3話:青年将校
「紳士」という言葉を聞いたことがある。なんでも、礼儀正しい品のよい男性をそう呼ぶそうな。
――あれが紳士というものかぁ。
古刹はほーと感心しながら、遠ざかる馬車をしばらく見つめていた――背後に近づく気配にも気づかずに。
「そこのご令嬢」
間近から聞こえたのは、背筋に奮えがはしるほど甘く低い声だった。
思わずびくついた古刹は出かかった悲鳴を押し殺し、ぎこちない動きで振り返った。
そこには、朝日に勝るとも劣らない、輝かんばかりの容貌の青年が立っていた。長めの前髪は真ん中で分けられ、涼しげな切れ長の目の睫毛は長い。
ただ、軍服をまとう上背は古刹より頭一つ分はあり、肩幅などはしっかりしている。
青年は思わず見とれてしまうような仕草で帽子をとると、自らの胸に当て、これまた流れるような一礼をした。
「私は皇国陸軍少佐の永倉依世と申します。あなたに是非引き合わせたい人物がいるのですが、ご同行願えますか」
古刹は青年から視線を外して、ゆっくりと辺りを見回した。
名家の屋敷が立ち並ぶ近辺には、商家が集まっていた区域とは異なり、まだ人が活動している気配がない。とても会話ができそうもない距離に、他家の門番のような人影が見えるぐらいである。
再び恐る恐る青年に目を戻すと、まだ人形よろしく無表情(なのに、この若干見下されているような、気圧されるような感じは何なのだろう?)で直立していた。
「たぶん…私に言っているんですよね。ですが、公爵家に声をかけていただくような身分ではないんですが…」
何せ一人では、生活費は稼げても生活できない父を持つ身だ。
ほぼ一日中家事に終われていて、学問も指導者不在の手習いしかしていない。知り合いは全て平民。平民塗れの生活。
目の前にいる青年のように麗しいかんばせをしているわけではないので、実の両親は身分のある人でした、などというお芝居のような展開も見込めない。
「そもそも、引き合わせたい人というのは誰ですか?」
実の両親――という答えがでてきたが、なんだかんだで今の生活に馴染んでいる。今更親が増えてもいいことはあまりないと思う。
「言えません」
依世はきっぱりと言い切った。
「私とどういう関わりにある人ですか?」
「言えません」
「私とその人はどういうところで会いましたか?」
「言えません」
古刹と依世はしばらく無言で見つめ合った。依世の背後で外の使用人たちが立ちすくんでいる。
「…何もわからないのについては行けません」
「ここでは、言えません。会えばわかります」
古刹はただただ困惑して眉尻を下げた。
依世にこのことを指示したのは先程の老人だろう。老人の笑みを思い浮かべると、この誘いを断るのは悪い気もする。
しかし一方で、華族の屋敷などに足を踏み入れて無事でいられるのかも、非常に不安だ。身分をかさに着て、平民に手を出し泣き寝入りさせる者もいるという。
この公爵家のなかにそんな人々がいないとも限らない。一応古刹も16歳。本人の意識とは関係なく、一人の女性と見なされる年齢だ。
そして、“古刹に引き合わせたい人物がいる”という話も、真実かどうかわからない。
古刹はぐるぐると考えを巡らせた揚句、そっと片足を後ろへ引いた。 その瞬間、依世の姿が掻き消えた。
驚きがはしる前に視界が回り、コーヒーの匂いに包まれる。
事態を把握するのにしばらくかかり、状況を受け入れるのに更に時間がかかった。
「な、ななななっ…」
古刹は依世に横抱きにされていた。
平和過ぎる生活を送り、かつその手のことに疎い古刹は激しく狼狽した。相手の息遣いを近くに感じ、睨み上げることもできない。顔に急激に血が上っていく。
だが、このようなことをしてまで屋敷に連れて入ろうとされていることへの危機感の方が勝った。無意識に手が拳の形に変わる。
しかしその拳は、繰り出される前に止まった。