森に住む緑の人(2)
どうせ本屋までいかなければならないのならと、アンナは結局当初の予定通りに生活に必要な物資を買い揃えた。
野菜類は自給自足できるため、基本的に買うものは肉類である。食物庫のようなものはあるが、どちらにせよ生肉だとあまり日持ちしないのは確かである。非常用に干し肉は常備してあるものの、やはりそれは非常用として使いたいのが本音だ。
こういった具合に、アンナが求める生肉等はあまり日持ちしないためこうして2日に1回程度街へ来る。その際、行きつけの本屋で興味のある本を借り、次の街へ来る日までに読んでおくのだ。それが、アンナの毎日である。
広場の奥へ進み、角を右へ曲がる。その通りを突き当たりまで歩いて、今度は左へと曲がる。くねくねとした複雑な道も、アンナはもう慣れっこだった。最後にその曲がり角を曲がれば、すぐに本屋の看板が見える。
―‥ アンワールの本屋 ‥―
ここがアンナの行きつけの店。路地と呼ばれる、誰にも見つからないような入り組んだ場所にあるこの店は、アンナ以外の誰かが知っているかどうか怪しいものだ。アンナがこの店を見つけたのも、ほとんど偶然に近かったのだから。
アンナが年季の入った扉を手前に引くと、カランカランという心地良い鈴の音が鳴った。不思議と安心するその優しい音色に笑みを浮かべながら、アンナは店の奥に向かって声をかける。
「こんにちは、本屋さん。」
「はいはい、こんにちは……っと。」
アンナの挨拶の返しに、気だるそうな挨拶が彼女の耳に届いた。ガチャリというノブを回す音が聞こえ、奥の部屋から老人が姿を現す。少しヨレた風のシャツに、ブラウンのエプロン姿のその老人は、アンナにいつも時代を感じさせていた。
「おや、またお前さんかい。こんな寂れた本屋に来るなんて、あんたも物好きじゃのう。」
本屋の唯一の店員ともいえるその老人は、ピントを合わすために中指で眼鏡をクイと持ち上げ、アンナをまじまじと見つめる。その様子の彼はいつもと全く変わりない。頭は白髪のみで、そこから彼の生きてきた長い長い月日が伺えた。
「だって、ここの本は内容が濃いんですもの。」
老人の先ほどの言葉にアンナは答えを返す。本当にここの本は、彼女にとって興味深いものばかりだった。童話や小説、学術書はもちろんのこと、古い伝記や随筆などといった珍しいものにもお目にかかることができるのだから、本好きにはたまらない。
「……それで? 今日は何を借りていくのかね」
老人は丸眼鏡をくいと押し上げると、客であるアンナに問うた。しかし彼女はその問いに答えることをせず、返事の代わりに借りていた本を机の上に置くと、棚の周りを徘徊しだす。
アンナからの答えが返って来ずとも老人は気にせずに、彼はまた新しい話を振った。黒い瞳をキラリと輝かせながら、しかしその好奇の輝きをアンナに悟られることのないようもう一度メガネを中指で押し上げる仕草をする。
「わしも最近知ったんじゃがの。お前さんはこんな話を知っておるかな? その昔、このエルビスには万緑の民がいたそうじゃ。」
「へぇ、そうなんですか。」
アンナは適当に相づちを打ちながら、莫大な量の本のタイトルを眺める。アルファベット順に、かつジャンル別に綺麗に整頓されている本棚にエメラルドグリーンの瞳を向け続ける。しかしほんの少しだけ、室内の空気が冷えた。
「万緑の民は植物と会話し、大地に眠る一切の力を使えたという。」
本屋の老人はそう短く語ると、古びた本棚をぼんやりと見つめた。何を思って、その話をしているのかは、おそらく誰にも分からない。人生経験が物を言っているのか、この老人はあまり自分の感情を表に出さないのだ。
アンナは瞳を本棚に向けながらも、意識を老人に向けて真意を探っていたが、やはり彼女には彼の真意が分からなかった。
「まぁそれは昔の話で、今では伝説の存在じゃがの。」
「……へぇ、そうなんですか。」
老人は努めて明るく軽い調子の声を出して、重くなった空気を追い払う。アンナはこれ以上の追及は無駄だと判断し、先ほどと同じ相槌を打っておいた。そしてようやく本格的に意識が本棚に戻った直後、彼女の目に一つの本のタイトルが飛び込んできた。
(――これにしよう。)
アンナがこの本を手にするのは二度目。最初に借りた本もこれだった。アンナは厚手の焦げ茶色の皮表紙を慈しむように一撫ですると、その本を手にしながら本屋の老人に歩み寄る。
「さすがアンワールさん、博識ですね。」
「お前さんには遠く及ばんよ。」
白髪の老人はそう言うと、アンナの借りる本を確認するために、また中指でクイと眼鏡を持ち上げた。普段人前では絶対に揺らがないその瞳が、気のせいほど微かに揺らぐ。
老人はすぐにその戸惑いの色を黒い瞳の奥に隠すと、先ほどの揺らぎを誤魔化すかのように、些か大仰な仕草で首を傾げる。
「……ほう、珍しいのう。お前さんが同じ本を借りるのは。」
「必要な気がしたの、たった今。」
老人の丸眼鏡の奥に潜む、黒い……例えるならそう、黒曜石の瞳が、アンナの淡いエメラルドの瞳を貫いた。真意を探るような老人のその瞳を、アンナは負けじと見つめ返す。
(全く、老人のくせに侮れないわ。)
老人の黒曜石の瞳を見ていると、アンナは全てを見透かされたような……そんな感覚に陥っていた。どんなに強く見返しても、その虚勢すらも見透かされているような感覚。
そう思いながらも、彼女は平静を装って本を借りる手続きを済まし、古い木製の少し重たい扉に手をかけた。そしてそのまま研磨された黒曜石の持ち主を振り返り、言葉を放つ。
「……ありがとう。また来ます。忘れられた知識の眠る、この場所へ。」
「あぁ、……いつでもおいで。」
老人はただ微笑むように優しく笑う。アンナもその言葉にただ頷くと、アンナは茶色い扉をグイと押した。カランカラン、と再度鐘の音が響く。年季の入った木製の扉は、少し悲鳴を上げた。アンナはこの音が好きだった。
(――また来よう。)
アンナは帰路を辿りながら思った。すっかり夕陽は沈みかけ、辺りは眩い赤に染まっている。日が沈む数分前が、一番赤くて明るいと、ここの町の誰もが知っているはずだ。そのせいか通りに人の影はすでに少なく、アンナは大きな通りを一人で歩いていた。黒く長い影だけが、アンナの側に付き従う。
“アンワール”。それが意味するものは“忘却”。
今では忘れさられた種族別の文献や世界が創造された話。どれもこれも、彼女の忘れかけていた好奇心や興味をそそる物ばかりだった。
だからアンナはここに来る。ここにある莫大な数の本を、全て読破するつもりなのだから。アンナはそう考えながら、足を早めに動かして帰路を急ぐ。今日はいつもより時間をくってしまった。
町の外へ出て、本格的に家に帰ろうとしているアンナ。いつもならこの町外れに戻ってくる頃は、日がほとんど沈みかけていて雲が赤や紫に染まるところが見られるという具合なのだが、今日に至っては日は既に何十分か前に沈んでおり、辺りは薄暗い。
自宅へはあと少し、といったいつものあぜ道の半ばへ来たとき、ふと足を止めて前方を見やった。
(……あら?)
いつもと何かが違う。アンナはたった今見えた風景にそう違和感を感じた。いつもならそろそろ茶色っぽい自宅が見えるはず。なのに見えるのは灰色っぽい石の山。
どうも、自宅はあの石の山の影になっているらしい。アンナは少し帰路を急いだ。一体全体何が起こっているのかサッパリ分からないアンナは、鼓動が早くなるのを感じていた。
アンナがだんだん石の山に近づくにつれ、それがとんでもなく大きなものだと彼女自身気づき始める。 それもそのはず、家一個丸々影に隠してしまうのだから、相当な大きさがあるだろう。
アンナは少し早歩きしてやっとその石の山にたどり着いたのだが、そこで見た信じられないような光景に思わず目を見開いてしまった。
(そんな、まさか。)
これは石の山なんかじゃない。
遠くから見えた灰色の山も、側で見れば銀色の鱗。家を丸々隠してしまうほど巨体が翼をたたんで丸まっていたのだ。少し視線を下に移して腹部を見ると、膨らんだり萎んだりしている。息をしているということは、これすなわち生きているということだ。
アンナは呆然と佇んだまま、呟きをポツリと漏らす。
「これって……竜、なの?」
当然のことながら答えはない。ただその言葉だけが空へと吸い込まれた。
まさか、そんな。こんな偶然があっていいのか。
先ほどアンナがあの本屋で借りた本。それは竜族について書かれた、とても年季の入った本だった。読みたい、と思ったのは、本当に偶然だったはずなのだ。少なくともアンナにとっては。
(――えっ!?)
そんなことを考えていると、不意に竜が身じろぎをした。心底驚いたアンナは思わず身構える。
ゆっくりと、目の前の竜はその眼を開く。その眼は気高い竜に相応しい金の色。しかし、その眼は力がなく、熱に潤んでいるように思えた。
「あなた、一体どうしたの? ……怪我をしているの?」
アンナは驚かせないようにと、努めて静かな調子でその竜に問うたが、途端にその竜は警戒しだす。当然といえば当然の反応であるが、それでもアンナは話し続けた。ここは自宅の前だし、なによりとても苦しそうなこの竜を何とかしてあげたかったのだ。
「大丈夫だから。あなたをどうこうしようなんて考えてないもの。」
手負いのくせに、気高く美しい金の瞳の竜。アンナは木々や植物、動物には人見知りを発揮したことはなかった。どうやら竜にもそれは当てはまるらしく、アンナは眉を八の字にしながら、親身に話しかけた。
それでも竜は信用出来ないのか、シューと口から煙を吐き出した。昔呼んだ本には、これは火を吹く前兆であると記されていたが、本当に火を吹くつもりなのだろうか。
(……いいえ。きっと違う。)
今度はアンナも何も言わなかった。ただ、竜の金色の眼を見つめていた。金の瞳には、確かに警戒の色が浮かんでいたが、敵意は見られない。アンナを害そうとしている様子もない。それを確認したアンナは、聞き分けの悪い子を諭すような気持ちで、自然体で以って竜に相対していた。
その竜も、アンナが全く怯まないので、渋々と言うように右翼を持ち上げる。どうやらある程度は信用してくれたようだ。金の瞳に先ほどのような、色濃い警戒の色は見られなくなっていた。
(やっぱりね。)
竜は右翼の付け根のすぐしたに、痛々しい怪我をしている。アンナが本で読んだところによると、竜は洞窟や山など、人里離れた場所に暮らしているという。よくもまあ、この怪我でこんなところまで来れたものだと、アンナは半分感心していた。
アンナは苦笑して軽い溜息をつきながらゆっくりと竜に歩み寄ると、籠の中から小瓶を取り出した。それは、あの売れ残った薬だった。アンナはそれを目の前の竜が見える位置に持っていき、ゆらゆらと揺らす。中身の液体も一緒に揺れた。
金の瞳に怪訝な色を確認したアンナは、優しく笑いかけながら冗談めかした声で説明する。
「私が作った効果抜群の塗り薬よ。3、4日でまた飛べるようになるわ。」
冗談めかしてそう言ったものの、もちろん効果は説明通りだ。竜の怪我はたしかにかなり酷い怪我ではあるが、この程度ならアンナの薬で問題なく治せる。後遺症も残さない自信がアンナにはあった。蓋をあけて、小瓶の中の薬が全て無くなるまで、アンナは傷口に薬を塗り続ける。
鎮痛剤も兼ねているため、だんだん痛みが引いてきたのか、竜の眼はとろんとしていた。きっとろくに寝ていなかったのだろう。そして薬が全て無くなったのをアンナが確認すると、彼女はスッと立ち上がった。
「よし、後は移動させないと。」
ふと気がつくと、竜はいつの間にか寝息を立てて眠っていた。快眠とはいかないようだが、快復に必要な睡眠ではあるだろう。それにアンナは少しの笑みを零し、家の前に立てかけてあった棒を取ると、竜の周りを円でぐるりと囲った。
その円の外に東西南北の印をつけ、更に記号を書き込んでいく。全ての作業を終え、納得のいく魔法陣が完成すると、今度は家のすぐ側にある森の中へとアンナは向かった。
森の中で適当に日当たりの良い広い場所を見つけると、アンナは周囲の木々に念じた。
《枝を成長させて日光を妨げて。木漏れ日程度になるように。》
すると、周囲の木々の枝がスルスルとひとりでに伸び、やがて辺りは木陰になった。とはいえ、日が全く当たらない訳ではなく。あくまでも“適度に”だった。木々はアンナの言葉を理解し、アンナの望みを叶えたのだ。
木々の様子にアンナが驚くことはもちろんなく、そのまま彼女は地面に竜の周りに描いたのと同じ円を描いた。全ての作業を終え、アンナは小さく息を吐く。
「さて、準備完了かな。」
そういってアンナは少し笑った。しかしすぐに表情を引き締め、深く息を吸い込む。目をゆっくりと閉じて、両手の平を上向きにして宙に掲げた。そして仕上げと言わんばかりに、古の言葉を短く鋭く唱える。
「トレント!」
すると先ほど描いた円が、淡い緑の光を放ち始めた。彼女の声に呼応するように、魔法陣は優しくキラキラと輝く。
そして次の瞬間、何もなかった地面から先ほどの竜が現れ始めた。ゆっくりと、まるで先ほどまで土の中にいたかのように、地面から竜の身体が押し上げられてくるように見える。しかし変わらずスヤスヤと寝息を立てているところを見ると、竜は振動を感じていないようだ。すなわち、魔法の力で転移させられているということである。
竜の全体が露わになり、魔法陣の発光が止まる。それは転移完了の合図だった。それを瞼の裏と感覚で感じたアンナは、ゆっくりと両手を下ろして瞼を開く。
アンナのエメラルドグリーンの瞳には、先ほどまでのことが嘘だったかのように、何を警戒するでもなく、普通に眠っている竜が映った。アンナはそんな竜にふっと微笑む。
先ほどまであれだけ警戒されていたのに、こうも無防備だと思わず和む。どうやら欲に従順なところから、まだ若い竜のようだ。アンナは彼女はそう考えながら竜の側に歩み寄る。
「ゆっくり休んでね。」
そう一言告げて、アンナはもと来た道を引き返し、やっと我が家に帰ることが出来た。暖かみのある木製の椅子に座り込み、膝を立ててそれを胸元に引き寄せるようにして抱え込む。そして膝に顔を埋めながら、アンナはしばらく考えていた。
――偶然ではなかったのかもしれない。
薬が一つだけ売れ残ったのも、二度目であるにも関わらずあの本を借りたのも、自分とあの竜が出会ったことも。その他、私が今日行動したことも、もしかしたら全て。
ならば、あの本を読まなくてはならない。
それがきっと、運命を司る神の望みなのだろうから。