第5話 黒い封蝋の真実
計画は完璧だった。——完璧すぎて、現実が追いつかなかった。
ヴィクトルにザルヴァート語の翻訳を依頼した返書が届いたのは、三日後の朝だった。いつもの銀の封蝋。いつもの銀木犀の香り。けれど封を切ると、空気が違った。
追伸がなかった。
三年間、一度も欠かさなかった追伸がない。代わりに、本文の最後にこう書かれていた。
「翻訳を同封する。内容について、早急に面会が必要だ。くれぐれも、一人で判断しないでほしい」
翻訳の羊皮紙を広げた。ヴィクトルの几帳面な文字が、ザルヴァート語の意味を一行ずつ明かしていく。
グラナート領の駐屯兵力。北東国境の防衛拠点の配置図。哨戒の交代時間。
軍事情報だ。
密書はただの不貞の証拠ではなかった。ルドヴィクとイレーネは敵国ザルヴァートに、この国の軍事機密を流していた。
翡翠のインク壺がかすかに震えた。いや、震えていたのは私の手だ。
三年間。この屋敷で書簡を書き、条約を結び、外交を回し続けた三年間。その間、同じ屋根の下で夫は敵国に情報を売っていた。
私が友好国との関係を守り、条約を結び、交易路を開いている間に、夫はその裏側で国を売っていた。
(不貞ではなく、反逆。これは国家反逆罪だ。そして私は三年間、反逆者の妻だった)
窓の外を見た。冬の庭。冬薔薇が一輪だけ咲いている。白い花弁が風に揺れていた。
密書の束をもう一度見た。一通目に戻る。ルドヴィクの最初の返書。
「ザルヴァートの将軍が、私の戦術論に興味を持っている。学術交流として、少しだけ意見交換をしてもよいだろうか」
学術交流。たった六文字だ。
最初はそうだったのだ。小さな一歩。軍人としての虚栄心をくすぐられ、「少しだけ」のつもりだった。そして二通目で具体的な情報を求められ、三通目で断れなくなり、四通目ではもう後戻りできない深さに沈んでいた。
(あの人らしい。一歩目を軽く踏み出して、気づいた時には足元が崩れている)
イレーネの筆跡が回を追って崩れていた理由も、これで説明がつく。彼女は脅されていたのだ。母方の実家がザルヴァートに借金を抱えていると、以前マルタが社交界の噂として拾ってきたことがある。あの時は気にも留めなかったが——今なら繋がる。
ザルヴァートがイレーネの借金を盾に、ルドヴィクへの接近を命じた。イレーネは従い、ルドヴィクに近づき——そして本当に恋をした。愛と脅迫の板挟みの中、筆圧が強くなり、紙を破りかけた。
(この女は……被害者でもあるのか)
◇◇◇
ヴィクトルとの緊急の面会。場所は前回と同じ食堂。今日もスープが運ばれてきたが、味がわからなかった。隣のテーブルで笑い声がする。この街の人々は今日も普通に暮らしている。自分だけが違う場所にいるような気がした。
「状況を整理する」
ヴィクトルの声はいつもより低い。追伸を省略した書簡と同じ温度だ。眼鏡の奥の目が、いつもの冷静さの下に別の感情を押し込めているように見えた。
「あなたが持っている密書は、不貞の証拠であると同時に、国家反逆の証拠だ。このまま婚姻無効の証拠として教会裁判所に提出すれば——」
「王室の捜査対象になりますわね」
「そうだ。そして、あなたが三年間夫の傍にいたことが——」
「共犯の疑いを呼ぶ」
言葉を引き取った。ヴィクトルが一瞬、目を見開いた。
「……先に言われた」
「外交官ですもの。相手の結論は先に読みます」
軽口のつもりだった。けれど声が、ほんの少しだけ震えていたかもしれない。ヴィクトルはそれに気づいたのか気づかなかったのか、黙ってスープの皿を脇にどけた。テーブルの上に余白を作る。まるで、これから本気の交渉をする時のように。
「知っていて黙認した、と見なされる可能性がある」
静かな離脱は不可能になった。密かに証拠を提出し、密かに婚姻を無効にし、密かにこの家を出る——その計画が、根底から崩れた。
「宰相閣下」
「ヴィクトルでいい。……いや、今は形式が必要か。閣下で構わない」
(今、名前で呼ぼうとした?)
「閣下。私は、どうすれば」
「あなたの潔白を証明する書簡を、今夜中に書く。ノルデン王国として、あなたが反逆に関与していないことを保証する」
迷いがなかった。一秒の躊躇もなく、ヴィクトルは言い切った。
「……それは、職務上の判断ですか」
問いかけは口をついて出た。なぜそんなことを聞いたのか、自分でもわからない。
ヴィクトルが一瞬だけ沈黙した。指先でスプーンの柄を回す。それは「考えている」時の癖だ。
「……職務上の判断だ」
嘘だ——と思った。根拠はない。ただ、三年分の書簡を読んできた人間の勘が、そう告げていた。
でも今は、その嘘にすがるしかない。
◇◇◇
公爵邸に戻ると、マルタが青い顔で待っていた。
「奥様。王室の密偵がグラナート領に入ったという噂です。旦那様のお客様を——」
「密偵?」
「はい。旦那様と頻繁に会っていた外国の方を、調べているそうで——」
ザルヴァートの密使のことだろう。王室はすでに動き始めている。
東棟の書斎に戻り、扉を閉めた。鍵をかけた。蝋燭に火を灯し、密書の束を引き出しから取り出して、翡翠のインク壺の隣に並べた。
(考えろ。考えるのだ、セレナ。感情は後でいい。今は手順を考えろ)
手順。まず、ヴィクトルの保証書簡を待つ。次に、自分の潔白を証明する材料を揃える。三年間の外交記録。全てに私の署名がある。ルドヴィクが反逆を始めた時期と、私が別件の外交に集中していた時期が一致することを示せれば。
蝋燭の芯がぱちりと鳴った。影が壁で揺れる。
翡翠のインク壺に触れた。冷たい。でもこの冷たさが、今は必要だった。
(お母様。あなたの娘は今、反逆者の妻です。……でも、まだ諦めていません。まだ、ペンを置いていません)
翌朝。机の上に、もう一通。
ヴィクトルからではなかった。イレーネ・ド・モンフォールの筆跡。紫のインク。白百合の香水が紙に染みている。
「公爵夫人様へ。あなたが何をお持ちか、私は知っています。——賢明なご判断をなさることを、お勧めいたします」
脅迫だ。
薬草茶の杯を手に取った。冷めていた。ヴィクトルの茶葉で淹れた一杯が、今朝は温かさを失っていた。
窓の外で、冬薔薇が風に揺れている。白い花弁が一枚、はらりと落ちた。




