21話:蜘蛛
身体が宙に浮いたかと思うと、古刹の身体は兵衛に軽々と抱え上げられていた。
強張った兵衛の顔が間近にある。いつもの緊張も鼓動も切迫した状況に押し込められて、古刹は大人しく甲板まで連れて行かれた。
甲板に上がると、まず軍艦の横に付けられた船が目についた。海兵たちや、視察についてきた陸軍将校たちの姿もある。
見渡すと、古刹たちの乗った軍艦は陸からだいぶ離れた沖に浮かんでいた。
「ご無事でしたか…」
古刹が兵衛の腕から降ろされているとき、陸軍将校の一人が寄ってきた。
「…何が起きているんですか?」
何故自分が、とか、他にも色々と尋ねたいことがあったが、とりあえずそれだけ搾り出す。
兵衛の顔を見上げたが、彼は既に古刹に背を向けて、血の臭いの漂う船内に駆け降りていってしまっていた。
将校に目を戻すと、その顔にも困惑が浮かんでいる。
「暴動です。碇の鎖が誰かに断たれ、階段が倒されました。お嬢さまはとりあえず、隣の船に移って下さい」
「ユキさまと檀さんは?」
「伊垣之成さまには港に留まっていただいております。伊垣大尉は船内にいらっしゃいます」
こちらに、と促されて足を踏み出したが、先程階下へと発った兵衛の残像を追って古刹は振り返った。
海兵たちの虚ろな目が脳裡を掠める。はっとして自らの手に意識を向けると、しっかりと抜き身の短刀が握られていた。 リボンから鞘を抜き、刃を鞘に納める。震えているのか、単純な作業にしては手間取った。
歩きながら、短刀を見つめる。
黒光りする短刀は明らかに例の鬼斬りの短刀だ。この短刀は本来なら自宅の父の書斎にあるはずだ。
それが今、こうして手元にある。まるで古刹の危機に反応したかのように。
あの妙な海兵が、鬼斬りの短刀を振っただけで倒れたような気がした。いや、あれはたまたまかもしれない。薄皮一枚くらいで、兵衛の短刀が頭に刺さってなお立ち上がってきたものが払えるはずがない。しかし…。
考えれば考えるほど不思議で、掌から短刀の鼓動が伝わってくるような気がした。「大丈夫ですよ、大尉も兵衛さまもそんじょそこらの兵卒では歯が立ちません」
俯いている古刹を勘違いしたのか、将校が気を効かせた。
将校の方に顔を向けると、彼は依世などと同じくらいの年頃に見えた。こんな緊迫した状態だというのに、へらりとしている。
「まあ、だからこそ今の状況がすっごい嬉しいんだけどさ」
「え?」
金が擦り合うような音が周囲から聞こえ出し、古刹は驚いて辺りを見回した。
古刹たちと同じく甲板の上にいた軍人たちが全員こちらに向いて抜刀していた。敵意をありありとたたえた沢山の目に囲まれて、ひるんだ古刹は思わず隣に立つ将校の方へ一歩寄る。 すると頭上から忍び笑いが聞こえてきて、信じれない思いで古刹は将校の顔を振り仰いだ。
将校は耐え切れないという風に身体を折り曲げて震えている。古刹の視線に気づくと、彼は凶々しく口元を吊り上げた。
「気づいてる?あの切っ先全部自分に向けられてるんよ?」
将校の片頬で、黒い蜘蛛が足を広げていた。
じりじりと包囲を狭める海兵たちに、古刹はなす術もなく凍りついた。
そのとき――
「何をしている!」
隣の船からばらばらと跳び移ってきた海兵たちが制止の声を上げた。それに一人の海兵が切りかかり、一気に甲板の上は戦場となった。
「やれやれ…」
ため息が聞こえてきた直後、古刹の身体に激痛が走った。