6話:見えない紋様
――あの兵衛という人は何者なんだろう…。
馬車に揺られる古刹の頭を占めているものは、もっぱら件の青年のことだった。
もしかして兵衛は幕末の将・浅賀十禅の息子なのではないのか。依世に預けられた十禅の子女がいると、屋敷で話されたばかりだ。何故、依世とあれほど険呑な雰囲気だったのかはわからないが。
――今日は色んなことがありすぎて疲れた…。
公爵に声をかけてもらって、依世に屋敷に連れていかれて、檀と話をして。そして、兵衛に出会った。
『――あなたは忘れたのですね、我らのことも』
意味がわからないのに、胸がえぐられるように痛んだ。
古刹には幼い頃の記憶がない。
今の古刹は那手寺から始まっている。寺に女子を置くわけにはいかないので、古刹は稚児として袴を履いて暮らしていた。名前も長い歴史をもつ那手寺に因んでつけられた。
――私は一体誰なんだろう?
幾度となく漠然と考えたことだが、これほどわからないことに苛立ったことはなかった。むしろ知らなくてもまあいいかと思っていた。
古刹は咄嗟に短刀を取り出していた。袋の口を開けると、短刀はするすると手に滑り落ちる。
慎重に両手で捧げ持つと、黒い漆塗りの鞘が静かに光沢を放った。
兵衛と出会ったとき、この短刀は震えたようだったが、気のせいだったのだろうか。
――それにしても綺麗…。
漆の闇の上には、金色の楓の枝が揺れている。
たとえ“鬼斬りの短刀”と名がついていなくても、手に入れたい人間は少なくないだろうと思わせる一品だ。
あまり手で触らないように鞘を袋に包むと、古刹は一息に短刀を抜いた。
血によって錆びついていると考えていた短刀は、しかしあっさりと抜けた。窓から入る光を白刃が受け止める。刃に欠けたところや汚れは一切なく、古刹は感嘆した。
だが、ただ一つ、ざらついた部分があることを指が探り当てた。刃の角度を変え、目をこらすと、それは何かの紋様のようだった。
また楓かと思ったが、そうではないようだ。しかし目で判断するのは困難で、古刹は短刀を元に戻した。