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白い婚姻の果て  作者: 秋月 もみじ


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第3話 通訳不在


通訳がいない外交交渉は、調味料のない料理に似ている。食べられはする。ただ、誰も美味しいとは言わない。


黒い封蝋の手紙は、二通目も解読した。ルドヴィクからイレーネへの返書。「君だけが俺を理解してくれる」「妻は優秀だが、それだけだ」。


それだけ。——ああ、そう。それだけ、ですか。


密書の束を引き出しに戻し、鍵をかけた。ルドヴィクの「それだけ」という言葉が、妙に耳の奥に残る。


ご存じでしょう? その「それだけ」で三ヶ国との条約が維持されているのだということを。ご存じないのでしょうね。だからそう書ける。


さて。動くべき時が来た。


◇◇◇


翌週、カレリア公国から外交使節団が到着した。


本来ならば、通訳と実務交渉は私が担う。だが今回、私は公爵に「体調不良」を申し出た。


「通訳なしで?」


ルドヴィクが眉を上げた。三年間で初めて、私の不在を気にした顔だった。


「カレリアの大使はグランディア語がお上手ですわ。きっと大丈夫です」


嘘だ。カレリアの大使はグランディア語の日常会話はできるが、条約用語となると全く別の話だ。「関税の暫定的猶予」と「関税の恒久的免除」を同じ言葉で表現する言語で、どうやって正確な交渉をするというのか。


(まあ、やってみればおわかりになるでしょう)


三日後、マルタが交渉の顛末を報告してくれた。


「旦那様が大使に『恒久免除』の提案をされたそうですが、大使は『暫定猶予』と受け取ったそうで——」


「あら」


「それから、乾杯の際にカレリアの作法をご存じなくて、左手で杯を上げたそうです」


「左手?」


カレリアでは左手の乾杯は「この交渉に価値はない」の意味だ。以前カレリアの大使にその作法を教えていただいた時、「これを知らない外交官は二度と食卓に呼ばれません」と笑っていたのを覚えている。


「大使はお帰りになりました。日程を繰り上げて」


つまり、怒って帰ったのだ。


マルタが少しだけ口角を上げていた。「大使は最後に仰ったそうです。『公爵夫人がいらっしゃれば、こうはならなかった』と」


大使の言葉は翌日の社交界に広まった。「グラナート公爵は外交の席で左手の乾杯をした」。貴族たちの囁きは蜜蝋の炎のように静かで、しかし確実に広がっていく。


ルドヴィクの面目は、完全に丸つぶれだろう。


(小ざまぁ——いえ、そんなことは思っていませんわ。ええ、思っていません。……少しだけ思いました)


ルドヴィクは執務室に籠もり、夕食にも姿を見せなかった。給仕の老人が「旦那様のお食事はお戻しになりました」と困った顔で報告してくれた。私は一人で食卓につき、干し葡萄のタルトを食べた。今日の焼き加減は、少し甘すぎた。


◇◇◇


同じ週。ヴィクトル・ハイデン宰相との非公式の会合を手配していた。


問題は、場所だ。王都の外れにある茶館を指定されたのだが——。


三十分後、私は全く見覚えのない路地に立っていた。


手元の地図を広げる。自分で写した地図だ。道の名前も、交差点の位置も、正確に記してある。間違いない。


間違いないのだが、私はこの地図を読めない。


(右に曲がれと書いてある。右に曲がったはずだ。なのになぜ、出発地点に戻っているの?)


三度目に同じ噴水の前を通過した時、背後から声がかかった。


「お探しですか」


振り返ると、白いリネンのシャツの男が立っていた。宰相にしては質素な旅装。外套の襟を立てて、帽子も被っていない。銀縁の眼鏡の奥の目は冷静だが、口元がかすかに緩んでいた。


ヴィクトル・ハイデン。ノルデン王国の宰相。「北方の狐」。書簡では何度もやりとりをしているが、こうして直接顔を合わせるのは半年ぶりだ。


書簡で想像していたより、背が高い。


「宰相閣下。お恥ずかしいのですが——」


「地図はお持ちですか」


「持っています。読めないだけです」


ヴィクトルの眉が一瞬上がった。


「……地図を描ける外交官が、地図を読めない」


「ご存じでしょう? 書ける人間と読める人間は、必ずしも一致しませんわ」


「初めて聞く論理だ」


声に笑いが混じっていた。書簡の文面からは想像できない、低く穏やかな声だった。


茶館まで並んで歩いた。石畳の道は狭く、すれ違う人を避けるたびに肩が近づく。ヴィクトルの歩幅は私に合わせて小さくなっていたが、本人はそれに気づいていないようだった。


◇◇◇


茶館は薄暗く、薬草と炒った麦の匂いが混じっていた。壁の木材が古く、湿気を含んだ独特の匂いがする。窓際の席に向かい合って座ると、ヴィクトルは真っ先に薬草茶を二つ注文した。


私は黒い封蝋の手紙についてヴィクトルに相談した。不貞の証拠であること。これを使えば婚姻無効を申し立てられること。


「白い結婚を根拠にするのであれば、証拠の信頼性が重要だ。書簡は他にもあるかもしれない」


「ええ。もう一通、ルドヴィクから愛人への返書があります」


「内容は?」


「甘ったるい恋文ですわ。文学的な価値は皆無です」


ヴィクトルの口元がわずかに動いた。笑ったのか、呆れたのか。


「……そうか」


運ばれてきた薬草茶を一口飲んで、視線を窓の外に向けた。何か言いかけて、やめたように見えた。


「公爵夫人」


「はい」


「焦らないことだ。証拠は十分に揃えてから動く。拙速は外交でも——離婚でも同じだ」


外交と離婚を同列に並べる宰相は、さすがに初めてだった。けれど不思議と、的確だと思った。この人は言葉の選び方が独特だ。感情を挟まず、事実と論理だけで相手を安心させる。


(書簡の文面と同じ。……いえ、声で聞くと、少しだけ温度が違う)


会合を終えて茶館を出る時、ヴィクトルが言った。


「次の会合は——場所がわからなければ、書簡でお知らせください。迎えを出す」


「宰相閣下が迷子の案内をなさるのですか」


「……副官に任せる」


耳の後ろが、ほんの赤かった。


気のせいかもしれない。光の加減かもしれない。


けれど帰り道、密書の束には目を通さず、ヴィクトルの追伸を開いた。


「先日の茶葉の件、次回の書簡に同封します」


追伸は、いつも一行だけだ。けれどその一行が、書斎に戻る足取りを少しだけ軽くした。夕暮れの王都の石畳は乾いた風に冷えていたが、不思議と寒くなかった。


次の密書に、私はまだ気づいていない。あの手紙の奥に、不貞よりも遥かに深い闇が眠っていることに。

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