第6話:広瀬 啓介
美来は、オレにとって本当の宝物だった。
彼女と出会ってから、オレの中にあった「乾き」は、嘘のように失われた。
これまで、どれだけの女と関係を持っても満たされなかった心の空洞が、彼女と一緒にいるだけで自然と埋められていく。いや、むしろ美来が不在と時間が「空洞」そのものとなっていた。
美来といる時間は、どれも特別で、どれも愛おしかった。
一緒に映画を見て、くだらないシーンで同時に笑ったり、感動的な場面で彼女が涙を拭う横顔を横目に見たり。
休日に並んでショッピングをし、オレはいつも彼女の持つ袋を全部引き受けて歩いた。美来が試着室から出てくる度に「どう?」と振り返る、その仕草がたまらなく可愛らしくて、オレは「似合ってる」としか言えなかった。
夜の街を一緒に散歩するのも好きだった。銀座の中心地を並んで歩く事も多かった。オレは元来女性と手を繋いて歩くというのが気恥ずかしくて出来ない性格だったが、美来はそういうのはお構いなしで、袖口をつかみ、スルッとオレの手を握ってしまう。そしてなんとはなしに恋人握りに持ち込まれてしまうのだ。
——オレにはもう、他の女はいらない。
そう思えるようになった。
かつてのオレは、女に飽き、女を使い捨てることでしか空虚さを紛らわせなかった。だが今は違う。美来と過ごす時間こそが「喜び」だった。それ以上を求める理由がなかった。
だから、美来以外のことに使う時間は、もともとオレ自身の趣味だったPCやネット関連、プログラミングの研究、そして仕事くらいになった。
金融機関——大手の投資銀行での仕事は、間違いなく充実していた。次々に飛び込んでくる案件を処理し、数字を積み上げ、上司に評価され、同期を一歩リードしていく。そういう実感は確かにあった。
だが、それでも一つだけ大きな不満があった。
——仕事時間が長すぎる。
平日の夜遅く、ようやく帰宅するとき、それがどんなに遅い時間でも美来は待っていてくれる。そして一緒に遅い食事を取るのだ。その笑顔に触れる瞬間の幸福感があるから耐えられたが、正直もっと一緒に過ごせる時間を欲しかった。美来と食卓を囲み、何気ない会話を交わし、隣にいる安心感に身を委ねる——そういう時間こそが、オレにとっては仕事の成果よりも価値があった。
当初は会社の独身寮から通勤していた。
だが、そこには決定的な問題があった。——女性を中に呼べないのだ。
週末も美来と会えない生活など、オレには考えられなかった。だから、オレは平然と美来の実家に泊まり、そのまま会社へ通う生活を始めた。
やがてそれが会社に知られ、上司から「寮を使わないなら退寮届を出せ」と注意を受けた。だがオレにとっては、そんなことどうでもよかった。
むしろ、寮の規則に縛られるくらいなら、さっさと美来と結婚してしまった方がいい。
そう決断したのは自然な流れだった。
周囲は驚いた。
「広瀬が真っ先に結婚?」
「アイツは一生遊んで暮らす奴だと思ってたのに」
同期も先輩も、皆口を揃えてそう言った。
だが、結婚式に来てくれた仲間たちは新婦を見て、すぐに納得した。
——そういうことか。
美来の「天然の可愛らしさ」を前にすれば、誰もが腑に落ちるのだ。
彼女はただ可愛いだけの女ではなかった。どこか無邪気でありながら、時にオレを窘め、何か差し障りがあれば、すぐにサポートしてくれる母性的なものも備えていた。
醤油差しで小皿に醤油を注ぐのを、オレ自身が気づく前にもう美来がオレの分まで済ませてしまう。実はオレはそういう事については本当に不調法に育てられた為全く気が回らないタイプだったが、そういう事を全部、何も言われなくても美来が完璧に対応してしまうのだ。
啓介に必要なのは、この女性だ——誰もがそう確信していた。
だから、結婚式の場は祝福に包まれた。
オレは同期の誰よりも早く、人生の伴侶を見つけ、家庭を持つことを決めた。
「結婚なんて無縁」だと思っていた自分が、誰よりも先にその道を選んだのだ。
もちろん、その場に沙良の姿はなかった。
オレは呼ばなかったし、彼女もそれを望まなかった。
もし呼んでいたら、あの祝福の空気を壊していただろうか?いや、沙良に関して言えば、そういう事は無かったと思う。ただ、オレと沙良との関係を知っている旧友も同席している場所に呼ぶのは、流石にマズいという位はオレでも分かる。
だから沙良には招待状も送らなかった。
——こうして、オレと美来は夫婦になった。
美来はオレの妻であり、恋人であり、母となってくれるたった一人の存在だった。
オレはその時から、外で食事をするよりも、遅くなっても家に帰る事を好み、仕事よりも家庭での時間を大切にするようになった。効率よく仕事をこなし、それによって己の評価を勝ち取る事がオレにとっては重要になっていた。
ただ、金融業界というのは、それだけで時間の制約を色々と生じさせる業界ではある。そして社会的地位や給与レベルの高さよりも、オレはとにかく美来との時間の方が余程重要になっていたので、見栄だけで投資銀行なんぞに就職した事をぼちぼち後悔するようになっていた。
いずれ頃合いを見て、IT領域に転職することは、オレの中では割と早い時期に決めていたのだ。