16話:軍艦
「古刹、古刹、海に出たよ」
之成――以前は少女に扮しユキと呼ばれていた少年――が馬車の窓から身を乗り出して背後の古刹を振り返った。
海の景色は、実は之成の体に塞がれていてよく見えない。古刹は苦笑して、代わりに潮の香りを吸い込んだ。
海に近づいたからだろうか、馬車が空気を吸い込んでいるかのように内部を大量の風が巡る。
髪を払ったとき、目の端に兵衛の横顔が目に入った。
之成の隣、というよりは馬車の隅にひっそりと座っている兵衛は、海とは逆方向の窓を見ている。
同じ馬車に兵衛が乗り込んできたとき、古刹はギクリとしたが、兵衛と共に行動することが多いという之成はその気配に構わず海と軍艦に思いを馳せていた。一度だけ、気遣わしそうに横目で兵衛を一瞥したきりで。
今の兵衛からは、異常なほど何の感情も読み取れない。しばらく窓の外には同じような木立ばかりが続いていて、彼の目の上を滑っていく。
軽く首を傾げた古刹は之成に視線を戻し、その視線が自分に向けられていることに気づいて心臓を跳ね上げた。
「もうすぐ着くみたいだよ」
之成はこれまでの子どもっぽい言動とは打って変わって、微笑を浮かべながら静かに古刹に伝えた。
港には真新しい白い軍艦が浮かんでいた。
「すごい…こんなに大きいなんて思わなかった…」
伊垣公爵家の屋敷には及ばないが、漁船を百集めてもまだこちらの方が大きいだろうというぐらい巨大だ。
「これは海軍士官学校で使うものだから、そこまで大きくはないよ」
之成の言葉に、古刹は「へー」と生返事をするしかない。
それにしても、周囲の視線が痛い。
依世を始めとし、伊垣家には陸軍関係者が多い。之成や兵衛が通うのも陸軍の士官学校だ。
海軍と陸軍双方に相手を嫌悪する派閥があるらしく、いさかいも絶えないらしい。
ただ、伊垣公爵を敵に回したくない者も多いので、そんなつてで得たのが今回の視察らしい。
「別に何もされないと思うけど、歓迎もされていない雰囲気だね」
之成が苦笑した。
「そんなことを気にしていたら軍では生きていけんぞ!」
いつの間にか近づいてきていた壇が之成の背中を豪快に叩いた。壇も他の馬車に乗ってここまで来たのだ。
あまりの勢いに之成がたたらを踏み、涙目で振り返る。
「痛いな!背中に痕がつくだろ!」
「…そりゃ背中が見えるドレスなんぞを着るから気になるんだろう」
壇が腕組みをしてため息をついた。怖面のこの青年が側にいるだけで、周りが視線を逸らす気配が感じられる。
やがて古刹たちは船内に案内された。
長い階段を海風に吹かれながら、(着物より動きやすいと聞いていた)ドレスに苦戦しながら船の中にたどり着いた古刹は、その内装に呆れた。
「船の中に、家がある…」
天井はそこまで高くないがシャンデリアやソファーがあり、敷かれた赤い絨毯がチカチカする。軍事目的に作られたとは思えない作りだ。
「さて」
先を歩いていた壇が振り返り、古刹の隣にいた之成を手招いた。
「これから俺はお子様にお勉強させないといけないんで、今後の古刹嬢の案内は兵衛に頼む」
古刹は事態が飲み込めず、きょとんとして兵衛を見た。兵衛に至っては、そっぽを向いている。
そうこうしているうちに壇と之成は違う部屋へと行ってしまった。
足元がゆっくりと揺れている。そういえば海の上だったな、とぼんやり考えたとき、兵衛の微かなため息が聞こえた。
「着いて来て下さい」
と言うと、彼は古刹に背を向けて歩き出した。
広間から始まり、食堂、寝室、操舵室と古刹たちは休む暇もなく歩き続けた。 止まるときと言えば、兵衛が簡潔に説明するときだけだ。
足腰は強い方だと思っていたが、甲板に上がるための階段に足をかけたとき、ついにドレスの裾につんのめった。
今回は衣装部屋のときとは違い何段も先にいたためか、兵衛の反応も追いつかず、古刹は角に臑を打ちつけた。
じんじんと痛む足を庇いつつゆっくりと起き上がっていると、階段を降りきった兵衛が隣に立った。
今さらながらに、羞恥心が沸き上がる。俯いたまま消え入りそうな声で詫び、再び階段に足をかけたとき、隣から手を取られた。
「ドレスの前を少し持ち上げて歩くといい。…之成はそうしていた」
最後はついでのように早口で付けたして、兵衛は次は古刹と歩調を合わせながら階段を上っていく。
包み込むように握られた手が熱くて、数段の階段も瞬く間に上りきってしまった。