「好きです!」と言えば終わるのに、二人とも意地っ張りです!
ベストレイル王国の王宮、その一角にある薔薇の回廊は、今や完全に戦場と化していた。
戦っているのは二人。
一人は、この国の第一王子であり、輝く金髪と冷徹なまでに整った容姿を持つレオポルド。もう一人は、漆黒の髪に勝気な翡翠の瞳を輝かせる、公爵令嬢フィルフィナ。
二人は生まれた時からの幼馴染であり、周囲からは「婚約者一歩手前」と目されながらも、あと一歩がどうしても踏み出せないでいる。
理由は単純。二人とも、天をも衝くほどの意地っ張りだからだ。
「いい加減に認めたらどうなんだ、フィルフィナ。君が昨日、隣国の使節団歓迎晩餐会で、あのチャラチャラした騎士と熱心に踊っていたのを見たぞ。僕という婚約者候補がいながら、他の男に見惚れるとは、公爵令嬢としての品格を疑うね」
レオポルドは腕を組み、不機嫌さを隠そうともせずに鼻で笑った。対するフィルフィナは、扇で口元を隠しながら、これ以上ないほど優雅に、そして挑発的に微笑み返す。
「あら、レオポルド殿下。お言葉ですが、あれは外交上の社交辞令に過ぎませんわ。それに『見惚れる』だなんてとんでもない。わたくしの目は、そんなに節穴ではありませんもの。それより殿下こそ、聖女様とずいぶんと親しげにお話しされていましたわね? 『君の髪は朝露に濡れた百合のようだ』なんて、よくもまあ恥ずかしげもなく囁けたものですわ。耳が腐るかと思いました」
「なっ……! あれは聖女の緊張をほぐすための、王族としての配慮だ! そもそも僕は百合より、もっとこう……自己主張の激しい赤い薔薇みたいな花の方が、その、好み、というか……っ」
レオポルドは言いながら、フィルフィナの真っ赤なドレスに視線を走らせ、ふいっと顔を背けた。耳の先端がほんのり赤い。
(あーあ、また始まったよ……)
二人の背後、柱の影で待機しているレオポルドの側近・キースと、フィルフィナの侍女・アリアは、同時に深い溜息をついた。この光景は、もはや日常茶飯事である。
「ねえアリア、数えてた?」
「ええ、キース様。本日これで三回目でございます」
二人の心中は一つ。
(「好きです」って一言言えば、今すぐこの不毛な言い合いは終わるのに!)
「とにかく!」と、レオポルドは咳払いをして話を戻した。
「君が僕に対して、何かしらの『特別な感情』を抱いているのは明白だ。認めろ。君は僕が他の女と話していて嫉妬したんだろう?」
「嫉妬? 殿下、それは素晴らしい冗談ですわね。わたくしが殿下に抱いているのは、幼馴染としての深い『義務感』と『憐れみ』だけですわ。むしろ殿下こそ、わたくしが他の殿方と一曲踊っただけで、そんなに顔を真っ赤にして怒るなんて……もしや、わたくしにこれっぽっちの、その……『特別な執着』でもあるのかしら?」
フィルフィナは一歩、レオポルドに歩み寄った。上目遣いで覗き込む翡翠の瞳。至近距離。レオポルドの心臓が、ドクンと大きく跳ねる。
だが、ここで「そうだ」と言ったら負けなのだ。何の勝負かは知らないが、とにかく負けなのである。
「は、果てしなく傲慢だな! 僕が君ごときに執着するわけがないだろう! 君が僕を好きだと言い出すのを、寛大な心で待ってやっているだけだ!」
「あら、それはこちらの台詞ですわ! 殿下がわたくしに平伏して愛を乞うなら、考えてあげなくもありませんのに!」
「なんだと!?」
「なんですの!?」
二人は、お互いの額がくっつきそうなほどの距離でにらみ合った。端から見れば、今すぐ口づけでも交わしそうな至近距離である。
美男美女の図としては最高に絵になるが、吐き出されている言葉の応酬は子供の喧嘩並みだった。
「だいたい、君は昔からそうだ。僕が贈った髪飾りだって、一度も着けてくれたことがないじゃないか。気に入らないなら捨てればいいだろう」
レオポルドは、ふくれっ面で子供のように愚痴る。フィルフィナは一瞬、ハッと目を見開いたが、すぐにふんっと顔をそらした。
「……あれは、あまりにも貴重な魔石が使われているから、傷つけないように大切に保管してあるだけですわ。引き出しの奥で、毎日磨いておりますもの」
「えっ……ま、毎日磨いてるの?」
「あ、いや、それは……! とにかく、殿下だってそうですわ! わたくしが誕生日に贈った手編みの手袋、一度も着けてくださいませんでしょう! 捨てたのね!?」
今度はフィルフィナが、少し潤んだ目でレオポルドを睨みつける。レオポルドは慌てて両手を振った。
「す、捨てるわけがないだろう! あれは君が僕のために、指を針で刺しながら編んでくれたものだぞ!? 使うのがもったいなくて、専用の額縁に入れて、僕の寝室の特等席に飾ってある!」
「が、額縁……!?」
フィルフィナの顔が、一気にボッと赤くなった。
「手袋を、額縁に……? 殿下、それはいくらなんでも、変態的というか、重いというか……」
「うるさい! 宝物なんだからどう飾ろうが僕の勝手だろ!」
そこまで言っておきながら、レオポルドはハッと我に返った。
(やってしまった! これでは僕が彼女を大好きだと白状しているようなものではないか!)
「い、いや! 誤解するなよフィルフィナ! あれは王族としての、公爵家からの献上品に対する、最高の敬意の表れであって、決して君への私情ではないからな!」
「……っ! わたくしも、殿下の髪飾りを磨いているのは、王家からの賜り物を完璧な状態で維持するという、公爵家の『義務』ですから! 勘違いしないでくださいまし!」
背後の壁際で、キースが天を仰いだ。
「おいアリア。今、両者ともに特大の自爆技を繰り出したよな?」
「ええ、キース様。なのにどうして着地が『義務』になるのか、私の凡庸な頭では理解できません」
そんな時、薔薇の回廊の向こうから、一人の青年が歩いてきた。レオポルドの友人であり、若くしてその地位に就いた騎士団長のシリルである。
彼は絵に描いたような優男で、女性の扱いにも慣れていた。
「おや、レオポルド殿下にフィルフィナ嬢。奇遇ですね、こんなところで激しい『愛の語らい』ですか?」
シリルはクスリと笑いながら、フィルフィナの前に進み出た。そして、自然な動作で彼女の手を取り、その甲に軽く唇を落とす。
「昨日ぶりの、美しいフィルフィナ嬢。昨晩のダンスは本当に素晴らしかった。もしよければ、今日もこの後、庭園を一緒に散歩でもいかがですか?」
その瞬間、回廊の気温が急降下した。レオポルドの目から、完全に光が消える。
「……シリル」
レオポルドは、地を這うような低い声で割り込んだ。そして、シリルの手をフィルフィナの手から容赦なく叩き落とす。
「我が国の公爵令嬢は、騎士団長と気安く散歩するほど暇ではない。それに、彼女の隣は……」
「彼女の隣は?」シリルが面白そうに目を細める。レオポルドは一瞬言葉に詰まった。
「……僕という、王太子の監視下に置かれるべきだからだ!」
「はいはい、監視ね」シリルは肩をすくめる。「でも、フィルフィナ嬢が僕と行きたいと言ったら、止める権利は君にはないよね? 婚約者でもないんだし」
シリルの正論が、レオポルドの胸に突き刺さる。レオポルドは拳を握りしめ、縋るような、それでいて威圧するような視線をフィルフィナに向けた。
(行くな! 行くと言ったら承知しない! 僕を選べ!)
彼の瞳が、そう雄弁に語っている。フィルフィナとて、レオポルドを困らせたいわけではなかった。
ただ、いつも余裕ぶっている彼の、必死な顔が見たかっただけなのだ。
(もう……本当に意地っ張りなんだから。でも……)
フィルフィナは、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
「シリル様、お誘いは大変光栄なのですが……あいにく、わたくしは先客がおりますの。この、少々不機嫌で行儀の悪い『監視役』を宥めなくてはなりませんので、本日は失礼いたしますわ」
そう言って、フィルフィナはレオポルドの腕に、そっと自分の手を絡めた。その瞬間、レオポルドの顔に、これ以上ないほどのドヤ顔が浮かんだ。
「……ということだ、シリル。僕たちの邪魔をしないでくれないか」
「あはは、お邪魔虫は退散するよ。いやあ、ごちそうさま」
シリルはひらひらと手を振りながら、満足そうに去っていった。彼は最初から、この二人の背中を押すために煽っただけだったのだ。
シリルが去り、再び二人きり──と、隠れた従者二人──になった回廊。フィルフィナは絡めていた腕をパッと離し、そっぽを向いた。
「勘違いしないでくださいね。いくら親友とはいえ、騎士団長ごときに我が国の王太子が言い負かされる姿など、見たくなかっただけですから」
「……分かっている。だが、その、面目を保たせてくれたことは褒めてやる」
レオポルドは腕を組み直し、「ふん!」と鼻を鳴らす。
「どこまでも上から目線ですのね。そんな態度では、一生お嫁さんをもらえませんわよ?」
「フン、僕の妻になる栄誉を手にするのは、世界でたった一人、僕が認めた女だけだ。……例えば、僕の好みの『赤い薔薇』のような、気が強くて、扱いづらくて、手袋を編むのが下手くそな女とかな」
「……っ!」
フィルフィナの耳まで真っ赤に染まる。
「手、手袋は下手くそじゃありませんわ! 気持ちを込めて、一生懸命……あっ!」
自分で「気持ちを込めて」と言ってしまい、フィルフィナは両手で口を塞いだ。レオポルドはニヤリと勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「ほう? 気持ちを込めて、ねえ? どんな気持ちかな?」
「うるさい、うるさい、うるさいですわ! 殿下なんか、大嫌いです!」
フィルフィナはついに耐えきれず、ドレスの裾を翻して走り去ってしまった。
「あ、おい! 待て、フィルフィナ!」
レオポルドもその後を追って走り出す。残されたキースとアリアは、深すぎる溜息をユニゾンさせた。
「キース様。あの二人が結婚するのって、来世紀くらいですかね?」
「いや、アリア。僕の予想では、明日あたりレオポルド様が限界を迎えて、拉致同然で教会に連れて行くと思うよ」
◇ ◇ ◇
その日の夜。王宮の自室に戻ったレオポルドは、ベッドに大の字になって寝転んでいた。
壁には、不格好に編まれた、しかし一針一針に愛が詰まった、ピンク色の手袋が立派な額縁に入って飾られている。
「……あいつ、僕の髪飾り、毎日磨いてるのか」
レオポルドは、手で顔を覆った。指の隙間から見える顔は、リンゴのように真っ赤だった。
「可愛すぎるだろうが、反則だ……」
一方、公爵邸の自室。フィルフィナは、ドレッサーの一番奥にある宝石箱から、一つの髪飾りを取り出していた。
最高級の魔石が埋め込まれた、美しい薔薇のデザイン。彼女はそれを、シルクの布で優しく、丁寧に磨いていた。
もう傷一つないほどピカピカなのに、毎日欠かさず──。
「……額縁に飾るなんて、本当に意味が分かりませんわ、あのヘタレ王子」
フィルフィナは髪飾りを胸に抱きしめ、ベッドに倒れ込んだ。
「でも、宝物って言ってくれた……」
枕に顔を埋め、足をバタバタと悶えさせる。
二人の想いは、完全に一致している。お互いに、相手のことが狂おしいほど大好きなのだ。
「好きです」と、どちらか一方がプライドを捨てて言えば、その瞬間にハッピーエンドを迎える恋。
なのに、翌日も、その次の日も──。
「昨日、また別の男と話していただろう!」
「殿下こそ、あの令嬢に鼻の下を伸ばしていらっしゃいましたわ!」
王宮の薔薇の回廊には、今日も二人の、甘酸っぱすぎる不毛な戦いの声が響き渡るのであった。
二人が結ばれるその日まで、あと、おそらく数日──いや、数時間かもしれない。
おしまい




