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白い婚姻の果て  作者: 秋月 もみじ


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第8話 義母の涙


義母は、私が知る限り、この家で唯一私に優しかった人だ。——だからこそ、断るのが苦しかった。


ルドヴィクの逮捕から数日が経った。公爵邸は静まり返っている。中庭を横切る冷たい風の音だけが、やけに大きく響く。西棟は王室の兵に封鎖され、使用人たちは目を伏せて廊下を行き来している。白百合の香水の匂いは消えた。イレーネもまた、別の場所で拘束されていると聞いた。


裁判は来週だ。国家反逆罪の法廷。


私は証人として召喚されている。告発者として。夫の反逆を告発した張本人として。


その日の午後、義母エルヴィラが東棟を訪ねてきた。


いつもの胡桃パンはなかった。代わりに、赤く腫れた目と、震える唇を持ってきた。


「セレナさん」


その声はかすれていた。


居間に通した。暖炉の火が、ぱちぱちと鳴っている。薬草茶を二人分淹れた。ヴィクトルの茶葉だ。カモミールの甘い香りが、重い空気に漂う。


義母は茶杯を両手で包み、長いこと黙っていた。


「……お願いがあるの」


「はい」


「最後に——一度だけ、息子に会ってやってくれないか」


予想はしていた。けれど、実際に声で聞くと、喉の奥がきつく絞まった。


義母は茶杯を置いた。目の下の隈が深い。この数日、眠れていないのだろう。


「あの子はあなたに、ひどいことをした。母として知っている。止められなかった私も同罪よ」


「お義母様は同罪ではありません」


「でもね、セレナさん。あの子は小さい頃——本当に優しい子だったの」


義母の視線が暖炉の火に向いた。炎が揺れるたびに、皺の影が動く。


「先代の公爵——あの子の父親は厳しい人でね。剣術も勉強も、二番では許されなかった。あの子が軍人になったのも、父親に認められたくて、認められたくて、ずっと走り続けていたのよ」


(認められたくて。……その言葉に、少しだけ、胸が軋む)


「それでもね。結局、あの子は父親に一度も褒められなかった。そして——あなたという外交で自分より優秀な妻を与えられた」


義母の声が震えた。


「母として弁護するつもりはないわ。ただ、あの子が最後に妻の顔を見ることができたら。それだけで」


義母の声が途切れた。唇を噛んでいた。泣くまいとしている顔だ。


茶杯の中で、カモミールの花弁がゆっくり沈んでいく。


私は義母の手を取った。立たせるためではない。ただ、触れるために。乾いた手。胡桃パンをこねる手。三年間、月に二度、東棟に温かさを運んでくれた手だ。


「お義母様」


「……はい」


「感謝しています。この三年間、あなたの胡桃パンがなかったら——私はもっと早く壊れていたかもしれません」


義母の目から涙がこぼれた。


「でも、私にはもう、あの方に会う理由がありません」


手を離した。


義母は泣いていた。声を殺して、肩を震わせて。私は何も言えなかった。正しい判断だと思う。三年間裏切られた人間に、面会する義務はない。


でも——。


この人の涙は、本物だ。息子を失う母親の涙だ。


(会いに行けば、お義母様は救われる。会いに行かなければ、私が自分を守れる。どちらが正しい? どちらも正しくて、どちらも少しだけ、残酷だ)


義母は涙を拭い、立ち上がった。


「……ありがとう。あなたの気持ちは、わかっているつもりよ」


「お義母様」


「もう二度と——胡桃パンは焼けないかもしれないけれど。あなたが好きだと言ってくれたこと、忘れないわ」


背中が小さく見えた。廊下に消えていくその背中を、私は見送ることしかできなかった。


一人になった居間で、冷めた薬草茶を飲んだ。


義母が残した茶杯がテーブルの向かい側にある。半分だけ飲んで、置いていった。いつもなら最後の一口まで飲み干す人なのに。


(正しい判断をした。正しい判断をしたはずだ。なのに、喉がまだ絞まったままだ)


暖炉の火を見つめた。数日前、この暖炉でイレーネの手紙を燃やした。あの日の炎と、今日の炎は同じ色をしている。


窓の外では冬薔薇がまだ咲いている。白い花弁が、風に耐えて枝にしがみついている。


◇◇◇


翌日。裁判所への道で、案の定迷った。


(右に曲がれと——いえ、これは左。いや右。……なぜ噴水の前にいるの。この噴水、見覚えがある。数日前にも通った気がする)


途方に暮れていると、背後から声がかかった。


「公爵夫人。裁判所は反対方向です」


振り向くと、ヴィクトルの副官エーリッヒが立っていた。三十代の、背の高い男だ。眉間に皺を寄せているが、口元は笑っている。


「エーリッヒ殿。なぜここに?」


「閣下の命令です。『必ずお送りしろ。道を三回間違えるから、早めに出ろ』と」


三回。正確に予測されている。


(過保護な方。でも、嫌ではない、と思ってしまった自分が少し怖い)


裁判所までの道を、エーリッヒが先導してくれた。春の気配はまだないが、冬の風は少しだけ角が取れている。歩きながら、エーリッヒがぽつりと言った。


「閣下は最近、ノルデンの港町ハーフェンの住居を探しておいでです」


「住居?」


「宰相府の近くに、書斎のある一軒家を。窓が大きくて、日当たりが良くて、薬草園が付いている物件を、とかなり具体的な条件で。……独り言ですので、お気になさらず」


独り言にしては具体的すぎる。薬草園。薬草茶を飲む人間のための庭。


(……この人の上司は、本当に不器用だ)


裁判所の門が見えた。灰色の石壁。重い鉄の扉。ここで、全てが決まる。


◇◇◇


裁判所の控室で、外交記録の原本を最後に確認した。


三年分の条約文、翻訳、交渉記録。一枚一枚に私の署名がある。インクの色は時期によって微妙に異なる。初期の頃は震えた字だった。それが徐々に安定していき、二年目以降は一切の迷いがない。


この署名の変化そのものが、三年間の証拠だ。


翡翠のインク壺を鞄にしまった。母の形見。法廷には持ち込めないが、ここにあるだけでいい。


濃紺のハイネックドレスの襟元を正した。首元まで隠す。感情も、迷いも、このドレスの内側に閉じ込める。


マルタが控室の扉の前に立っていた。


「奥様。準備はよろしいですか」


「ええ」


「……奥様。三年間、見ておりました。全部、見ておりました」


マルタの目が赤かった。けれど泣いてはいなかった。私と同じだ。泣くのは、全部終わってからにする。


「ありがとう、マルタ」


扉を開けた。


法廷の朝が、来る。

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