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白い婚姻の果て  作者: 秋月 もみじ


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第7話 信任状


婚姻無効の申し立てに必要なものは三つ。証拠、証人、そして——覚悟だ。


覚悟は決まった。あとは手順を踏むだけだ。


最初に動いたのはヴィクトルだった。


ノルデン王国宰相の公印が押された信任状が届いたのは、私が方針転換の書簡を送った三日後のことだった。異例の速さだ。通常、他国への個人信任状の発行には最低でも二週間かかる。


「レーヴェンハルト夫人の前例に基づき、セレナ・エルンスト個人をノルデン王国の外交窓口として信任する」


レーヴェンハルト夫人。三十年前、ノルデンの前宰相の妻が政変で亡命した際に、三ヶ国が個人への信任状を発行した前例だ。所属する国や家が変わっても、外交官個人への信任は維持される。珍しい制度だが、法的に確立されている。


信任状に同封された手紙は短かった。


「エーリッヒが言っていた。『閣下があんなに早く決裁したのは初めてです』と。——余計な報告だが、事実だ」


自分の副官の発言を引用して、自分の行動の異常さを自白する宰相を、私は他に知らない。


(この人は、不器用にもほどがある)


◇◇◇


次に、王妃オルテンシアへの直談判を行った。


王宮の私室。紫水晶の耳飾りを揺らしながら、王妃は私の話を最後まで聞いた。外交記録の原本を一枚ずつ確認し、時系列を照合し、ルドヴィクの反逆が始まった時期と私がカレリアとの交易路交渉に没頭していた時期が完全に一致することを検証した。


「セレナ。あなたが共犯でないことは、この記録が証明している」


「はい」


「しかし、教会裁判所で婚姻無効を勝ち取るには——白い結婚の証明が必要ね」


「三つの証拠を用意しております」


一つ、侍女マルタの証言。三年間、夫が東棟の妻の部屋を一度も訪れなかったこと。


二つ、公爵邸の管理記録。東棟と西棟の鍵の使用履歴。夫の鍵が東棟の扉を開けた記録は——一度もない。


三つ。


「三つ目は——義母エルヴィラ様の証言です」


王妃の眉がわずかに動いた。


「義母に、息子の婚姻の無効を証言させるのね」


「はい」


「……それは、あなたにとっても辛い選択ではなくて?」


辛くないと言えば嘘になる。義母の手の温かさ。月に二度の訪問。「母として謝るわ」と俯いた横顔。


「辛いか辛くないかは、あまり重要ではありません、王妃殿下。重要なのは、正しいかどうかです」


王妃は数秒間、私を見つめた。それから、小さく頷いた。


「あなたの外交力は、この国の財産よ。それを証明する機会を、私が潰すつもりはないわ」


王妃が立ち上がり、窓辺に歩み寄った。冬の王都が眼下に広がっている。


「正直に言えば、グラナート公爵の功績の裏に誰がいるのか——私は以前から疑っていた」


「お気づきでしたか」


「外交文書の文体には、書き手の人格が出るものよ。あなたの文体は、一度読めば忘れない」


王妃の言葉に、鼻の奥がつんとした。三年間、誰にも認められなかったと思っていた。けれど、見ている人は見ていた。


◇◇◇


義母エルヴィラに会ったのは、王妃との面会の翌日だった。


離れの小さな居間。暖炉の火がぱちぱちと鳴っている。テーブルの上には焼き立ての胡桃パンと、二人分の薬草茶。


全てを話した。密書のこと。反逆のこと。婚姻無効のこと。


義母は、最後まで泣かなかった。


「……知っていたわ」


「え?」


「あの子が何か、取り返しのつかないことをしていると。母親の勘よ。詳しいことはわからなかったけれど」


義母の手が、茶杯を包んだ。指先が白くなるほど、強く。


「あの黒い封蝋の手紙を、マルタに託したのは私よ。あの子の部屋を掃除した時に見つけたの。あなたに知らせなければと思った。けれど自分では渡す勇気がなかった」


やはりそうだったのか。答え合わせが済んだ。


「お義母様。一つ、お願いがあります」


「教会裁判所で証言してほしいのでしょう。——息子が、一度も妻の部屋を訪れなかったと」


私が言う前に、義母が言った。


「証言します」


声は震えていたが、目は真っ直ぐだった。


「息子の罪は、息子のものよ。嫁を、あなたを巻き込むことだけは、母として許さない」


胡桃パンを一口ちぎった。いつもの味だった。ほんのり甘く、胡桃が香ばしく、焼き色が狐色で。


この味を、忘れないだろうと思った。


◇◇◇


カレリアとアマルフィの信任状も揃った。カレリアの大使は「公爵夫人、いえセレナ殿の不在がどれほどの損失か、先日の交渉で思い知りました」と添え書きをくれた。アマルフィの大使は一言、「当然の判断です」とだけ。


三ヶ国が足並みを揃えてセレナ個人に外交窓口を移す——その通達が、グラナート公爵邸に届いた。


ルドヴィクの外交ルートが、一夜にして消滅した。


公爵の執務室から怒声が聞こえた。壁越しに。三年間で初めて聞く、夫の取り乱した声だった。


教会裁判所の公聴会。夫側の弁護人が立ち上がり、「公爵夫人の外交上の功績は誇張されている」と主張した。


私は立ち上がった。濃紺のハイネックドレス。首元まで隠す。私の鎧だ。


「ご存じでしょう? この国の条約文、私以外にお読みになれる方は?」


法廷が静まった。弁護人が口を閉じた。


ヴィクトルの声が聞こえた気がした。「……合理的だ」と。顔は見えない。けれど、傍聴席のどこかにいる。


会が終わった後、廊下で一瞬だけすれ違った。


「宰相閣下。この信任状も……職務、ですか」


前にも同じことを聞いた。あの食堂で。あの時と同じ答えが返ってくるとわかっていて、それでも聞かずにはいられなかった。


ヴィクトルが立ち止まった。眼鏡の奥の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。


「……職務上の判断だ」


同じ言葉。同じ間。けれど今日は、声がわずかに低かった。


嘘だと知っている。知っていて、それ以上は聞かなかった。今はまだ、聞く時ではない。冬が終わるまでは。


その夜、王室の兵がグラナート公爵邸を包囲した。ルドヴィクの逮捕だ。


松明の光が中庭を照らしていた。兵士たちの鎧が金属音を立てる中、ルドヴィクが西棟から連れ出された。


赤い軍礼服の代わりに、鉄の枷がその手首に嵌められるのを——私は東棟の窓から見ていた。


ルドヴィクが一瞬だけ東棟を見上げた。鉄格子越しに目が合ったのか、合わなかったのか。月明かりではわからなかった。


マルタが隣に立っていた。何も言わなかった。ただ、窓辺に薬草茶を置いてくれた。湯気が鉄格子の冷たい影に溶けていく。

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