どこにもいないあなたへ
人を見世物にしてしまう鉄格子と温度を感じさせないコンクリートの壁に囲まれた部屋。その向こうから今日も怒鳴り声が聞こえる。
「出てこい!」
「気持ち悪いんだよ!」
ボクは膝を抱え、両手で耳を塞いだ。この部屋は窓があるのに、光なんて全然届かない。視界に灰色の霧がかかったように暗い。
ここから出たい。
でも外にはあの人達がいる。
僕は部屋の隅で丸くなるしかできなかった。
あの人たちは、ボクの部屋の前を通るたびに鉄格子を叩いて、ひどい言葉を投げつけてくる。
ガンッ、ガンッ。
音がするたび、心臓を誰かに潰されるような感覚に襲われる。
どうして、みんなボクをいじめるんだろう。
ボクが何か悪いことをしてしまったのかもしれない。そう思って一生懸命思い出そうとすると、頭の奥がじんじんと痛くなる。
何も思い出せない。
脳の奥に小骨が刺さっているように気持ち悪い。
ボクは悪いことなんてしていないはずだ。
悪いことなんて怖くてできない。
だから、なんてわあの人たちが僕にいじわるするのか全然わからない。
きっとあの人達が悪者なんだ。
そう思って、あの人たちの機嫌が治まって嵐が過ぎ去るのを待つ。
しばらくすると、廊下の向こうから足音が聞こえてきた。
コツ、コツ、コツ。
時計が針を刻むような足音。
ボクは顔を上げた。
「……ごはんだよ」
「お父さん!」
ボクは声のする方に駆け寄って鉄格子にしがみついた。
鉄格子の向こうに、大好きな人が立っている。
紺色の服。きちんと整えられた髪。胸元には小さな金属の名札。
いつも同じ服で、同じ時間に来てくれる。
お父さんは、小さな箱を格子の隙間から差し入れた。
「今日は遅かったね」
「悪いな。少し忙しくてな」
「そっか」
箱の蓋を開ける。
白いごはんと、少しのおかず。味噌汁はない。
「今日のごはん、質素だね」
「……そうだな」
お父さんは、困ったように笑った。
「残さず食べなさい」
「うん!」
ボクは笑った。
お父さんは、いつもボクに優しい。
怖い人たちがたくさんいる。怒鳴る人も、鉄格子を叩く人もいる。
でも、お父さんだけは違う。
僕に話しかけてくれる。僕にご飯をくれる。怒鳴ったり鉄格子を叩いたりもしない。
頭を撫でてくれたりはしないけど、間違いなく僕のお父さんだ。
「ねえ、お父さん」
「……なんだ?」
「ボク、いつになったらここから出られるのかな?」
お父さんなのだから引きつったように息が漏れる。不思議に思って僕はお父さんの顔を見ると目が合う。お父さんの目は少しだけ潤んで揺れていた。暗いはずの部屋でお父さんの目が光ったように見えた。
お父さんは唇を少し舐めて、しばらく口を閉じていた後、言った。
「……どうして、そんなことを聞くんだ」
「だって、みんなボクを嫌いみたいだし。」
「そんなことはない」
「ほんと?」
「……少なくとも、私は……。いや、なんでも無い」
その声はコンクリートの壁に吸い込まれそうだった。
「いい子にしていなさい。」
「わかったよぅ」
お父さんが話してくれるだけで、さっきまでの震えはどこかへ消えてしまう。
きっとお父さんはボクをここから出してくれる。
だから、いい子にしていよう。
怒鳴られても泣かない。
ごはんも残さない。
暴れない。
お父さんを困らせない。
そうすれば、いつかきっと。
その日の夜、廊下から鍵の音が聞こえた。
カチャリ。
扉が閉まる音。
続いて、遠ざかっていく足音。
ボクは布団の中で目を閉じたけどなかなか眠れなかった。
昼間のお父さんの顔が、何度も頭に浮かぶ。
お父さんが泣きそうだったのは気のせいだったのだろうか。
考えようとすると、また頭に白い霧が広がるのを感じた。
その霧を晴らそうとしているうちにいつの間にか僕は眠ってしまった。
数日後のその日は、朝から廊下が騒がしかった。
何人もの足音が近づいてくる。重い靴の音。いつもよりずっと大勢いる。
ボクは布団から顔を出した。
やがて、格子の向こうにお父さんが現れた。
けれど、今日は一人じゃない。
お父さんの後ろには、何人もの大きな男の人たちが立っていた。
みんな、お面を張り付けたような顔をしていた。。
「お父さん?」
ボクは鉄格子の前まで駆け寄った。
「どうしたの?」
お父さんは答えなかった。
顔は青に近い白色で、目の下には、濃い影ができていた。漫画でみた「ガーン」ってショックを受けている人みたいな顔だった。
「ねえ、どこかお出かけ?」
「……ああ」
その声は酷く震えていた。
「ほんと?」
この部屋に来てから初めてのお出かけだ。
僕は急いで着替えようと服を脱ぎ始めた。
そのとき、男の人たちが格子を開けた。
「え……?」
両腕を掴まれる。
「痛い!」
僕は全力で暴れているのにびくともしない。
「お父さん!」
助けを求めて、お父さんを見る。
だけど、お父さんはどこか遠いところ見つめたままだ。
「お父さん、どこ行くの?」
答えてくれない。
ボクはそのまま、長い廊下を連れていかれた。
いつも見ている廊下なのに、自分の足で歩くのは初めてだった。
途中ですれ違った男の人が、こちらを見て呟いた。
「……あいつか」
別の男が答える。
「そうだ」
「本当に、あの男が?」
意味が分からない。
何の話をしているの?
やがて、重い扉の前で立ち止まった。
男の人が鍵を回し扉を開く。
中は窓のない小さな部屋だった。
中央の床には赤い印がある。その上には、四角い切れ目。
天井からは、太い縄が一本ぶら下がっていた。
僕は足を止めた。
「……お父さん?」
胸がざわざわする。
「これ、なあに?」
お父さんはもちろん、誰も答えない。
肩を押され、赤い印の上に立たされる。
首に、ひんやりとした縄がかけられる。その縄は僕の肩にズシリとのしかかり鉛のようだった。
「いや……」
逃げなきゃ!それ思うのに足は床に打ち付けられたように動かない、ら
「お父さん!」
ボクは必死にお父さんを見た。
「痛いよ……!」
首を動かすと、縄が肌を擦った。
どうして。
「ボク、何か悪いことしたの?」
お父さんは答えない。
「ごめんなさい!」
涙があふれた。
「ごめんなさい! いい子にするから!」
それでも、お父さんは目を合わせてくれない。
壁には三つのボタンが付いており、お父さんはその前に立つ。白い手袋はめた手がそのボタンにかかる。
「お父さん……?」
どうして助けてくれないの。
「お願い……」
お父さんの肩が、小さく震えた。
「ボク、ちゃんといい子にするから」
返事はない。
「ごはんも残さない。もう暴れないから。だから……ここから出して」
お父さんの右手が、ゆっくりと動いた。そしてゆっくりとボタンが押される。
「お父さ――」
ガタァン!
足元の床が消えた。
身体が落ち、首に強い衝撃が走った。
僕の声は届かない。最後にお父さんの顔が見たかった。
そんなことを考える間も無く僕の世界が暗くなった。
*
地下室に、重い沈黙が落ちた。
刑務官の佐藤は、押したボタンからゆっくりと手を離した。
白い手袋が、わずかに震えている。
「……執行、完了」
立会人の声が響いた。
佐藤は、すぐには目を開けられなかった。
数日前の声が蘇る。
『ボク、いつになったらここから出られるのかな?』
答えられなかった。
いや、答えてはいけなかった。
彼が「ここ」と呼んでいた場所は、彼の家でもなければ、保育施設でもではない。
彼が「いじめっ子」と呼んで恐れていた男たちは、同じ刑務所に収容された受刑者たちだった。
そして、「お父さん」と呼ばれていた自分は、彼の父親ではない。
ただの担当刑務官だった。
男の名前は、◼️◼️◼️◼️。
数年前、三人もの尊い命を奪い、世間を震撼させた連続殺人犯だった。
収監後、受刑者同士の暴行事件に巻き込まれ、頭部に重い損傷を負った。
一命は取り留めたものの、過去の記憶の大半を失った。
自分の名前も、罪も、かつて何をして生きていたのかも、彼には分からなくなっていた。
残ったのは幼子程度の知性。
目の前の相手と話し、食事を受け取り、日々を過ごすことはできた。
佐藤が食事を運ぶたび、◼️◼️は笑った。
「お父さん」
初めてそう呼ばれた時、佐藤は戸惑い、すぐさま訂正した。
「私は君のお父さんじゃない」
◼️◼️は不思議そうに首を傾げた。
そして翌日には、また同じように呼んだ。
何度訂正しても、◼️◼️は忘れてしまう。あるいはわざとだったのかもしれない。
いつしか佐藤は、訂正することをやめた。
お父さん。そう呼ばれるたびに血液の流れが止まるような感覚があった。
いつしか食事を運ぶ時間が近づくと、佐藤は時計を気にするようになっていた。
◼️◼️が待っている。
ただそれだけのことが、いつの間にか日々の習慣になっていた。
だが、過去の罪は消えない。
◼️◼️が殺した三人にも名前があった。帰りを待つ人がいた。明日を約束した相手がいた。
彼らが奪われた時間は、◼️◼️の記憶が失われたからといって戻ってくるわけではない。
佐藤は、目の前の床を見つめた。
その下で、かつて国中を恐怖させた男が静かに揺れている。
そこにいるのは、凶悪な殺人犯なのか。
それとも、何も知らない幼い子供なのか。
答えは出なかった。
最後まで、自分を信じていた。
「お父さん」と呼び続けた。
何も知らない少年のような顔で、助けを求めていた。
佐藤は目を伏せた。
「……すまない、◼️◼️」
佐藤は、手袋を外し力を込めて握りしめた。
国中から死を願われた男が1人死んだ。
お父さん。あの声が今でも聞こえる気がした。




