17話:歩調
事件前のほのぼのです。
甲板に出ると、風が正面から叩きつけるように吹いた。白い雲が浮かぶ空は淡い水色で、濃い青の海はゆるく波打っている。
柵へ向かう間に、手は離された。また数歩先へと戻っていく手を名残惜しく見送っていた自分の視線に気づき、古刹は慌てて目を逸らす。
兵衛は柵を両手で掴むと、深く息をする。
古刹も柵に手をかけて、向こうを見下ろす。遥か下に海面があったが、よくよく見ると岸から少しも離れない位置にまだ船はあった。
「…この船は動かせないんですか?」
「今日は波が大きいので碇を揚げないことになっている」
半分独り言のように呟いた言葉だったが、意外にも返事があった。兵衛の方をこっそり伺うと、いつの間にか思いがけず近くにいて、覗き込むようにこちらを見ていた。
びっくりして体を起こすと、「そう、あまり身を乗り出さないで下さい」と小さく兵衛に零された。
「別に、落ちるような真似しませんから!」
「…まぁ、もうそんな歳でも…」
言いながら海原に視線を移し、兵衛は首を傾げた。せっかく兵衛と初めて一般的な会話が成立していたが、言葉に窮して古刹は口をつぐんだ。
また兵衛が、深呼吸をする。潮風を吸い込む顔が心なしか苦しげだ。
「…もしかして船は苦手ですか?」
尋ねた途端、表情を引き締めた兵衛に軽く睨まれた。
咄嗟に身を硬くしたが、兵衛は何も言い返さなく、波の音が混じる沈黙が流れる。
結局兵衛は黙って身を翻した。古刹の案内を終わらせて、早く地上に戻ることにしたらしい。
古刹が慌てて兵衛を追うと、兵衛も不意に思い立ったように振り返って歩調を緩め、古刹を伴ってゆっくりと進み始めた。
再びソファーの部屋に戻ってくると、すでに之成と檀の姿があった。
「あ、来た来た」
ホッとしたように之成が駆け寄ってくる。
之成と檀はじっくり回っていたはずだが、古刹たちも後半でだいぶ調整したらしい。早く船から降りたい気持ちだったであろう兵衛のことを思うと、口元が緩みそうになった。
そんな古刹の様子を目敏く之成が見つけて、意地の悪い顔をする。
「楽しかった?」
「本当に広い船ね」
と古刹はごまかし、他の3人と連れ立って船の中間から地上に下りる階段へ向かった。
上るときと違い、下りるともなると地上までの高さが視界内で強調される。
しかし古刹は、さして腰が引けることもなく、順調に階段を下っていった。
手を伸ばせば届く距離の斜め前に、以前とは少し違って見える背中があった。
下りきった後、風に煽られる髪を押さえながら船を振り仰いだ古刹は、片袖のリボンがないことに気づいた。今しがた出てきた船の中間の入口に、それらしきものがはためいている。
古刹は軽く檀たちに断ると、ドレスの前を軽く持ち上げて、また階段を上っていった。
出て来るときに引っ掛かったのだろうか。リボンが取れたことがわからなかった。
上段まで上りつめた古刹は、そこではたと足を止めた。リボンは引っ掛かっているのではなく、階段の踊場の手摺りに結び付けられていた。
そのとき、突然何か硬い物を叩き割るような音がして、足場が傾いだ。あ、と声を上げた古刹に、船内から腕が伸びる。
船に引き込まれた古刹の目の前から階段が消え、悲鳴と轟音が響いた。
はためく朱色の布がまだ目に焼き付いている。
古刹は、本能的な恐怖を感じていた。
確かに、船内には古刹たち以外にも海軍らしき人々が各地にいた。それらの誰かが古刹の腕を引いてくれたのなら、礼を言うべきだ。
だが掴まれた部位から伝わる冷たさと湿っぽさに、古刹はなかなか“恩人”を振り返れなかった。
相手はぴくりとも動かない。古刹は恐る恐る、視線を背後にやった。
白い軍服を来たその“恩人”は、目を見開いたまま額の真ん中から赤い筋を垂らしていた。