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白い婚姻の果て  作者: 秋月 もみじ


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第4話 北方の狐


ノルデンの宰相は「北方の狐」と呼ばれている。狐は確かに賢い。ただし、贈り物のセンスは別の話だ。


密書の解読を続けていた。三通目、四通目。イレーネとルドヴィクの手紙は甘さを増していく一方で、私の目が追っていたのは別のものだった。手紙の端に、ときおり混じる第三者の筆跡。イレーネの文字でもルドヴィクの文字でもない、角張った、どこか異国の書き慣れを感じさせる字。


まだ読めない。だが、気になった。


夜更けの書斎で、蝋燭の火を頼りに密書を並べた。一通目から四通目まで、時系列順に。イレーネの文字は回を追うごとに崩れていく。最初の手紙は丁寧な書体だったのに、三通目あたりから筆圧が強くなり、四通目では紙を破りかけた跡がある。


焦りか、あるいは恐怖。


ルドヴィクの返書は逆だった。一通目は迷いがあるが、四通目には迷いが消えている。覚悟を決めた男の筆跡だ。


(何の覚悟を決めたのかしら。愛人との関係か。それとも、もっと深い何かか)


翡翠のインク壺の隣に、ヴィクトルからの書簡が積んである。こちらの筆跡は三年間、一度もぶれていない。


◇◇◇


ヴィクトルとの二度目の会合は、王都の外れの小さな食堂で行われた。


「外交の打ち合わせです」とヴィクトルは言った。副官のエーリッヒは「閣下がご自分で食堂を選ばれたのは初めてです」と余計な報告をした。


食堂は港に近く、潮の匂いが混じる路地の奥にあった。看板もない。木の扉を押すと、焼きたてのパンと煮込み料理の匂いが押し寄せてきた。


「ここは?」


「以前、視察の折に見つけた。スープが良い」


カウンターしかない狭い店で、ヴィクトルは慣れた様子で席についた。宰相が一人で来るような場所ではない。けれど白いリネンのシャツの質素な姿は、この店に不思議と馴染んでいた。


黒麦パンのスープが二つ、運ばれてきた。


塩漬け豚と根菜を煮込んだスープに、黒麦パンが浸してある。表面に浮いた脂の粒が湯気に揺れ、スプーンを入れるとパンがほろりと崩れた。


一口含む。


塩加減が、絶妙だった。豚の旨味を邪魔せず、根菜の甘みを引き立てるぎりぎりの塩梅。パンに染み込んだスープの味が、噛むほどに口の中に広がる。公爵邸の厨房より素朴だが、この一杯には作り手の意志がある。


「……美味しい」


思わず声に出ていた。


「そうか」


ヴィクトルがスプーンを止めた。ほんの一瞬、目が細くなった。


(今——笑った? いえ、笑ったというほどではない。けれど、書簡の追伸と同じ温度が、一瞬だけ顔に出た)


「この塩加減は技術ですわ。根菜を先に炒めてから煮込んでいる。だから甘みが——」


「公爵夫人は料理にお詳しい」


「食べる方が専門ですけれど。以前、カレリアの宮廷料理長と条約交渉の合間に塩の話で盛り上がりまして——あ、いえ、今は外交の話でしたわね」


自分でも驚くほど口が滑った。食事の話になると止まらない悪い癖だ。


ヴィクトルは黙って聞いていた。片手でスプーンを回しながら、もう片方の手で顎を支えている。その姿勢は書類を読む時のものだと、なぜか知っていた。書簡に「熟考中は顎に手を当てる癖がある」と、エーリッヒが以前漏らしていたからだ。


「……費用対効果に優れた選択だったということだな」


「は?」


「いや——この店を選んだ判断が正しかったと、そういう意味だ」


外交用語で食堂の感想を述べる宰相は、おそらく世界でこの人だけだろう。


◇◇◇


食事を終え、本題に入った。密書の解読状況。黒い封蝋の手紙の束。ヴィクトルは一通一通を丁寧に確認し、筆跡の変化にもすぐに気づいた。


「イレーネという女性の文字が、回を追って崩れている」


「ええ。私もそう見ました」


「追い詰められている人間の筆跡だ」


その観察力に、少しだけ安堵する。この人は見落とさない。


そこで、ヴィクトルが卓上に小さな包みを置いた。


「これを。体力をつけなさい」


開けると、林檎の蒸し菓子だった。砂糖がたっぷりまぶされ、甘い香りが立ちのぼる。


「……ありがとうございます」


一口。


甘い。とても甘い。舌の上で砂糖が溶け、林檎の酸味を完全に殺している。


(甘い。甘すぎる。私は甘いものが苦手なのですけれど)


けれど、差し出してくれた手前、残すわけにはいかない。半分まで食べて、残りはマルタへの土産にした。


翌週。


書簡と一緒に、小さな木箱が届いた。ヴィクトルからだ。


中には薬草茶の茶葉が入っていた。カモミールとミント。私がいつも飲んでいるものと同じ配合。


手紙が添えてあった。


「先日の菓子は口に合わなかったようだ。代わりにこちらを。——二年前の追伸に、この茶葉を愛用していると書いてあった」


指が止まった。


二年前。二年前の追伸。確かに書いた覚えがある。「本日は薬草茶が美味しい季節です」と——たった一行。何百通もの書簡のうちの、一行にすぎない。


(二年前の一行を、覚えているのですか。この方は。……それは「優秀」で片づけていい範囲なのかしら)


茶葉の封を開けた。カモミールの甘い香りが鼻に届いた瞬間、胸の奥がほんの少しだけ温かくなった。菓子は間違えたのに、茶葉は間違えない。この人は甘さの加減は知らないが、苦みの加減は正確だ。


それが何の温かさなのか、この時の私にはまだわからなかった。


ただ一つだけ確かなことがある。三年間、夫は私の好物を一度も訊ねなかった。この宰相は、訊ねもせずに知っていた。


◇◇◇


その夜、密書の束をもう一度広げた。


五通目。イレーネからルドヴィクへの手紙の末尾に、あの第三者の筆跡があった。今度は数行にわたっている。


ザルヴァート語だった。


敵国の文字が、夫の愛人の手紙に混じっている。


蝋燭の光がちらつく。羊皮紙の上のザルヴァート語は、私には読めない。読めないが、この文字がここにある意味は理解できる。


イレーネは、ただの愛人ではない。


指先が冷たくなった。薬草茶の杯に手を伸ばす。ヴィクトルが送ってくれた茶葉で淹れた一杯。カモミールの湯気が立ちのぼり、冷えた指を杯越しに温めた。


(……落ち着け。まだ結論を出すには早い。この文字が何を意味するのか——ヴィクトル閣下に翻訳を依頼するしかない)


翡翠のインク壺を引き寄せ、ヴィクトル宛の書簡を書き始めた。いつもより少しだけ丁寧に、インクを含ませた。


——自分でも気づかないうちに。

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