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白い婚姻の果て  作者: 秋月 もみじ


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第1話 白い初夜


処刑台の上で、あの人は私を見た。——三年ぶりに、初めて。


広場を埋めた民衆のざわめきの向こう、鎖に繋がれた男の目が、まっすぐ傍聴席を射抜いた。


赤い軍礼服の代わりに纏った囚人服は薄汚れていたが、背筋だけは伸びている。あの人はそういう男だ。見栄の鎧を最後まで脱がない。


私はその視線を受け止めて、唇の角度を三十度に保った。外交の場で何百回と使った、相手に安心感を与えるための微笑み。感情はどこにも乗せていない。


(ここに至るまでの千と九十五日を——語らなければなりませんわね)


◇◇◇


三年前。冬。


礼拝堂を満たしていたのは、蜜蝋の蝋燭の甘い匂いだった。


セレナ・エルンスト。二十一歳。伯爵家の三女。美貌でもなく、魔力でもなく、家柄の力でもない。取り柄は三ヶ国語を操る舌と、条約文の一字一句を暗記できる頭だけ。


それだけを武器に、ここまで来た。


花嫁衣装の絹が肩に食い込む。この国の婚礼衣装は花嫁の品格に比例して重くなるそうだが、ならば私の品格は鎧騎士と同等らしい。


(せめて裏地をリネンにしてくれれば、肩の負担は三割減るのに。今はそれどころではありませんわね)


祭壇の前に立つ男。ルドヴィク・フォン・グラナート公爵。二十四歳。王国北東部の要衝を治める若き英雄。辺境の蛮族討伐で三度の勝利を挙げ、社交界では武勲談に花を咲かせる人物だと聞いている。


赤い軍礼服がよく似合っていた。金の飾緒が燭台の光を弾くたびに、参列者のため息が漏れる。顎の線は刃のように鋭く、立ち姿には戦場で叩き込まれた緊張感がある。英雄と呼ばれるだけの器があることは——見ればわかった。


問題は、その英雄の隣に立つ私に、彼が一切の関心を示さないことだ。


ルドヴィクが私の手を取った。形式通りに。指先は冷たく、力加減は均等で、そこに好意も嫌悪もなかった。


「グラナート公爵夫人として、領地と民のために尽くすことを——」


誓いの言葉を聞きながら、私は祭壇の蝋燭を数えていた。十二本。左から三番目の芯がわずかに傾いている。あの角度だと蝋が片側に垂れて、燃焼時間が一割は短くなる。


(外交書簡の封蝋も、あの角度で押すと歪む。あとでマルタに——)


結婚式の最中に封蝋の品質を考える花嫁は、おそらく私だけだ。


式が終わった。参列者が拍手をした。白い花弁が宙に舞い、蜜蝋の匂いがいっそう濃くなった。


ルドヴィクは一度も、私の名前を呼ばなかった。


◇◇◇


披露宴の食堂には、百人を超える招待客がひしめいていた。


焼き上がったばかりの仔羊の塩釜焼きから、ローズマリーと焦がしバターの香りが立ちのぼる。給仕が注ぐ蜂蜜酒の金色が、銀食器の縁で揺れている。


ナイフを入れた仔羊の肉はほろりと崩れた。脂は十分だが、塩の粒が粗い。カレリア公国の宮廷料理人なら岩塩を細かく砕いてから下味に使い、焼き上がりに海塩をひとつまみだけ振るだろう。


(料理を批評している場合ではないのだけれど)


隣に座るルドヴィクは、向かいの侯爵と談笑していた。声がよく通る。笑い方も堂に入っている。


「公爵夫人はどのようなお方で?」と侯爵が訊ねた。


ルドヴィクは一瞬だけ私の方を見て、すぐに視線を戻した。


「エルンスト伯爵家の娘だ。語学に長けていると聞いている」


聞いている。——目の前にいるのに。


私に直接向けられた言葉は三つだけだった。

「パンを」

「ワインは赤で」

「公爵夫人、食事は済んだか」


三つ目だけ、かろうじて主語に私がいた。


「ええ。ご馳走様でした」


完璧な弧を描いた微笑みを返す。外交の場で鍛えた表情筋は、こういう時にも役に立つ。


(鍛える場所を間違えた気がしなくもない)


帰り際、給仕の老人が小さく頭を下げた。「お口に合いましたでしょうか」


「塩はもう少し細かい方が、仔羊の甘みが引き立ちますわ」


老人は目を丸くして、それから笑った。「さすがでございます。次の宴では改めますとも」


ほんの短いやりとりだった。けれどこの日、私の名前ではなく私の言葉に応えてくれたのは、この老人だけだ。


◇◇◇


婚礼の夜。


案内された部屋は公爵邸の東棟だった。鉄格子の窓から冬の月が差し込み、石壁に白い格子模様を落としている。西棟のステンドグラスの部屋はルドヴィクのものだと、侍女のマルタが教えてくれた。


マルタは五十を過ぎた、背の低い女性だ。母の代からエルンスト家に仕え、嫁ぐ時に一緒についてきてくれた。


「奥様。旦那様がお見えになります」


ルドヴィクが入ってきた。白いシャツ姿。解いた襟元が蝋燭の光に揺れている。


一瞬だけ、目が合った。


「今夜は疲れた。明日の朝、執務室で話がある」


それだけ言って踵を返す。足音が廊下に消えるまで、十二歩。数えてしまう癖は治らない。


マルタが私の髪飾りを外しながら、ぽつりと言った。


「奥様。お辛いのでしたら」


「ご存じでしょう? 政略結婚とは、そういうものですわ」


声は震えなかった。震えなかったことに、ほんの少しだけ安堵する。


マルタが部屋を出たあと、荷の中から翡翠のインク壺を取り出した。母の形見だ。


深緑の磁器に指先で触れる。ひんやりとした温度。母が条約文の翻訳をしていた頃——女性に外交官という肩書きが許されなかった時代に、唯一の仕事道具として使い続けたインク壺。


(お母様。あなたの娘は今日、公爵夫人になりました。……喜んでくださるかしら。それとも、呆れるかしら)


樫材の机に座った。羊皮紙を広げた。封蝋を温め始めた。


最初の書簡の宛先は、ノルデン王国宰相ヴィクトル・ハイデン閣下。先月の関税条約交渉の続きだ。あちらの宰相は二十六歳にして「北方の狐」と呼ばれる切れ者だという。文面から察するに論理は鋭いが、語尾に若さが残る。


ペン先にインクを含ませる。翡翠のインク壺から立ちのぼる、かすかな鉄と樹脂の匂い。


(泣いている暇はない。泣くつもりも、ないけれど)


書き出しの一文を記す。インクが羊皮紙に染み込むかすかな音。この匂いとこの音がある限り、私は私でいられる。


封蝋を溶かし、赤い蝋を落とし——印章を押す。


グラナート家の紋章。


私の家紋ではない。けれどこの紋章の下で綴る言葉が、やがて三つの国を繋ぐことになる。


そしてこの紋章を、私自身の手で手放す日が来ることを——この夜の私はまだ知らない。


その夜から、私の結婚は始まった。


終わりの日まで、あと千と九十五日。

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