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白い婚姻の果て  作者: 秋月 もみじ


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第9話 法廷の朝


法廷の朝、私は濃紺のドレスを選んだ。喪服ではない。これは私の鎧だ。


裁判所の石壁は冷たく、天井が高い。声が反響する造りになっていて、証人の一言一言が傍聴席の隅まで届く。


傍聴席はほぼ満席だった。貴族、官僚、各国の大使。ヴィクトルもいるはずだが、探さなかった。今は集中しなければならない。


被告席にルドヴィクが座っていた。


囚人服。手枷。それでも背筋は伸びている。隣の被告席にはイレーネ。白百合の香水の代わりに、石鹸の匂いがした。


裁判官が開廷を告げた。


◇◇◇


検察側の陳述が始まった。国家反逆罪。敵国ザルヴァートへの軍事情報漏洩。証拠として密書の束が提出された。


そして、私が証人席に呼ばれた。


「セレナ・フォン・グラナート。いえ——セレナ・エルンスト」


旧姓で呼ばれた。婚姻無効の審理が進んでいる今、法廷では旧姓が使われる。


「証人に質問します。公爵夫人として三年間、外交業務を担当されていたとのことですが」


「はい」


「その実績は、公爵の名義で報告されていた」


「はい。すべて、夫の名義で」


ざわめきが起きた。


検察官が、私が持参した外交記録の原本を法廷に提出した。


三年分。条約文の草案、翻訳記録、交渉の議事録。その一枚一枚の末尾に、私の署名がある。セレナ・エルンストの名前。インクの色が年ごとに変わり、最初の年は筆圧が弱く、三年目は一切の迷いがない。


裁判官が原本をめくっていく。ページをめくる音だけが法廷に響いた。


カレリアの大使が傍聴席で頷いた。アマルフィの大使が腕を組み直した。彼らは知っている。この三年間、交渉の席で向かい合ってきたのが誰であるかを。


「これらの条約文はすべて——」


「私が起草し、翻訳し、交渉いたしました。三ヶ国の大使にご確認いただければ、証言が得られるかと存じます」


カレリアの大使が立ち上がった。「証言いたします。条約交渉の相手方は、常にセレナ・エルンスト殿でした。公爵が同席されたことは、一度もございません」


アマルフィの大使が続いた。「同じく。我が国の通商条約の全条文は、この方が起草されたものです」


傍聴席がどよめいた。三年間の「公爵の功績」が、全て、妻の手によるものだったと、今この瞬間に白日の下に晒された。


ルドヴィクの顔色が変わった。白くなった。初めて見る表情だった。


◇◇◇


義母エルヴィラが証人席に立った。


小さな背中が、法廷の中央で震えていた。けれど声は、震えていなかった。


「あの子は……息子は、一度もこの人の部屋を訪れなかった」


法廷が再び静まった。


「三年間。一度も。母として見ていました。嫁が朝から晩まで書斎で働いているのを知っていました。息子はその間、西棟で別の女性と過ごしていました」


義母の目から涙がこぼれた。それでも声は途切れない。


「息子の罪は、息子のものです。この人を、セレナさんを巻き込むことだけは、母として許しません」


この人は、息子を選ばなかった。嫁を選んだ。それがどれほどの覚悟か。母親でなくても、わかる。


◇◇◇


弁護側がイレーネを証人席に立たせた。


イレーネの目は赤く腫れていた。声がかすれている。


「すべて——すべて、私が唆しました。ルドヴィク様は何も知らなかった。私がザルヴァートの言いなりになって、あの方を——」


嘘だ。密書を読めば、ルドヴィクが自らの意志で情報を提供していたことは明白だった。けれどイレーネは嘘をついてでも、愛する男を庇おうとしている。


(歪んだ愛だ。でも、愛であることは、否定できない)


検察側が密書の時系列を示し、イレーネの証言を論破した。法廷はそれ以上の抗弁を認めなかった。


◇◇◇


ルドヴィクが、私を見た。


被告席から。手枷越しに。三年間で二度目の……いや、処刑台の朝を入れれば三度目か。


「公爵夫人——いや、セレナ。弁護を——」


「セレナ、とおっしゃいましたか」


声は震えなかった。


「三年間、私の名前すら呼ばなかった方が」


傍聴席の誰かが息を呑んだ。裁判官の手がペンを止めた。


ルドヴィクの唇が動いた。何か言おうとして、言葉が出なかった。


(あなたは結局、最後まで私の名前を呼べない人だった。いいえ。今、初めて呼んだのね。三年と少し、遅すぎたけれど)


裁判官が判決を読み上げた。


ルドヴィク・フォン・グラナート。国家反逆罪により、処刑。


イレーネ・ド・モンフォール。共犯として、修道院への終身幽閉。


処刑は、翌朝。


法廷を出た。廊下の窓から、冬の王都が見える。


(この季節、ノルデンでは銀木犀が咲く頃だ)


不意に浮かんだ思考を、振り払った。今はまだ。


◇◇◇


処刑の朝が来た。


第1話の、あの朝だ。


空気が冷たい。吐く息が白い。広場の石畳に霜が降りていた。


広場に集まった民衆。処刑台に立つルドヴィク。囚人服は薄く、冬の風に晒されている。それでも背筋は伸びている。最後まで。あの人の最後の虚栄だ。


傍聴席から見上げた。


ルドヴィクの目が、傍聴席を探した。私を見つけた。三年ぶりに、初めてのように。


ルドヴィクが口を開いた。


「お前がいなければ——こうはならなかった」


——そうだ。


私がいなければ、あなたの領地はもっと早く破綻していた。外交は崩壊し、歳入は半減し、王家の信頼を失っていた。私が支えていたから、あなたは三年間「英雄」でいられた。


私がいなければ、あなたはもっと早く捕まっていた。


口には出さなかった。代わりに、微笑んだ。唇の角度は三十度。感情を乗せない、外交の微笑み。


処刑が執行された。直接は見なかった。目を逸らさなかったが、見てはいなかった。広場の向こうの空を見ていた。冬の終わりの、薄い青。


傍聴席で、ヴィクトルの手が拳を握っているのが視界の端に映った。宰相の無表情の下で、白くなるほど強く。


けれど彼は手を差し出さなかった。今日はそういう日だ。終わらせる日であって、始める日ではない。


広場を出た。


空が青かった。冬の終わりの冷たい風が、濃紺のドレスの裾を揺らした。


石畳を歩く。足音が規則正しく響く。右、左、右、左。数えている。数えることで、頭の中を空にできる。


門を出たところで、足が止まった。


広場の隅に、小さな紫の花が一輪咲いていた。石畳の隙間から、誰にも踏まれずに。


春告草だ。雪解けに最初に咲く花。


(冬が、終わるのね)


数日後、私は荷物をまとめた。

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