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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

湖畔で一年

掲載日:2026/10/06

古の政府との約束。100年更新、世襲の借地契約。そんな湖畔の別荘地がある。

第一章 必要な物を揃えた方が勝つ


 息子が、さくらへ転勤すると言った。

 自動車メーカーに勤めている息子の説明には、ときどき土地の名前が出てくる。俺には部署名より分かりやすかった。栃木のどの辺りなのか、筑西からどれくらいか、冬は寒いのか。そういうことを聞いてから、何をするところなのかと尋ねた。

「レースの開発」

 息子は短く答えた。

 大学院で情報や機械学習を勉強した息子は、就職してからも俺が想像するような自動車好きにはならなかった。車は好きなのだろうが、俺が若い頃に、速くするためなら何でもやったのとは違う。何をどう変えればよくなるか、その変化をどう確かめるかという話をする。

 今度の仕事では、それを競争の中でやるらしい。

 試験をする日が決まっている。部品を運ぶ日が決まっている。現場へ持ち込んでから都合の悪いことが分かっても、日程は待ってくれない。説明を聞いているうちに、俺にはその仕事が少し羨ましくなった。

 働きたいわけではない。締切も責任も、今でも嫌いである。ただ、やることと使えるものが決まった中で、問題を一つずつ解くのは面白い。

「戦いは、必要な物を揃えた方が勝つ」

 俺は言った。

 息子が、スマートフォンの向こうで黙った。

「速い車を作る話なんだけど」

「速い車も必要な物の一つだろう」

「そりゃそうだけど」

 横で聞いていた妻が、洗濯物を畳みながら笑った。

「お父さんは、揃える方が好きなのよ」

 その通りだった。

 俺は勝負に強い人間ではない。必要な物を数え、足りない物を調べ、使える状態で置いておくことが好きなのだ。勝負が始まってから足りないと気づくのは嫌だった。

 息子はそのとき四十を少し過ぎていた。俺たちは六十代の終わりに差しかかっていた。


 筑西で農業を始めて、もう二十年近くになる。

 五十歳で会社を辞め、妻の実家へ移った頃には、米作りに必要なものさえよく分かっていなかった。田植えの苗を運んだだけで、腰が痛くなった。六ヘクタールで取れる米の量に驚き、それを作るための機械の値段にも驚いた。

 その後、俺はずいぶん物を揃えた。

 屋敷の中の一ヘクタールで取れた米を、自分で乾燥させ、籾を摺り、低温で保管する。古い方から使い、新しい米を入れる。井戸と雨水とため池の役割を分け、電気は太陽光と蓄電池と発電機を組み合わせた。小さい道具は共通のバッテリーで動かし、大きい機械は軽油へ寄せた。

 外周には高いフェンスがある。門は重い。最初に妻へ図面を見せたときには、ずいぶん呆れられた。

 それでも、獣は入りにくくなり、農具も盗まれなくなった。妻は使えるものには文句を言わなかった。

 籠城計画も、二年から三年へ延びた。

 もちろん、そんなものを使う日は来ないと思っていた。ゾンビは、電気も物流も警察も働かなくなる条件を、一言で設定できる便利な仮想の敵だった。

 問題は敵より俺だった。


 七十歳になる少し前、門の滑車を交換した。

 部品は買ってあった。工具もある。どう直すかも分かっている。だから午前中で終わると思っていたのだが、外した門の重さを支える段取りに時間がかかった。

 昼過ぎに妻が弁当を持ってきた。

「まだやってたの」

「もう終わる」

 終わったのは三時だった。

 翌朝、腰を起こすのに時間がかかった。滑車は軽く回るようになったのに、俺の方が動かなかった。

 見回りも同じだった。雨の後に排水を確かめ、林の倒れかけた枝を見て、鶏小屋を回り、倉庫へ戻る。二十年前にはついでに済んだ作業が、今はそれだけで一日の予定になる。

 俺は籠城計画を開いた。

 米も塩も油もある。燃料もある。交換部品もある。そこに書かれた作業は、すべて俺がやることになっていた。

 病気をしなければ、三年間できると思っていた。病気をしなくても、できないことが増えるとは考えていなかった。

 妻も同い年である。俺ができないことを妻に渡しても、解決にならない。

「別の場所も用意しようと思う」

 夕食の後に言うと、妻は俺の腰を見た。

「この家、売るの?」

「売らない。ここで暮らすのは好きだ」

「じゃあ、どうして」

 広い敷地には、米も燃料も機械もある。近所の人はそれを知っている。いざというとき、助けを求める人も来るだろう。奪うつもりの人も来るかもしれない。

 門を閉じるだけでは済まない。夜に音がすれば見に行き、人がいれば話を聞き、何をするか決めなければならない。

 ゾンビ相手なら、フェンスが役立つかもしれない。食べ物を失った人間相手に、七十歳の夫婦が三年間見張りを続けるのは無理だった。

「ここで戦うのは、もうきつい」

 俺が言うと、妻はすぐには返事をしなかった。

 それから湯飲みを持ち直した。

「どこへ行くつもり?」

 その問いには、まだ答えがなかった。



第二章 湖畔の管理人


 中禅寺湖の話は、昔の仕事仲間から来た。

 会社を辞めて二十年近くたつと、仕事の相談はほとんど来なくなる。俺が農家になったことを知っている人は、田んぼの話をする。知らない人は、悠々自適ですねと言う。

 悠々自適ではあったが、夏は草が生える。好きにしていても、草は俺の予定を聞いてくれない。

 その人は、草の話を少し聞いた後で、古い別荘の管理をする気はないかと尋ねた。

 掃除をする管理人ではない。建物を直し、工事を手配し、土地と権利の問題を処理する人間が欲しいのだという。

 俺は昔、そういう仕事をしていた。

 土地の形はよいのに道が悪い。道はあるのに使える権利がない。排水はできるのに、流す先で話がつかない。持ち主が多すぎる。何を売ったのか、当人たちが分からなくなっている。そういう物件を、図面と書類と現地に分けて考えるのが得意だった。

 今回の土地も、普通には説明しにくいらしかった。


 湖畔の旧大使館別荘群に近い一画だった。

 一般に売りに出される別荘地ではない。古くから関係のある一族が、区画ごとの使用を承継してきたという。借地の契約は百年単位で更新され、誰でも代金を払えば入れる場所ではなかった。

 契約書より厚い説明があった。

 どの家がどの区画を使い、何を建ててよく、何を変えてはいけないか。工事の車をどう入れ、隣の区画にどこまで知らせるか。外へ話さないことも多かった。

 俺には、そういう家へ入れるほどの血統的な裏付けはない。

 紹介者が評価したのは、昔の仕事だった。面倒な条件を勝手に省略せず、できないことをできると言わず、関係者に必要な説明をする。そのうえで現場を動かせる人間が、今は見つかりにくいらしい。

 俺は持ち主にはならない。管理人として使用を認められ、決められた範囲で維持と補修を引き受ける。

 条件を書き出してみると、思ったほど曖昧ではなかった。曖昧な部分は、曖昧なまま残しておけばよい。問題を起こす前に、誰に聞くか決めておく。

 妻へ相談すると、一度見に行こうと言った。


 筑西を朝に出て、二時間ほどで着いた。

 建物は木々に囲まれていた。道路から見えるのは、屋根の一部と、古い門くらいだった。湖を望める場所はあるが、家の中が湖畔から丸見えになる造りではない。

 歴史のある場所へ来たという感じはした。しかし俺が先に見たのは、屋根の水が落ちる場所と、地面の傾きだった。

 妻は台所を見ていた。

 冷えた建物には、使われていない家の匂いがあった。水回りを直し、隙間を減らし、冬に使う部屋を絞れば住めそうだった。全部を暖める必要はない。

「観光するには、いいところね」

 妻は言った。

「うん」

 俺は床下へ入れる場所を探していた。

「あなた、今は別のこと考えてるでしょう」

 昔の仕事と同じで、家を見れば問題が見える。問題が見えると、直す順番を考えてしまう。

 俺は管理を引き受けた。

 春の農作業が済めば日光へ行き、田んぼの見回りが必要になる前に帰った。雨の後には水の流れを見て、夏には湿気を測った。冬にも泊まった。

 妻は古い収納を整理し、使える食器を洗った。俺は配管と配線を調べ、工事の記録を作った。

 知らない場所が、少しずつ知っている家になった。


 別荘の管理と疎開の準備は、初めは区別していた。

 屋根の補修は管理。飲み水の備えは防災。暖房の見直しは、冬も使うため。蓄電池は、停電で凍結対策が止まらないため。

 どれも必要だった。

 それを並べた後で、夫婦二人が三年間暮らす欄を作った。

 妻はその欄を見ても驚かなかった。

「ここなら、二人で済むの?」

「そのつもりだ」

「途中で十二人に増やさないでね」

 筑西の計画には、親族が来る場合も入れていた。ここへ人を集めれば、ここも同じ問題を抱える。

 俺は人数の欄に二と書いた。妻が見ているところで、もう一度確かめた。



第三章 二人で三年


 三年分の米は、夫婦二人ならそれほど多くない。

 六ヘクタールで米を作ってきた俺の感覚が、おかしくなっていたのかもしれない。収穫時に扱う量と比べると、生活に必要な量は小さい。保管場所も、最初から考えれば用意できた。

 だが、米だけでは三年暮らせない。

 油と塩と砂糖、豆、乾物、缶詰。食べる物の種類を増やすと、箱も増えた。洗剤、石鹸、衣類、寝具、紙。食べない物も場所を取る。

 表を作るのは俺の仕事だった。食べられる組み合わせを作るのは妻の仕事だった。

 俺が三年分のカロリーを揃えると、妻は最初の二週間の献立を作った。同じ缶詰が三回出たところで、俺の計画を見直すように言われた。

「種類はあるだろう」

「種類の数と、食べたい回数は別よ」

 安いから多く買った缶詰があった。普段食べないものを、有事なら食べるだろうと考えていた。

 妻はそれを夕食に出した。

 俺は次の日、数量を減らした。


 備蓄品は、しまい込むだけにはしなかった。

 日光に滞在するときに食べ、古い方を筑西へ運び、新しいものを入れる。荷物を置く向きと開ける側をそろえた。箱の文字が読めなくても、何があるか分かるようにした。

 妻は眼鏡を忘れることがある。俺も小さい字を読むのが面倒になっていた。

 交換用の部品も同じだった。必要な物を買ってあっても、必要になった日に見つからなければ意味がない。

 大掛かりな生産はしないことにした。

 小さな畑は作る。葉物や薬味があれば、食事が違う。しかし収穫が失敗しても、食料の予定は崩れない。鶏は持ち込まない。餌、世話、鳴き声、冬の管理を考えると、二人の暮らしには仕事が多すぎた。

 俺は自給を諦めたわけではなかった。三年間は、無理をしないことを優先した。


 電気には手間がかかった。

 屋根へパネルを並べる案は、早い段階で止められた。建物の外観を変えないことは、管理を引き受けたときの条件だった。

 木陰へ置けば、外から見えない。しかし発電もしない。日当たりのよい場所へ置けば、目につく。俺は図面を何度も描き直した。

 最後に、普段は納屋へ収納し、必要なときだけ展開することにした。

 パネルを分割し、手で持ち上げ続けなくても動かせる台へ載せる。置く場所と接続する場所を先に決め、ケーブルも揃える。発電量を最大にするより、二人で使えることを優先した。

 最初の試験は失敗した。

 俺が端を持ち、妻が反対側を持つ。数歩で妻が止まった。

「一回、下ろして」

 下ろす場所を考えていなかった。

 地面に直接置けず、俺が片側を支えたまま足を動かした。妻は黙っていたが、家へ戻ると湿布を探した。

「計画では何歳の私が持つことになってるの」

 七十歳と答えるには、実物の重さがありすぎた。

 台を作り直し、移動の経路を直した。設置より撤収が難しいことも分かった。雪が来る前に片づける判断と、雪が来てから片づける作業は違う。

 その次の冬も試した。


 暖房は、最初から必要なものとして計算した。

 寒ければ着ればいい、という考えは筑西では通る日もある。しかし、湖畔の別荘で七十歳の二人が三年暮らす予定に、それを使う気にはならなかった。

 普段使う部屋を小さくまとめ、窓を直し、配管が冷える場所を減らした。暖房と給湯に使う燃料を保管し、薪も乾いた状態で置いた。冬になってから木を切り、薪を作る予定にはしない。

 古い別荘全部を新築のようにすることはできなかった。それでも、暖めた空気がすぐ外へ逃げる場所を一つずつ減らすと、燃料の使い方が変わった。

 妻は一晩泊まり、朝に台所へ立ち、合格と言った。

 温度計より、その返事の方が信用できた。


 トイレと排水も、外の設備が止まる前提で見直した。水があるだけでは住めない。洗う水、流す水、飲む水を分け、点検できる場所を残した。

 常備品と処方された薬は、日常の管理を続ける。薬まで三年分何でも揃えられるわけではない。その不足は表に残した。

 準備は、全部を解決した気になるためのものではなかった。

 解決できないことを知っておくためにも必要だった。

 試しに冬の一週間、外から物を買わず、準備した設備だけで暮らした。最終日に妻が、帰りにパンを買おうと言った。

 パンは食べられる。粉も器具もある。だが、買えばすぐ食べられる。

 俺はパン屋へ寄った。三年分の準備をした後のパンは、うまかった。



第四章 十二月二十四日


 第一報を聞いたのは、朝だった。

 妻がテレビをつけ、俺は湯を沸かしていた。ニューヨークで、異常な傷害事件が起きているという。映像は短く、説明は長かった。

 人に噛みつく者がいる。銃撃されても止まらない。被害者が同じように人を襲う。発症者と呼ばれる人数は、すでに二百人を超えていた。

 俺は湯を注ぐ手を止めた。

 最初の事件が認識されてから、すでに一日ほど過ぎているという。都市と国境を閉じる話が出ていた。放送する人も、まだ何を説明しているのか分かっていないようだった。

「本当か、これ」

 妻が、俺を見た。

「あなたに聞こうと思ったのに」

 俺にも分からなかった。

 ゾンビが出るという条件で二十年考えてきた。しかし条件を置くことと、現実に起きたと認めることは別だった。薬物か、暴動か、何か映像の扱いを間違えたのか。そちらの方が信じやすい。

 もっとも、日光へ行く理由には、それで十分だった。

「向こうで正月にしようか」

「今日?」

「今日」

 何もなければ帰ってくればいい。予定を変える損はあるが、帰れなくなってから出発を考えるより小さい。

 妻はテレビをもう一度見た。

「冷蔵庫のもの、持っていくわ」

 俺は屋敷を留守にする手順を開いた。


 車へ積む物は、多くなかった。

 食料も衣類も工具も、別荘へ運んである。毎日使っている物と、最後まで筑西へ置いていた書類や薬を積めばよかった。

 残す冷蔵設備を確認し、止める回路を切った。水を抜く場所と残す場所を分け、倉庫を閉じた。鶏は年を取ってから飼うのをやめていた。連れていく生き物はいない。

 妻は冷蔵庫の中身を箱へ入れ、鍋を洗った。

「その鍋は、置いていけばいいだろう」

「汚れたまま置いていかないの」

 俺は台所を拭いた。

 帰ってこないつもりではない。だからこそ、次に使えるようにする。妻の段取りは、俺のものと違う形で正しかった。

 近隣には、日光で年末年始を過ごすと連絡した。詳しい場所は、以前から話していなかった。

 門を閉めて車へ戻ると、フェンスの向こうに倉庫の屋根が見えた。三年の籠城を考えて作ったものを、使わずに置いていく。

 無駄になったとは思わなかった。ここで二十年暮らす間に、十分使った。


 道は、まだ普通だった。

 年末の買い物をしている車があり、店の駐車場には人がいた。信号は動き、ラジオでは広告が流れた。次のニュースでニューヨークの話へ戻るたびに、俺の車の中だけが別の時間にいる気がした。

 妻は途中でパンを買いたいと言った。俺は寄った。混んでいたらやめるつもりだったが、店には数人しかいなかった。

 昼過ぎに別荘へ着いた。

 室内を暖め、水を確かめた。外へ出したパネルは、冬の午後には大して発電しない。それでも明日からの準備になる。二人で試したとおりに動かすと、前より時間がかかったが、腰を痛めずに済んだ。

 夕食には、筑西から持ってきた物を食べた。妻が買った小さなケーキもあった。

「今日、クリスマスイブなのよ」

 俺はカレンダーを見た。

 出発の日付は記録していたのに、そのことは忘れていた。


 息子から電話が来た。

 海外の関係者から、公式の報道より前に断片的な情報が入っていたという。負傷者の様子がおかしい。病院が混乱している。戻るはずの人が戻らない。普段の事故や事件としては、辻褄が合わない。

 研究所では、出入りを制限し、職員と家族を受け入れる準備を始めていた。生活用品と食料を集め、寝泊まりする場所を分ける。会社の判断で物流が動いているうちに手配をしたらしい。

「俺が決めたわけじゃないよ」

 息子は先に言った。

「みんな、止まると困るものを挙げ始めて。それを揃える方が先になった」

 水、トイレ、暖房、食事。試験設備があっても、生活できるとは限らない。俺も知っている話だった。

 外から来る人をすぐ中へ入れず、別の場所で様子を見ることも始めているという。何日待てばいいかは、まだ分からない。

「お前は、そこにいるのか」

「いる。家族もこっちへ入る。父さんたちは?」

「日光へ着いた」

「じゃあ、動かないで」

 息子は少し間を置いてから続けた。

「必要な物を揃えた方が勝つんだろ」

 俺は、あの電話を思い出した。

「そうだ」

 言葉だけなら、俺は二十年前から揃えていた。息子たちは、実際に大勢で動かしていた。

 電話を切ると、妻が息子の様子を聞いた。

「あいつは、大丈夫だ」

「分かるの?」

「レースをやってる連中だぞ」

 妻は黙った。それが理由になるのか、と考えたのだろう。

 戦う男は逞しい。俺はそう信じることにした。壊れたものを調べ、足りないものを集め、間に合わせる仕事をしている連中なら、いま必要なこともできるだろう。

 それ以上の根拠はなかった。根拠が揃うまで、息子を信用しないわけにもいかなかった。



第五章 まだ動いている社会


 翌日、日本でも発症が報じられた。

 空港や港を閉じる話と、国内で人を襲う事件の話が、同じ放送に入っていた。閉じるのが遅かったのか、閉じる前から入っていたのか。その区別は、俺にはつかなかった。

 三日目には、都市の移動制限が始まった。

 それでも、社会は動いていた。

 テレビは映り、携帯電話もつながる。スーパーの営業を知らせる画面が出て、運送会社は一部の配達が遅れると説明した。発症した人を見ていない地域では、気味の悪いニュースが続く年末という程度に受け取っている人もいた。

 俺も、窓から見る景色に異常を見つけられなかった。

 木があり、空があり、湖がある。遠くの道を車が通る。管理区画の中は、冬だからもともと人が少ない。

 管理を任せてくれた相手へ連絡すると、こちらに滞在しているなら、そのまま建物を見ていてほしいと言われた。今のところ、持ち主たちが来る予定はないという。

 俺は、水と暖房は使えると伝えた。話はそこで終わった。備蓄の量まで言う必要はなかった。


 筑西からも電話が来た。

 年末の挨拶と、変なことになったなという話だった。俺は日光にいると答えた。向こうではまだ店が開き、農協にも連絡がついていた。

 妻は兄へ電話した。

 八十歳に近くなった義兄は、会社の現場仕事から離れていたが、物の手配と人の居場所については詳しかった。家族で集まり、出入りを減らすと言った。俺が作った筑西の設備の使い方も知っている。

 必要なら屋敷を使っていいと伝えた。誰を入れるかは、向こうで判断してもらうほかなかった。

 義父母はもういない。妻は二人のことを少し話した後、電話を切った。

 日光に来たのは、俺たちの都合だった。ここから親族全員の安全を管理できるとは考えていなかった。


 五日目、政府の疎開先でも発症があったという報道が流れた。

 最初は所在を隠していた人々について、急に細かい説明が始まった。それから説明が減った。中央の指示を待つようにという放送と、自治体の判断に従うようにという放送が並んだ。

 俺はノートを一冊用意した。

 日付、時刻、放送局、何を言ったか。分かっていることと、まだ言い切っていないことを分けた。

 妻は俺の書いたものを見て、電話番号のページを足した。連絡が取れた相手と、取れなかった相手も書いた。

 人に噛みつく。噛まれた後で発症する。いつ発症するかは分からない。見ただけでは分からない。

 最初の数日は、同じ欄へ同じことを書いた。


 噛まれた人は、発症するまで普通に歩いていた。

 報道された例では、病院へ行った人も、家に帰った人もいた。歯形のある怪我を見せた後で、まだ自分は元気だと言っている映像もあった。

 避難した先で発症する。その家から、別の家へ逃げる。また普通に見える人がいる。

 距離を取ればよいという説明は、家族には難しかった。

 息子が怪我をして来たら、俺は二十日外で待てと言えるだろうか。その時点では、二十日という数字すら知らなかった。

 妻はニュースの途中で、画面を消した。

「お昼、何にする?」

 俺はその問いに少し救われた。分かることが一つあった。


 年が明けた。

 餅を焼き、雑煮を食べた。筑西で使っていた椀は持ってこなかったが、別荘の椀でも困らなかった。

 妻は正月用に買ってあった物を少しずつ出した。俺は冷蔵庫の電気を測った。十分な電気が来ている間にも、止まった後の使い方を決めておきたかった。

 新聞は来ない。テレビの番組表は、実際の放送と合わなくなっていた。

 十日目前後、沖縄が早い段階で空港と港を閉じたことが伝えられた。

 島を閉じる。人を入れない。物流も止まる。それをニューヨークの第一報で決めたのだという。

 批判もあったはずだ。まだ普通に見える旅行者を帰し、物資の入る道を自分で閉じる。俺が二人で日光へ来るのとは、判断の重さが違う。

 沖縄では、役所と通信と生活がまとまって残っているらしかった。

 妻が、早かったのねと言った。

 俺はノートへ書いた。

 必要な物を揃えるには、揃えられる時間も必要だった。



第六章 電気が消える


 一月の上旬、ニュースの量が急に増えた。

 新しい地域の名前が出る。病院、避難所、駅、家族の集まった家。発症したばかりの人は動きが速く、制止しようとした人を噛んだ。服装も顔も普通で、襲われるまで異常に気づかない例が続いた。

 発症してしばらくは、身体が覚えている動作をするらしかった。腕をつかまれると振りほどき、殴られると避ける。判断力を失っていても、すぐに動けない人形にはならない。

 後に放送される遅いゾンビの映像より、この時期の話の方が怖かった。

 俺は別荘の戸締まりを確認した。フェンスの強さを比べても仕方がない。ここでは、人に会わない方が先だった。


 電気は、一度に全部消えたわけではなかった。

 まず、遠くの地域で停電していると報じられた。復旧を進めているという話が続いたが、別の地域が止まった。発電所も送電設備も、何かが一つ止まれば終わるものではないのだろう。それでも、維持する人が来られなくなり、直す人も動けなくなると、使える部分が減っていった。

 別荘の電気が止まったのは、第一報から二週間ほどたった午後だった。

 台所の照明が消えた。

 俺は時刻を見て、電源を切り替えた。通信と照明、それから水に関係する設備を確認する。暖房は別の燃料で動かせる。冷蔵庫は使う台数を減らす。

 妻は洗濯機の中を見た。

「すすぎの途中」

 俺は、洗濯機を動かす時間を作った。

 命に関係する設備が先だと考えていた。しかし、濡れた洗濯物を放っておく理由もない。切り替えの手順には、途中で止まった仕事を確かめる項目を足した。

 外の電気は、その晩も戻らなかった。


 テレビよりラジオを使うようになった。

 都市では、停電が避難の理由になっていた。

 高い建物で水が出ない。店が閉じている。調理できない。寒い。食料が減る。道路が混んでいる。それぞれは単独でも困る話だったが、同じ家へ重なって起きていた。

 人々は、まだ食料と水がありそうな場所へ向かった。

 地方の実家、知人の家、学校、公共施設。入れてもらえなければ、また動く。道で襲われ、誰かに助けられ、次の場所へたどり着く。

 その人は、普通に礼を言うことができた。

 数日後に人を噛むかもしれない人が、重い荷物を運び、子供を抱き、炊き出しを手伝う。見た目と役に立つことでは、選別できなかった。

 避難先が安全でなくなると、そこから次の避難が始まった。

 噛まれなければ感染しない。それだけ聞けば、避けられそうな病気だった。避けるために人が集まり、集まった中で発症した人から逃げる。移動が次の発症場所を作っていた。


 息子とは、まだ連絡が取れた。

 研究所でも外の電気を当てにできなくなり、使う設備を減らしているという。レース用の機械が全部生活の役に立つわけではない。しかし、電気の必要量を調べ、回路と設備を扱える人間はいる。

 人を受け入れる側の区画は、生活する場所と分けていた。

 その区画で発症が起きたという。

 息子は細かく話さなかった。話せることを選んでいるのか、話す気になれないのか、俺には分からなかった。

「こっちは、今のところ持ってる」

 その言葉を、俺は妻へそのまま伝えた。

 自分の備蓄表へ、研究所の人数を足すことはできない。向こうへ行けば俺も食べる側になる。俺たちはここで暮らすほかなかった。


 夜、別荘の窓を覆った。

 室内の光は小さい。それでも暗い外からは見えるだろう。暖房の排気も、電源の音も完全には消せない。俺は、静かな設備と短時間だけ使う設備を分けていた。

 妻は食器を洗い、翌朝の分の水を置いた。

 いつもの手順でできることが残っている。それだけで、不安は少し小さくなる。

「電気があるって、便利だったのね」

 妻が言った。

 俺は蓄電池の残量を見た。

 明日、どれだけ使えるか知る必要のない生活を、二人とも長くしてきた。

 電気そのものはまだあった。その気楽さが、なくなっていた。



第七章 二十日間は待てない


 一月中旬、アメリカの疎開政府から、まとまった情報が届いた。

 俺はラジオの前へノートを置いた。妻も椅子を持ってきた。

 噛まれてから発症するまで、最短で一日、最長で二十日。その間に自覚できる症状はない。発症する割合は九割。残る一割は、二十日を過ぎても発症しない。

 短い時間に発症する人ばかりではなく、期間の途中にも終わり近くにも同じように例があるという。

 俺は二十日という数字に線を引いた。

 五日無事でも、十日無事でも、安心してよいとは言えなかった。

 次の説明は、もっと奇妙だった。

 噛まれた人は、ゾンビから再び襲われない。

 噛んだ個体が相手を覚えているという話ではない。別の個体も近づけば識別する。見た目では追ってくるが、一メートルほどまで近づくと攻撃をやめる。人には分からない反応が、噛まれた身体に生じるらしかった。

 発症しなかった人にも、その反応が残る。

 免疫保持者という言葉が、放送で使われた。


「その人なら、外へ行けるのね」

 妻が言った。

「ゾンビには襲われない」

 俺は答え、すぐノートを見直した。

 噛まれた翌日から無視されても、その人は九割の確率で発症する。掃討に使えるのは、二十日を終えた一割だった。

 情報を知れば、生き残る手順が作れる。しかし、その手順を試すために噛まれる気にはならなかった。

 九割は多すぎる。俺と妻が一緒に試して、一人でも発症すれば別荘の準備は終わる。

 俺は人数の欄を見た。二と書いてある。

 減らしてよい数字ではなかった。


 ゾンビの活動時間についても説明があった。

 発症直後の十時間ほどは、元の身体能力が残る。二十時間ほどたつと、移動は時速二キロ程度へ落ちる。その後はさまよい、発症からおよそ十日で動けなくなる。

 頭部を壊さなければ活動は止まらない。身体を撃っても止まらなかった事件の説明が、そこでついた。

 閉じ込め、新たな人を噛ませなければ、十日ほどで終わる。

 俺は少し安心し、それから潜伏期間の欄を見た。

 最後に噛まれた人が二十日後に発症し、そこから十日動く。最初の発症を閉じ込めても、同じ場所の別の人が後から発症すれば、数える日が変わる。

 十日待てばどこでも安全になるわけではなかった。

 アメリカは、各自が一年を目標に籠城を続けるよう求めた。俺は、三年分用意したことを初めて現実の余裕として感じた。


 人の姿と声に引かれるという説明もあった。

 マネキンには近づくが、近くまで来ると離れる。人間ではないと分かるらしい。一方、スピーカーの声には集まり続ける場合がある。

 声のあるところに人がいるはずだという動きだけが、残っているのだろうか。

 俺には仕組みは分からなかった。分かったのは、ラジオの音を外へ出さない方がよいということだった。

 音量を下げ、妻と二人で近くへ座った。

 外では、その性質を利用して誘導する試みが始まっているという。俺は真似をしない。遠ざけられるかもしれないが、集めてしまうかもしれない。ここにいることを知らせて試す必要はなかった。


 問題は、普通の疎開地で二十日待てるかだった。

 ラジオへ届いた話では、到着した人を別の建物へ置こうとする地域があった。しかし建物が足りない。暖房が足りない。食事を運ぶ人も足りない。

 親が来た。子供が来た。助けを求める知人が来た。寒い外へ置けず、中へ入れた。

 元気な人は荷物を運べる。炊事も手伝える。二十日間、食べるだけで待ってもらう余裕のない場所もあった。

 そこで後から発症する。

 知識が遅れた場所だけの話ではない。知っていても、そのとおりにはできなかった。

 俺たちは、日光へ着いてから誰にも近づいていない。最後にパン屋へ入った日から数えても、二十日を過ぎていた。

 無事でいる理由が、一つ増えた。

 しかし、外の人が安全になるわけではない。二人とも免疫はない。妻と俺が同じ家にいることだけが、今のところ確かだった。


 息子との通話は短くなった。

 研究所は、受け入れを始めた時期が早かったことと、待機する場所を分けたことが役立っているという。最大二十日と分かってから、終わりの日を数え直した人もいるらしかった。

 早く入って生活を始めた人と、後から来て待つ人とでは、使える場所が違う。その不満もある。息子の話には、技術の話より人の話が増えた。

「大勢いると、大変だな」

「二人でも、父さんが相手だと大変じゃないの」

 妻が聞こえるところで言うものだから、妻が笑った。

 その日の会話は、そこで少し普通になった。

 三十日目、アメリカは免疫保持者を中心に掃討部隊を編成すると発表した。活動は当面、国内に限るという。

 俺はノートへ書いた。期待していることと、予定に入れてよいことは違う。

 その後、息子への電話がつながらなくなった。

 最後の通話では、研究所は持ちこたえていた。俺たちは、その時点の情報を繰り返し読むことになった。



第八章 二月の食料探し


 二月になった。

 別荘の窓の外は、まだ冬だった。

 朝、妻が室内の温度を確かめる。俺は燃料と電気を見る。晴れた日は、昼のうちに洗濯をする。曇りが続けば、電気を使う仕事を後へ回す。

 暖房を止めて我慢することはしなかった。身体が冷えて動けなくなれば、生活の仕事もできない。使うために用意した燃料だった。

 妻は台所へ立つ前に、少し身体を動かすようになった。俺も付き合った。三年間暮らす計画には食べ物があったが、椅子へ座り続ける身体の扱いが抜けていた。

 屋内を歩く距離は短い。何度か往復すると妻とすれ違う。

「また来たの」

「歩いてるんだ」

「分かるわよ」

 目的のある見回りを減らしたら、目的のない往復をすることになった。


 ラジオでは、食料を求める放送が増えた。

 避難先へ持ち込んだ米がなくなった。店の倉庫を開けたが、人が増えて先に尽きた。燃料がなく、残っている食材を煮られない。

 最初は場所と人数が分かる話だった。だんだん、場所をはっきりさせない話も増えた。物資のある場所を放送すれば、受け取りに来る人だけでなく、奪いに来る人にも知らせることになる。

 疎開した集団は、安全なところで待つつもりだったのだろう。

 食料がなくなると、待てなくなる。

 誰かが外へ出る。商店、倉庫、留守宅を回る。帰ってくると、食料が増える。皆が助かる。その人が噛まれているかどうかを、すぐには確かめられない。

 噛まれたことを言えば、次の食事をもらえなくなるかもしれない。家族から離されるかもしれない。だから黙っている人もいるという。

 嘘をつかなくても、襲われた混乱の中で怪我の形が分からない人もいた。

 十日たっても普通に仕事をしていた人が、十五日目に発症する。

 集団はまた逃げる。食料を置いて逃げれば、さらに早く外へ出なければならない。

 ゾンビが十日で動かなくなるという情報を聞いてから、俺はいつか放送に出る数が急に減ると思っていた。

 減ってはいるらしい。しかし、終わらなかった。


 四十日目、沖縄の行政組織と在日米軍が、国内の掃討を始めたと発表した。

 日本側の部隊には、免疫のない人が多かった。引きつけ、閉じ込め、時間を待つ作業にも危険はある。事故の報道も入った。

 俺は、時速二キロという数字を見直した。

 すでに遅くなったゾンビだけがいるとは限らない。建物へ入れば、発症直後の人がいるかもしれない。傷のない人間と区別がつかない。知識があっても、現場を簡単にはできなかった。

 石油備蓄基地を確保する活動も始まった。白島、上五島、串木野、志布志。沖縄では南西石油の製油所が動いているという。

 地図を開いて場所を確かめた。

 燃料があることと、使えることは違う。船で運ぶ。処理する。分ける。届ける。その仕事をする人が生きていなければ、備蓄の数字だけでは何も動かない。

 俺の表には、燃料を使う人間が二人いる。向こうの計画には、国が入っている。

 大変な仕事だと思った。俺にはできない。


 六十日目頃、ゾンビの総数が急速に減っているという話が流れた。

 出入りを止めた地域では、最後の発症と、その後の活動が終わり始めていた。閉じ込めた場所へ、免疫保持者が入り、状態を確かめる活動も行われている。

 免疫保持者は、混乱の中から増えていた。

 噛まれた後も動き、食料を探し、さらに別の場所へ逃げた人の中に、発症せず残った人がいる。一人一人の周囲には、発症した九割がいたはずだった。

 俺は、一割という数字を軽く書けなくなった。

 その人たちが、安全な場所を確かめ、物を運ぶ仕事を始めているという。

 妻が、少しよくなってるのねと言った。

 俺もそう思った。だが、日光を出る日を決めるほどではなかった。


 米は十分にあった。

 俺は三か月たってから、初めて米の残りを実物で全部確かめた。普段は取り出した量を記録していた。帳簿どおりに残っている。

 妻は一緒に缶詰を数え、よく使うものだけ減り方が速いと言った。

 備蓄したときに直したはずの偏りが、また出ていた。好きな味は何度でも食べたいし、苦手な味は残したくなる。

「三年後、嫌いなものばっかり残るぞ」

「三年かけて好きになって」

 俺は一箱、台所へ運んだ。

 外へ食料を探しに出ずに済むのは、その程度の不満を受け入れるだけでよかった。


 三月には、略奪と襲撃の話が増えた。

 ゾンビを避けた村へ人が来る。入れないと揉める。人数の多い側が物を取る。交換を持ちかけた相手が、後で別の人間を連れて戻る。

 食べ物のある場所を守るために、見張りが必要になる。見張りを置くと、農作業へ出せる人が減る。

 俺が筑西を離れようと考えたとき、怖かったのはそういう世界だった。

 別荘に異変はなかった。見に来る人もいなかった。

 俺はその静けさを、守りの成功と呼ばないようにした。誰かが来れば、たちまち別の問題になる。たまたま、来ていない。それを長く続けたいだけだった。

 米を炊き、燃料を足し、電気を見る。俺たちは、外へ出なくてよい条件を使い続けた。



第九章 七月の収穫


 アメリカの臨時政府は安定したが、国外への支援は当面できないと発表した。

 在日米軍も帰還するという。

 妻は、掃討が終わったのかと聞いた。放送では、国内の活動を引き継ぐ話をしていた。全部が安全になったという意味ではないらしい。

 俺はノートへ書いた。三月下旬だった。

 冬の間、戻ればよいと思っていたものが、戻らないものだと分かり始めていた。電気も物流も、どこかで誰かが直せば以前のとおりになるわけではない。

 設備の部品を作る工場、運ぶ燃料、使える道路。工場で働く人の食事。その食事を作るための燃料。

 俺の備蓄表には、矢印の先に物がある。国の話では、その先にまた仕事があった。


 四月になっても、別荘では暖房を使った。

 筑西なら田んぼの水と畦の状態を見に行く頃だった。ここでは雪の残る場所を避けて、建物の周囲を少し歩く。

 妻が、土を入れた箱を窓辺へ置いた。

 外の畑をすぐ使うには寒かった。だから先に苗を育てる。俺は日当たりのよい場所を空け、鉢を置くために自分の工具を移した。

 箱の中に小さな芽が出た。

 食料の量としては数えられない。それでも妻は毎朝見た。俺も、電気の確認へ行く途中に見た。

 何かが減る記録ばかりだったノートへ、増えるものが入った。


 百二十日目頃、沖縄臨時政府は国内の治安維持活動を進めると発表した。

 略奪の集団を抑え、輸送路を確保し、地域の行政をつなぐ。免疫保持者による確認も続く。

 放送で使われる言葉が変わった。

 逃げる先より、届ける先の話が増えた。危険な場所の説明に、そこをいつ確かめるかという予定が添えられるようになった。

 俺は全部を信じたわけではない。しかし、予定が立つことそのものに安心した。

 息子からの連絡はまだなかった。妻は決めた時刻に電話を試し、つながらなければ記録した。俺も別の時刻に試した。

 電波が届かないことを、息子が生きていない理由へ変える根拠はない。そう考えても、不安は残る。残ったまま、夕食を作る。

 夫婦で暮らすのは、その繰り返しになっていた。


 五月下旬、九州の治安が回復したと伝えられた。

 生存者は三百万人。食料生産と、他の地域の治安回復へ人と燃料を投入するという。

 俺はその人数を書き、しばらく次の行へ進めなかった。

 人口が減れば、食べる人数も減る。食料の計算だけなら、足りやすくなるはずだと考えることはできた。

 農業をした俺には、それだけではないことが分かった。

 田を耕す人が減る。苗を作る人も、機械を直す人も減る。水路を管理する人がいなければ、水は欲しいところへ来ない。

 残った燃料を農業へ使う方針は、単にトラクターを動かす話ではなかった。農家を支える仕事まで動かさなければ、秋に米は取れない。

 その春、俺の田を誰が耕したかは分からなかった。

 義兄からの連絡も途絶えていた。屋敷に誰かがいるかどうかも確かめられない。

 俺は湖畔の小さな土を耕した。先に用意していた場所へ、妻が苗を植えた。

 筑西で失敗することの多かった葉物が、こちらでは思ったより育った。すべてがうまくいくわけではない。虫も来たし、寒い朝には傷んだものもあった。

 何株か残れば、二人には十分だった。


 食卓に緑が加わった。

 妻は葉を少し摘み、汁へ入れた。俺は、たいして味が変わらないはずだと思いながら、二杯目をよそった。

 塩も油も調味料もある。新しい葉が少し入ると、それらも違って感じる。

 この収穫を三年分のカロリーへ換算する気にはならなかった。

 暮らしに必要なものは、全部を同じ単位で数えられないらしい。

 夏になると、暖房の燃料が減らなくなった。昼に電気を使いやすくなり、洗濯の予定にも余裕が出た。妻は寝具を順に干した。

 俺は収納型パネルの留め具を直した。

 毎日見ていたため、少し動きが悪くなった段階で気づけた。交換品はある。だが全部を新品にせず、直せるものを直した。

 三年分の設備を揃えても、三年間放っておけるわけではなかった。


 七月頃から、農村部の食料自給が始まったという放送が増えた。

 地域によって、取れるものは違う。野菜、芋、麦。残っていた米と合わせ、以前のような食事ではなくても、自分たちのところで暮らしをつなげるようになった場所が出てきた。

 米の収穫を待つ前にも、食べられるものはある。

 それを作る人が春に畑へ出られたことが、結果になっていた。

 食料を探して外へ出る回数が減る。怪我をした人を焦って迎え入れず、待ってもらう余地もできる。食べ物は、感染を増やさないためにも必要だった。

 俺は二月の放送を思い出した。

 安全な場所は、食料が尽きれば安全でなくなる。今はその反対が起きていた。


 二百十日目頃、北海道まで主要都市と幹線の治安が回復したと発表された。

 生存者は、およそ二千万人。東京に臨時政府が置かれる。

 それでも、発電所の広い範囲での再開は難しく、原油の輸入の見込みもない。残る燃料は、引き続き農業と必要な輸送へ振り向ける。

 俺は筑西までの道を地図で見た。通れることと、自宅で暮らせることを別の欄にした。

 八月下旬、政府は食料の配給を全国的に整えると発表した。残る備蓄と、各地で取れ始めた物をつなぎ、秋の収穫まで持たせる。

 俺たちは配給を受けるためには出なかった。

 受け取らずに済む分は、別の人が食べればいい。そう思ったが、誰に渡るかを俺が決められるわけではない。俺たちは自分の食料を食べた。

 九月、稲刈りの話が聞こえるようになった。

 十月には、最低限の食料を国内で賄う見通しが示された。海外から資源が入る目途は立たない。日本再生計画という名前も放送に出た。

 妻が、帰る準備を始めてもいいかと聞いた。

 俺はうなずいた。

 出発したときには、揃えたものを順に使えばよかった。帰るには、ここで揃えていない情報が必要だった。



第十章 三年分の残り


 息子と連絡がついたのは、帰る準備を始めてしばらくたってからだった。

 俺が電話を手にしたとき、妻はすぐ横に立っていた。息子の声が聞こえると、電話を妻へ渡した。

 妻は無事なのかと尋ねた。息子が大丈夫だと答えた後も、食べているか、寒くないか、家族はどうしているかと聞いた。

 俺の前では、妻は長く泣かなかった。そのときは、声が続かなかった。

 息子は、こっちはやってると言った。

 その返事は、最後に話した日と同じだった。

 違うのは、今の声を聞けることだった。


 研究所の生活は、俺が思っていたより普通の仕事が多かった。

 便所を使えるようにする。食事を作る。居場所を分ける。水を運ぶ。子供が退屈しないようにする。故障した設備を直す。外から来た人が、決められた期間を待てるようにする。

 免疫保持者が確認された後には、その人たちが外の状態を確かめ、物資を運ぶ仕事を引き受けた。免疫のない人は、内側の仕事を受け持った。

 体力のある者に任せれば全部済むわけではなかった。予定を作る人、記録を残す人、誰が何を使ったか把握する人も必要だった。

「勝ったんだな」

 俺が言うと、息子は少し間を置いた。

「まだ終わってないよ」

 仕事は残っている。設備をいつ何のために動かすか、次に何を作るか。レースが以前のように戻る予定は、まだないという。

 息子は、失った人の話を少しした。外にいた人、戻れなかった人。初めのうちに起きたこと。俺は詳しく尋ねなかった。

 揃えれば必ず勝てる、と俺が言ったわけではない。しかし、勝ったという言葉を使うには、残らなかった人が多かった。

「よくやったな」

 言い直すと、息子はうんと答えた。

 それから、父さんたちは何をしていたのかと聞いた。

「暮らしてた」

 食べ、洗い、直し、ラジオを聞いた。それ以上のことはしていない。

 息子は、それでいいじゃないかと言った。


 筑西の状況も、少しずつ分かった。

 義兄と家族は生きていた。会社に残る人や近隣と物を分け、俺の屋敷の保管米と設備も使ったという。俺が日光へ来た日に伝えたことを、必要になってから思い出したらしい。

 連絡できなかったので勝手に使ったと、義兄は言った。

「そのためにあるんだから、いいですよ」

 俺は答えた。

 どれだけ使ったか、義兄は記録を残していた。数字を聞く前に、妻が家族の話を始めた。俺はノートを閉じた。

 田んぼは全部を使えたわけではない。作る面積を減らし、動かせる機械を集めて、取れた米を分けたらしい。秋の収穫まで持たせるために、屋敷の米が役立った。

 筑西での三年の籠城は、俺が考えた人数でも順番でもなかった。それでも、米は食べられ、井戸は使われ、設備は人が直していた。

 俺が守っていなくても、使えるものは使えた。

 帰ることを伝えると、義兄は、無理をするなと言った。道の状況を知る相手と、自宅の状態を見られる相手を教えてくれた。

 帰宅の計画が、やっと具体的になった。


 車を点検した。

 長く動かしていなかったので、そのまま出発するつもりはなかった。留守の間も必要な管理はしていたが、タイヤと電源と液類を確かめ、短い距離で動かした。

 帰るだけの燃料は用意してある。途中で買えることを前提にはしない。

 日光から筑西まで、通れる道と、通ってよい時間を確認した。以前の二時間を予定表へ入れるのはやめた。途中で待つことも、引き返すことも考えた。

 筑西の家は、屋根も窓も残っていた。水は使える。屋敷の電源も、動かせる範囲が分かった。帰ってすぐに生活する部屋を、義兄の家族が確かめてくれた。

 帰る条件を、一つずつ埋めた。


 別荘の物資を整理した。

 二年分以上が残っている。帳簿の上では、それは最初の計画との差だった。

 妻は箱を開け、湿気や傷みを確かめた。食べる時期を決めるものと、まだ置けるものを分けた。帰宅してから使う物を車へ積む。

 パネルは天候のよい日に二人で収納した。出した日の手順を逆にするだけでは済まなかった。一年間使った後の汚れと、留め具の癖がある。洗い、乾かし、次に出せるようにする。

 俺は管理記録を書いた。

 どこを直したか。何を使ったか。燃料はいくら残るか。外の電気が止まった後に、何を切り替えたか。

 管理を任せてくれた人とも連絡がついていた。帰宅と、建物を閉じる予定を伝えた。こちらから言う前に、無事でよかったと返ってきた。

 設備を守れたことより、先にそう言われた。


 出発は、十二月の中旬になった。

 最初の報道から、およそ三百六十日。前年のクリスマスイブに来て、次のクリスマスの少し前に帰る。

 妻は台所を掃除し、最後に使った鍋を洗った。

 俺はもう、鍋を置いていけばいいとは言わなかった。

 窓を閉じ、暖房を止め、水を抜く場所を確かめる。次に来る人が使えるようにする。次に来るのが俺たちかどうかは、まだ決めていなかった。

 門のところで、妻が家を振り返った。

「ちゃんと暮らせたわね」

「うん」

 三年暮らせるという計算を、一年だけ確かめた。残る二年を試さずに済んだことが、ありがたかった。


 道は、来た日とは違っていた。

 開いていない店があり、信号の止まった交差点がある。人の集まる場所には、手書きの案内が出ていた。動いている車は少なく、荷を運ぶ車が目についた。

 以前は気にしなかったものが、あるだけで安心できた。誘導する人がいる。橋を渡れる。次の道を教えてもらえる。

 俺は揃えた燃料で走った。しかし、その燃料だけでは帰れない。

 誰かが道を確かめ、危険を取り除き、通行の順番を作っている。車に積めないものを、外の人が揃えてくれていた。

 予定より時間をかけて、筑西へ着いた。


 屋敷の門は開いた。

 滑車は少し重くなっていた。去年直したところだったので、帰ったら油を差そうと思った。

 草が伸びていた。倉庫の周囲は刈ってあるが、林へ続くところは荒れている。冬の田んぼは静かで、使った区画と使わなかった区画が見分けられた。

 家へ入ると、知らない場所に来た感じはしなかった。

 義兄の家族が使った痕跡はあった。台所の置き方が少し変わり、食器が別の棚へ移っている。使われた家の匂いだった。

 妻は窓を開け、すぐ閉じた。

「寒いね」

 日光より暖かいと言っていたのに、家が冷えていれば寒い。俺は暖房を動かした。

 倉庫の米は、ずいぶん減っていた。残量の記録が置いてある。見れば計算できる。しかし、初めて見たときほど、減った数字が気にならなかった。

 その分、誰かが食べた。

 次の米を作るまで、つないだのだろう。


 居間へ戻ると、妻が茶を入れていた。

 俺は鞄からノートを出した。門の滑車、林の枝、倉庫の点検。来年の田んぼをどうするか。書くことはもうあった。

 妻が湯飲みを置いた。

「今日は、帰ってきただけでいいでしょう」

 俺はノートを閉じた。

 七十歳の夫婦が、二人で一年暮らして帰ってきた。最初の計画では、帰った日の仕事まで作っていなかった。そのくらいは、妻に任せてよかった。

 窓の向こうに、俺が作ったフェンスが見えた。

 あれは役立っただろうか。米と井戸と電源は役立った。別荘の暖房も、食料も、収納型のパネルも使った。

 役立たなかった物を、今すぐ数える気にはならなかった。

 息子へ送った言葉は、間違ってはいないと思う。ただ、必要な物が何なのか、俺一人では全部分からなかった。

 日光で暮らすための物は、二十年かけて揃えた。ここへ帰るためのものは、知らない人たちが一年かけて揃えてくれた。

 妻が、夕飯は何にするかと聞いた。

 俺は少し考えた。

 日光から持ってきた箱には、あまり好きではない缶詰がまだ入っている。

「まず、あれを食べよう」

 妻は笑って、湯飲みを持った。

「二年分あるのよ」

 俺も茶を飲んだ。

 それなら、急いで食べなくてもよかった。


了

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