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白い婚姻の果て  作者: 秋月 もみじ


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2/10

第2話 封蝋の色


封蝋の色で、手紙の中身はだいたいわかる。赤は友好。青は公式。銀はノルデン王国。——ただし黒い封蝋の意味だけは、まだ知らなかった。


三年が経った。


朝の書斎。薬草茶——カモミールとミントを混ぜたもの——の湯気が、窓からの光に白く浮かぶ。


樫材の机の上に書簡が六通。赤が三通、青が二通、そして銀が一通。


銀の封蝋を割る。羊皮紙を開いた瞬間、かすかに銀木犀の香りが鼻をかすめた。ノルデンの国花だ。三年間、この香りだけは変わらない。


書簡の内容は関税率の改定提案。数字の根拠が三段階で示され、反論の余地まで計算した上で、こちらが飲める着地点を最後に提示している。三年前に初めてやりとりした頃は語尾に若さが残っていたが、今はもう一切の隙がない。


相変わらず優秀な方だ。


そして追伸。


「お体に障りはありませんか。先月の書簡、少しだけインクが滲んでいました」


指先が止まった。先月の書簡。雨が続いて書斎の湿度が高く、羊皮紙が水分を含んでいた。それだけのことだ。


(インクの滲みに気づくほど丁寧にお読みになるのですか、宰相閣下)


追伸に返事を書く義務はない。ないのだが、私はいつも追伸には追伸で返している。外交上の礼儀だ。


◇◇◇


午後。義母エルヴィラの来訪があった。


月に二度ほど、この人は東棟を訪ねてくる。手土産はいつも焼き立ての胡桃パンだ。ほんのり甘い生地に、粗く砕いた胡桃がごろごろ入っている。焼き色は狐色で、割ると中から湯気と一緒にバターの香りが立ちのぼる。


「セレナさん。今日は胡桃を少し多めに入れたのよ」


この人だけが、私を名前で呼ぶ。


義母は五十を過ぎた、穏やかな女性だった。かつては社交界の華と呼ばれたというが、夫——先代公爵——の死後は領地の離れで静かに暮らしている。


「お義母様、ありがとうございます。いつも美味しくいただいておりますわ」


「あの子は……不器用なのよ」


湯気の立つ茶杯を両手で包みながら、義母はぽつりと言った。


「母として、謝るわ。あの子があなたにしていることは——母として、恥ずかしい」


私は薬草茶を一口含んだ。カモミールの穏やかな甘みがゆっくりと舌に広がる。


「お義母様のせいではありません」


それ以上は言わなかった。義母の手が、テーブルの上でかすかに震えていた。この人はこの人なりに、息子の不出来を知っている。そして嫁に対してどうすることもできない自分を、責めている。


胡桃パンをひとかけら口に運ぶ。ほろりと崩れる生地と、胡桃の香ばしさ。


(……この温かさがなかったら、三年は持たなかったかもしれない)


◇◇◇


月に一度の夕食。夫との唯一の「夫婦らしい」時間だ。


食堂に入ると、ルドヴィクはすでに席についていた。赤い軍礼服。三年前と同じ服だが、肩幅が広くなっている。


「公爵夫人」

「旦那様」


これが挨拶の全てだ。


給仕が黒麦パンと塩漬け豚のスープを運ぶ。スープの表面に浮かぶ脂の粒が蝋燭の光を反射し、パンを千切ると中から湯気が立つ。


「カレリアとの交易路の件は?」


「来月の使節団で最終合意の見込みです」


「そうか」


スープを掬う音だけが、広い食堂に響く。ルドヴィクの目は私の向こう側を見ていた。窓の外かあるいは、ここにはいない誰かの方を。


「交易路が開けば歳入は一割増えます。報告書は明日中にお届けしますわ」


「任せる」


任せる。三年間で最も多く聞いた言葉。


食後の干し葡萄のタルトが運ばれてきた。私の好物だ。バターの結晶がきらきら光る焼き色の上に、干し葡萄が宝石のように散らばっている。一口含むと、さくりと軽い食感のあとに葡萄の甘酸っぱさが広がった。厨房の老人が好みを覚えてくれているらしい。


ルドヴィクはタルトに手をつけない。甘いものが嫌いだと知ったのは、結婚三日目のことだった。


三年もの間、同じ食卓についているのに、私たちが共有したのは塩辛いスープとパンだけだ。甘さも、苦さも、分かち合ったことがない。


(任せてくださるのね。外交も財政も、全て。ご自分ではなさらないのだから、当然ですけれど)


◇◇◇


夕食後、書斎に戻る廊下でマルタが追いついてきた。


「奥様。……西棟から、女性の香水の匂いが。ここ数日、とても——」


「知っています」


子爵令嬢イレーネ・ド・モンフォール。社交界では「ルドヴィク公爵に想いを寄せる可憐な令嬢」。西棟に出入りするようになったのは、少なくとも一年以上前からだ。


香水は白百合。甘く、重く、廊下に残り続ける種類の香り。


廊下の窓から冬の庭が見えた。枯れた花壇の端に白い花が一輪。冬薔薇だ。毎年この時期に差出人不明で苗が届く。庭師に聞いても「存じません」と首を傾げるばかり。


(冬に咲く白い薔薇。花言葉は「静かな誇り」。……誰が送ってくださるのかしら)


書斎に戻ると、机の上に見覚えのない封書が置かれていた。


黒い封蝋。


紋章はモンフォール子爵家。封蝋にはまだ温もりが残っている。


(マルタの仕業ね。あの人が自分の判断で置くはずがない。……お義母様から預かったのかしら)


封蝋を割った。


中身はイレーネからルドヴィクへの手紙だった。甘い言葉の羅列。「あなただけが」「私の全て」「あの方には申し訳ないけれど」。


文字は丸みを帯びた女性的な筆跡で、インクは紫。高価な代物だ。手紙の端が香水で湿っている。白百合の甘い匂いが、指先に移った。


不貞の証拠としては十分。だが——今の私には使い道がない。


いいえ。まだ使い道がないだけだ。


封書を引き出しの奥にしまい、鍵をかけた。鍵をかける手が、一瞬だけ強張った。三年間知っていたはずのことを、文字で突きつけられると——やはり、少しだけ指が冷たくなる。


それからヴィクトル宰相への返信を書き始める。関税率の対案。数字を並べ、論理を組む。不思議なもので、ペンを動かしている間は指の冷たさを忘れられた。


追伸を添えた。「先月は湿気の影響でインクが滲みました。ご心配には及びません。お体にお気をつけて」


(報告書のような返事になってしまった。……まあ、いつものことですわ)


翌朝。机の上に、もう一通。黒い封蝋。今度はルドヴィクの筆跡。宛先はイレーネ。


誰かが、意図的に私に読ませようとしている。


薬草茶を一口飲んだ。カモミールの甘みが、今朝は少しだけ苦く感じた。

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