過去へ。
満点の星にさえまぎれることない炎の瞳の異形は、人間の間にもその名を知られた魔王軍軍部大臣、ルーシュだ。
ケンタは胆力をこめて唸るような声を出す。その様子はいつもとは打って変わって、まさに魔を伏す勇者の風情だ。
「魔王の命か?」
わざわざ軍部大臣が赴いているのだ、そう思うのが順当であろう。
しかし、ルーシュは少しばかり唇の端をあげて、「はん」と鼻を鳴らす。
「今日は個人的な用向きです。魔王様は関係ありません」
「へえ、軍部大臣サマ直々のご用向きとは、安くないねえ」
しゃきりと金属質な音を立てて、ケンタが剣を抜き放った。
「そんな野蛮な物は必要ありませんよ。もっとも、あったところで邪魔にはなりませんけどね」
対するルーシェは唇に詠唱を含んで片手を上げる。
「試してみますか? 賭けるものはあなたの命で結構ですよ」
ケンタだって勇者を名乗っているのは伊達ではない。いつでも振り上げることができるように両腕を張り、剣先を低く構えてルーシェをけん制する。
のどかな星明りの下で剣呑な火花を散らしてにらみ合う二人。魔弾と剣戟はいまにも放たれようとしている。
その中にあってさえ、ルーシェの声音だけは妙に冷静であった。
「あなたは、自分がなぜに勇者と呼ばれるのか、不思議には思わないのですか」
「そんなの、兄さんがいるから王位を継ぐ必要はない、だけど王子には違いないからな、国民に対する広告としては、この上なく優秀な捨て駒だからだろうよ」
「ふむ、浅慮ではあるが、馬鹿ではない……そこは評価してあげましょう」
「そりゃどうも」
「せっかくだから、もっと深く考えなさい。たとえば、あのお方がなぜ『魔王』になったのか、その理由……」
「理由……?」
ケンタは少し首を傾げて考えた。思考にとらわれて剣先が下がったが襲ってこないところを見ると、ルーシェに戦意がないのは明らかだ。
だから安心して記憶の奥底まで――実に深い、幼少時の記憶までをたどる。
その男はケンタが物心ついたころには、すでにテンネ専属の執事であった。だから彼がその職を得たいきさつは知らない。ただ幼心にも彼がテンネに執着していることは明らかであったし、そのせいで目の敵にもされた。
いつだったか、テンネと遊んでいて怪我をさせてしまったことがある。もちろんわざとではなく、鬼ごっこに夢中になりすぎて二人で転んだだけのことだったのだが、件の執事は顔色を変えて飛んできた。怒りもあらわにケンタの首根っこをつかみ、あろうことか、門の外へポイしたのだ。何かの比ゆ表現ではない。なんのひねりもなく、普通にポイと……そんな虫けらに近い扱いを受けたことも一度や二度ではない。
「テンネの……ため?」
「そうです。ほら、もっと記憶をさかのぼって」
ルーシェの右手が静かに上がる。
ケンタがあっと思ったときにはもう、それが心臓のあたりに押し付けられていた。するどく、小さな魔力を流しこまれる感覚。
「ぐ……何を!」
「反魂の術です。もっとも、死者の魂を蘇らせるような不敬なものではなく、過去の魂が持つ記憶の一端を呼び戻すだけですがね、夢という形で」
手足の先が暖かく、重たい。急速に眠りに落ちてゆくのを感じて、ケンタは草の上に倒れこんだ。
「なぜ……こんなことを……」
うめきながら見上げれば、満天の星をバックに赤い瞳が燃えている。
「なぜ? 女心に疎い男はもてませんよ」
「よけい解らんわ」
「じゃあ、はっきり言いましょう。私が魔王様の心を手に入れるのに、あの聖女様は邪魔なのですよ。ですから、あなたに少しがんばっていただこうとおもいましてね、魔王様とあなたのハンデを埋める、そのためのプレゼントですよ」
「ますます解らない」
「目が覚めれば解るでしょう、何も考えずにおやすみなさい。古い、古い、ゆりかごよりも遠い過去の夢を……」
ぼわんと温み始めた思考では、楽しげにささやく声さえ、意味のない守唄の一節のように聞こえる。燃える瞳も、もはや遠い星のうちの二つとしか感じられない。
「ぐ、ふ……」
軽いいびきとともに、勇者は完全に両目を閉じた。
深く、深く、底さえ見えぬほど深い眠りのその先へ……