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白い婚姻の果て  作者: 秋月 もみじ


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第10話 春告草


東棟の部屋から荷物をまとめた。持っていくものは、三年間暮らした割に驚くほど少なかった。


翡翠のインク壺。母の形見。何を置いていくことになっても、これだけは絶対に手放さない。


数冊の本。外交の参考書と、カレリア語の辞典と、ノルデン語の文法書。最後の一冊はこの三年間で一番頁をめくった本だ。ヴィクトルの書簡を正確に読むために。


(……書簡を読むためだけに一国の文法書を暗記した女を、世間ではなんと呼ぶのかしら。外交官? それとも)


考えるのをやめた。


そして、薄紫の旅装。


濃紺のハイネックドレスは置いていく。あれは鎧だった。首元まで覆い、感情を隠し、三年間の私を守ってくれた鎧。もう必要ない。


薄紫のドレスは、自分で選んだ。マルタと一緒に仕立屋に行って、生地を選んで、襟元は少しだけ開けた。首筋に風が当たる。三年ぶりの感覚だった。


◇◇◇


マルタが荷造りを手伝ってくれた。


「奥様。……いえ」


マルタが言い直した。


「セレナ様。どうか、お元気で」


「マルタ。ありがとう。三年間、あなたがいなかったら——」


言葉が詰まった。マルタの皺の深い顔が、滲んで見える。


「胡桃パンの焼き方はお義母様から教わりましたから、忘れませんよ」


笑った。二人で笑った。


笑ったあとに、ほんの少しだけ静かな時間が流れた。暖炉の火がぱちりと鳴った。三年間、毎朝この音を聞いた。この書斎の空気を。樫材の机の手触りを。鉄格子の窓から差す月明かりを。


「マルタ。この部屋の鉄格子、一度も好きになれなかったわ」


「私もです。奥様には、もっと明るい窓が似合います」


(ノルデンの港町には、窓が大きくて日当たりが良い家があるらしい。薬草園付きの)


エーリッヒの「独り言」が頭をよぎった。


◇◇◇


義母エルヴィラが見送りに来てくれた。


玄関の石段。朝の光が義母の白髪を照らしている。手には小さな包み。開けなくてもわかる。胡桃パンだ。


「旅の途中で召し上がって」


「お義母様」


「あなたのおかげで、あの領地は三年間守られたわ。忘れません」


私は義母を抱きしめた。初めてだった。三年間、この人の温かさに助けられながら、一度も抱きしめなかった。


義母の体は小さかった。胡桃パンとカモミールの匂いがした。


「お義母様も、お元気で」


「ええ。……ノルデンの銀木犀が咲いたら、手紙をちょうだいね」


鼻の奥がじんと痺れた。けれど泣かなかった。泣くのはもう終わったのだ。全部終わった。だからもう、泣く理由がない。


代わりに笑った。義母も笑った。


馬車が来た。荷物を積み込む。翡翠のインク壺は自分の膝の上に置いた。窓の外で義母が手を振っている。マルタがその隣に立って、エプロンで目元を拭っていた。


馬車が動き出した。グラナート公爵邸が遠ざかっていく。鉄格子の窓。西棟のステンドグラス。三年間暮らした場所が、小さくなっていく。


振り返らなかった。


代わりに、膝の上のインク壺にそっと触れた。冷たい磁器の感触。この温度を知っている。ずっと知っている。


◇◇◇


港町ハーフェン。


ノルデン行きの船が、桟橋に停泊していた。潮の匂い。カモメの声。波が船体を叩くぽちゃぽちゃという音。


春の風が吹いていた。冬の風とは違う。角がない。柔らかい。薄紫のドレスの裾を、優しく揺らしていく。


甲板に、人影が一つ。


白いリネンのシャツ。宰相にしては質素な旅装。銀縁の眼鏡。風に髪が乱れているが、直す気配がない。


ヴィクトル・ハイデンだった。


目が合った。


ヴィクトルは何も言わなかった。甲板の手すりに片手を置いて、ただ立っていた。待っていた。


私は桟橋を歩いた。一歩、二歩。足元の石畳の隙間から、小さな紫の花が覗いている。春告草。ノルデンでは「雪を溶かす花」と呼ぶそうだ。


——誰に聞いたのだったか。


ヴィクトルの書簡だ。二年前の追伸。「ノルデンの港に春告草が咲きました。こちらでは『雪を溶かす花』と呼びます」。たった一行。


(この人の追伸を、わたしは全部覚えている)


甲板に上がった。ヴィクトルの前に立った。


「宰相補佐官の着任は来月です」


「ああ」


「今日はただ、船に乗りに来ました」


ヴィクトルの喉が動いた。何かを飲み込むように。


「……名前で、呼んでいただけますか」


声が——初めて聞くほど、小さかった。宰相の声ではなかった。「北方の狐」の声でもなかった。ただの、二十九歳の男の声だった。


「セレナ、と」


手を差し出された。


白い、細い指。書簡を綴る手。追伸を書く手。菓子は間違えても茶葉は間違えない手。


私はその手を取った。


指先が温かかった。書簡の紙越しではなく、封蝋越しでもなく、初めて直接触れるヴィクトルの手は——思っていたより温かかった。


「ヴィクトル」


名前を呼んだ。初めて。「宰相閣下」ではなく。


ヴィクトルの目が一瞬見開かれて——それから、笑った。書簡の追伸と同じ温度の、静かな笑みだった。


「……三年間、その名前を呼ばれるのを待っていた」


「……それは外交辞令ですか」


「いいや。職務上の判断でもない」


初めて、嘘をつかなかった。


「……あの冬薔薇は」


「え?」


「毎年、公爵邸に届いていた冬薔薇の苗。差出人不明の」


ヴィクトルが視線を逸らした。海を見ている。耳の後ろがほんのり赤い。


「……書簡に、好きだと書いてあった。三年前の追伸に」


三年前。三年間。毎年欠かさず、冬薔薇を。


(この人は——三年間、ずっと)


手を握り返した。強く。


船が動き出した。港が遠ざかっていく。グランディアの海岸線が、ゆっくりと水平線に溶けていく。


甲板に並んで立った。二人の間には腕一本分の距離がある。近すぎず、遠すぎず。三年間の書簡の距離感が、そのまま体の距離になっている。


風が変わった。ノルデンの風だ。銀木犀の香りは、まだしない。けれどきっと——もうすぐ咲く。


胡桃パンを一口ちぎった。義母の味。ほんのり甘く、胡桃が香ばしい。ヴィクトルに半分差し出した。


「……甘いものは」


「胡桃パンです。甘くありません。——少しだけ甘いですけれど」


ヴィクトルが受け取った。一口かじって、ほんの少しだけ目を細めた。


「……悪くない」


笑った。


わたしの名前は、セレナ。


今日から、誰かのための私ではなく、わたしのために生きる。


港の石畳の隙間で、春告草が早春の風に揺れていた。

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