第6話 隠れ蓑
人は、怒りでは泣かない。悲しみでも泣かない。——自分が、いなかったことにされた時に泣く。
イレーネの挑発状には返事を出さなかった。返事を出す理由がない。脅迫に応じるつもりもない。
けれど、あの紫のインクの筆跡が脳裏にちらつく。「賢明なご判断を」。あの言葉の裏にあるのは自信か、焦りか。ザルヴァートに脅されている女が、なぜ私に脅迫状を送れるのか。
答えは一つだ。イレーネはルドヴィクを守ろうとしている。密書が表に出れば、ルドヴィクは処刑される。愛する男を守るために、被害者が加害者になる。
(歪んだ愛だ。けれど愛であることに変わりはないのでしょうね)
同情はしない。だが、理解はできる。
密書の束をもう一度精査する必要があった。
ルドヴィクからイレーネへの手紙。ザルヴァート語が混じっていない、純粋な二人の手紙だけを選り分ける。不貞の証拠として使えるものと、反逆の証拠として王室に渡すべきものを仕分けなければならない。
七通目。イレーネからルドヴィクへの手紙。
いつもの甘い言葉と思った。途中まで読んで、指が止まった。
「旦那様の奥方は便利な隠れ蓑ですわ。外交の実績を全てあなたの手柄にできるのですから。あの方がどれだけ働こうと、世間が覚えるのは公爵の名前だけ。奥方の名前など、誰も——」
そこから先が、読めなかった。
文字は見えている。インクの色も、筆跡の形も、認識できている。けれど意味が頭に入ってこない。
隠れ蓑。
三年間、私が書いた条約文。翻訳した外交書簡。徹夜で仕上げた交渉の下準備。その全てが「公爵の功績」として処理された。私の名前は、どこにも出ない。公爵夫人という肩書きの向こうに消えていく。
それは知っていた。知っていて、受け入れていた。政略結婚とはそういうものだと。
けれど「隠れ蓑」と。便利な隠れ蓑と
そう呼ばれていたことは、知らなかった。
手紙を暖炉に投げ入れた。
紙が炎に触れ、端から茶色に変わり、橙の光に呑まれていく。イレーネの紫のインクが黒く焦げ、白百合の香水の匂いが焼けた紙の臭いに変わった。
火を見つめていた。
涙が一筋、頬を伝った。拭わなかった。
三年間、一度も泣かなかった。結婚初夜も、愛人の存在を知った日も、功績を横取りされた日も。泣かなかった。泣く理由がないと思っていた。
けれど「隠れ蓑」は——「いなかったことにされた」は、違う。
「泣くのは、全部終わってからにする」
そう口にした。声は震えていなかった。震えていなかったのに、涙は止まらなかった。
(わたし、は……三年間、何のために)
一人称が崩れた。「わたくし」の殻が剥がれて、「わたし」が剥き出しになる。
暖炉の火が、手紙を灰に変えていく。証拠としては別の通で十分だ。この一通は燃やしていい。燃やさなければ、この言葉がいつまでもこの部屋に残る。
灰が崩れた。白い粉になって、暖炉の底に沈んでいく。
三年間の記憶が走った。朝の書斎。薬草茶の湯気。羊皮紙の束。翡翠のインク壺。外交書簡の一字一句に心を砕いた夜。眠れない夜。それでも朝が来れば机に向かった。
全ては「公爵の功績」として、この世界に記録されている。
セレナ・エルンストの名前は——どこにも、ない。
(いいえ。一箇所だけある。外交記録の原本に、私の署名がある。あれだけは、誰にも消せない)
どれくらいそうしていたのか。蝋燭が一本燃え尽きた頃、マルタが薬草茶を持ってきた。
「奥様——お顔が」
「何でもありませんわ」
嘘だとわかる声だった。マルタは何も言わず、茶杯を机に置いて出ていった。出ていく前に、私の肩に手を置いた。乾いた、皺の深い手。母の代からこの手に守られてきた。
一人になって、冷めた薬草茶を飲んだ。味がしなかった。
◇◇◇
翌朝。ヴィクトルからの書簡が届いた。
封を切る。銀木犀の香り。いつもの。いつもと同じ。
本文は潔白証明の進捗。ノルデン王国としての保証書簡の草案。形式的で、隙がなく、完璧な外交文書。
そして、追伸。
いつもは一行だ。長くても二行。三年間、一度も例外はなかった。
今日は五行あった。
「ノルデンの春は銀木犀が咲きます。気候は穏やかです。港の市場は魚が新鮮で、薬草茶に合う蜂蜜も手に入ります。宰相府には書斎が一部屋空いています。……お体にお気をつけて」
五行。
銀木犀。穏やかな気候。蜂蜜。書斎。
(これは……)
この人は、「こちらに来ませんか」と言いたいのだ。宰相の立場では言えないから、追伸の行数を増やすことでしか伝えられない。
涙が、また出た。
今度は昨夜とは違う涙だった。暖炉の前で流した涙は怒りと孤独だった。今、頬を伝っているのは——。
泣き止んだ。
追伸を読んで、泣き止んだ。
(待って。わたしは今、なぜ泣き止んだの)
ヴィクトルの文字を見たから。銀木犀の香りを嗅いだから。五行の追伸に、この人の声が聞こえたから。
(この方の書簡が届くと……いつも、少しだけ呼吸が楽になる。それは、いつからだ? いつから、わたしは、この人の——)
考えるのをやめた。
今はそれどころではない。蓋をする。感情に蓋をして、論理の殻に戻る。
「わたくし」に戻る。
書簡を机に置いた。翡翠のインク壺を引き寄せた。返信を書く。
方針転換の宣言。
もう密かに去るつもりはない。正面から、公式に、婚姻無効を申し立てる。ルドヴィクの反逆を王家に告発する。そのために、三ヶ国の信任状を取りつける。自分の潔白を、自分の手で証明する。
やるべきことを書き出した。一つ、ヴィクトルにノルデンの信任状を正式に依頼する。二つ、カレリアとアマルフィの大使に書簡を送る。三つ、王妃オルテンシアに直談判の機会を求める。四つ、白い結婚の証拠を三重に揃える。マルタの証言、東棟と西棟の別居記録、そして義母エルヴィラの証言。
義母。あの人に証言を頼めば、息子を断罪する側に立たせることになる。
胡桃パンの香りを思い出した。焼き立ての、ほんのり甘い生地。月に二度、東棟を訪ねてくれた義母の手の温かさ。
(お義母様には……後で、直接お話ししなければ)
追伸を添えた。
「ノルデンの春は——いつか、見てみたいと思います。まずは、こちらの冬を終わらせなければなりませんが」
ペンを置いた。
指が震えていた。でも今度は、恐怖ではなかった。




