



 クロウはそう言ってため息をついた。その金の瞳には濃い諦めの色が浮かんでいる。竜同士で理解されないのか、竜と人との間で理解されないことなのか、はたまた両方なのかはよく分からないが、人にしたって竜にしたって、思うようにならないことや、それぞれ分かり合えないことがあるのだろう。


 アンナはジッとクロウの言葉を待っていた。サラサラと揺れる木々の音が、間を支配する静寂をより際立たせている。クロウは躊躇いからか少しの間逡巡するような素振りを見せた後、ゆっくりと言葉を吐き出した。



《……世間の奴らは僕らが財宝を溜め込んでると思ってるみたいだけど、生きている全ての竜が、人の作り出した醜い財宝が好きだという訳じゃない》


「宝に興味ない竜もいるの?」


《そういう訳じゃなくて、価値観が違うってこと。例えば……。》



 そこで一旦言葉を切ると、クロウは射抜くような視線でアンナを見つめる。静かな森の中では、お互いの声はよく響いた。ゆっくりと控えめなボリュームで話しているのに、とてもハッキリと相手の言葉が理解できる。澄んだ空気は、頭を冴えさせていて、それもまた話を聞いて噛み砕くには好都合だった。



《例えば、君の庭の草花たち。君にとっては掛け替えのない宝だろうけど、他者はそう思わない。そういうことさ。》



 だから要は価値観の違いなの。と彼は短く纏めると、山を越えて遠い彼方を見つめるような目をした。スゥと目を細めていて、その瞳は冷たさも温かさも感じられない。何の感情も窺うことができなくて、アンナはその瞳が何を、あるいはどこを見つめているのか少しだけ気になった。


 しかし、クロウはそんなアンナの思いに気づいているのか気づいていないのか、もしくは気づいていないフリをしているのか、遠い彼方に視線をやったまま、けれど話の中身はアンナに向けて小さく呟いた。



《興味深い話の礼に、僕も少しだけ話をしてあげる。》



 そう言ってクロウはアンナに視線を戻して笑みを見せた。いつもの蔑むような笑みではなく、穏やかで優しい笑み。


 初めて見たその笑みに、アンナの心臓はドキリと音を立てる。更に少しだけ胸が締め付けられた。瞳も表情も、こんなに優しいのに、一体彼は何を見ているのか。アンナは分かっていた。今クロウが優しい笑みで見つめているのは自分ではないと。自分越しに、何かを見ているのだとアンナはすぐに悟った。



《1000年ほど前。この世界はね、とても綺麗だったんだ。》


「……え?」



 まるで、1000年前も彼が生きていたような言い方に、アンナは疑問を感じて聞き直す。しかし、クロウが言い直す事はなかった。アンナもそれ以上追及して話を中断させてしまう結果になるのは不本意だったため、彼女もそれ以上は追及しない。


 それが正解だったのかは定かでないが、少なくともクロウは先ほどのように抽象的な話を続けていた。彼の言葉はアンナからしてみれば、まるで神秘的な何かの調べのようだった。



《その頃は争いもなく、エルビスは平和で美しい世界だった。》



 そこでクロウは一旦言葉を切り、フッと目を伏せた。先ほどまでの優しい表情ではあるのに、瞳に影が落ちる。


 アンナからしてみれば、エルビスは今現在進行形で、平和で美しい世界である。どうしてそれが1000年も前の話になっているのか、皆目見当がつかない。アンナが少し首を傾げていると、クロウはアンナにとって聞き捨てならないことを口にした。



《君が空を飛べなくて良かったのかもしれない。》


「……。」


 

 アンナは思わず少し口を開けて、しばらく呆けてしまった。先ほどアンナが自分自身のコンプレックスを述べたにも関わらず、そして彼はそれを受け止めてなお、彼は彼女の憧れを否定した。飛べなくてよかったのかもしれないと口にしたクロウに、アンナの瞳は驚きと憤りに燃えた。しかし、言い返そうと再び彼の目をきちんと見た瞬間、その感情は呆気なく萎えてしまう。


 遥か遠い彼方に視線を戻し、何かを見つめるクロウの金の眼がひどく儚く感じられたのだ。その眼の中には、人が起こした戦いの火が荒れ狂っているように思えた。



《このビオッシェル王国は素晴らしいね。昔ほどではないけれど、まだ綺麗な方だと思うよ?》



 そう言ってクロウは木々に目を移しながら、優しい笑みをこぼす。慈しむような瞳をしているのにその目はどこか哀しくて、アンナは問わずにはいられなかった。


 自然とアンナの眉も頼りなく下がっていき、八の字になる。アンナ自身はそれに気づかず、ただ目の前の竜の痛ましい様子に心と身体が反応していた。



「……ねぇ、どうして世界は汚れてしまったの?」


《人が大切な事を忘れてしまったから。》



 アンナはその問いに首を傾げる。先ほどからクロウが話していることは、アンナの理解を遥かに超えているのだ。アンナは彼の言った“大切な事”とは何かを続けて問おうとしたが、何故かそれは少しだけ卑怯な気がしたのでやめておいた。


 人が忘れた事ならば、自分で思い出さなければならない。知っていたのなら、思い出せないはずはないのだから。



「ありがとう、クロウ。色々話を聞かせてくれて。」


《君もね。》



 そう言いながら、クロウはくぁ……、と欠伸をかく。


 アンナはそれに目を細めて微笑むと、籠とホウキを持って立ち上がった。深呼吸すると、木々がもたらした新鮮な空気が胸に入ってくる。それが彼女には、とても心地よく感じられた。どうやらクロウも、欠伸をした時にそう感じたようで。



《やっぱりここは素晴らしいね。》


「……そうね。おやすみなさい、クロウ。」



 まだ体力が戻っていない彼に、これ以上無理はさせたくなかったため、アンナは我が家で本を読むことにした。クロウにおやすみの挨拶を告げて、彼女はもと来た道を戻る。


 森から出てすぐの自宅に入り、そしていつもの椅子に腰掛けると、アンナはテーブルの上に置いてある本を手に取った。そのまま目線を本の文字に滑らせる。



「えーっと? なになに……。」



 一度見たことの大抵は脳に記憶してしまうアンナ。そのため覚えている所は軽く読み流し、記憶に曖昧なところはもう一度、内容を完全に理解するまでしっかりと読み直したのだった。




 

 

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